記憶は生き物だと思います。呼吸していて傷つけると痛がって。
大抵の思い出のなかの登場人物には、私の血がかよってる。だって私の記憶なんですから。でもその血の温かさにこわくなることがあります。そして本当に私の温かさなのか分からなくなることも。
そういう話をしようと思います。
私が勝手にオデットとオディールと呼ぶ二人。友人、というより知人くらいの仲。
一人は小学校のときのクラスメイト。母子家庭で、美人の母親はエキゾティックな中国人で、その子は母親に生き写しみたいだった。
遊びに行ったとき(母親は寝てました)、テーブルには飲みかけのワインやチーズが乱雑にひろげられていて、その子は軽く舌打ちをして慣れた手つきで片付けだしました。私も手伝おうとして赤ワインが残ったグラスを持ったら、手が滑って割ってしまった。大きな音がしてフローリングに赤い液体がこぼれていく様を今もよく覚えています。
もう一人は高校で見かけました。いわゆるゴスロリというファッション。黒いアイシャドウが似合ってた。私の父が画家だと知ると、「アトリエ、とか憧れるわ」と言って、私は、幼い頃父のアトリエのベランダに座り、向かいの家の葡萄のツルを見て「パリ(当時の私の美の象徴はパリでした)みたい」と思ったのを思い出しました。でも、どうしてかその子には「アトリエなんてないよ」と嘘をついた。何故そんな嘘をついたのか自分でも分かりません。
帰ってからベランダから向かいの家を見たら、もう葡萄は無くなっていました。アトリエにただよう絵の具のにおい。
(そういえばモディリアーニが死んだ翌日、妻ジャンヌが飛び降りたところには今でもモディリアーニの家の窓からみると赤い血のあとがあり、でもそれは赤い植物だった、というエッセイをどこかで読んだことがありました。誰だったかな。。)
ええと、話がずれました。二人。何故かその二人。
私はどうしても、二人を同時に思い出すことが出来ないのです。一人を思い浮かべると、もう一人が頭から消えてしまう。白鳥の湖みたいに。オデットとオディールは同時に存在できない。
人は人と接するとき、多かれ少なかれ無意識でも自分自身を相手によって変形させているのではないでしょうか。もちろんいい意味でも。たとえば十人と接したら十通りに変形する、私。
しかしながら一緒にワインを片付けた子と、ゴスロリの子とは、私は「同じ変形」で接していた。同じ私だったのです。その子たちを思い出す記憶にはその「同じ変形の私」が貼りついている。同時に思い出そうとすると「同じ私」が、だぶってしまう。だから思い出せないんだと思います。ドッペルゲンガーのように。そう、ドッペルゲンガーは会うと死んでしまうから。
でも、ちょっとその二人を対面させてみたい。私が死んだら、アトリエで。
「あの時割っちゃったのはグラスではなく西子ちゃんだったのかもね」
なんて話してほしいな。
もちろん赤ワインで乾杯して。
・・・結局、その子たちとの記憶に流れてたのは誰の血だったんでしょうね。私のじゃなくて血でもなくて、葡萄でつくった赤ワインなのかもしれない。
以下はマタイ福音書より最後の晩餐でのイエスの言葉。
「汝ら皆この酒盃より飲め。これは契約の我が血なり、多くの人のために罪の赦しを得させんとして流すものなり。われ汝らに告ぐ、わが父の國にて新しきものを汝らと共に飲む日までは、われ今より後この葡萄の果より成るものを飲まじ」

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