2017/6/23  23:39 | 投稿者: 時鳥

マウスホイールを回す音が、かりかりと鳴っている。
この音は、こおろぎの鳴き声にちょっと似ている気がする。
マウスホイールを回すと、秋の虫の鳴き声が出てくるマウスを作ったらどうだろう。
虫なのにマウスだけど。

みんなが同じ部屋で操作しているところを想像すると楽しい。
でもそれは、虫が鳴く秋の野原のイメージを元々持っているからであって、そうでない人にはおそらくうるさいだけで、楽しくもなんともない。
現実世界での経験や知識がないと、仮想世界が薄っぺらになる。
これは現実世界が仮想世界に持ち込まれて豊かになる例で、こうした例は30年前から今まで、かなりたくさん見られる。
この数年多くなってきたのは逆の例で、仮想世界が現実世界に持ち込まれて、新しい見方や楽しみ方を生んでいる。
コンピュータの内側と外側の境界がどんどん曖昧になってきていて、仮想と現実って切り分け方が、もう時代遅れみたい。
マウスもいずれなくなっちゃうかも。
1

2017/6/21  22:44 | 投稿者: 時鳥

初台のNTTインターコミュニケーションセンター(ICC)を訪れる。
5月から「オープン・スペース2017」というメディアアートの長期展示が始まっている。
たくさんある小部屋のうちひとつは、「リサーチ・コンプレックスNTT R&D @ICC」という企画展示に充てられていた。
部屋に入ると、入り口の右手にディスプレイとカメラ、プリンター、それからボタンのついたパネルがある。
所定の場所に立ってボタンを押すと、自分の顔が撮影され、ディスプレイに写真が8枚、並べられた。
本当の写真は1枚きり、残りの7枚は目の位置や鼻の大きさなどを微妙に変えた写真だ。
どれが自分の顔か、数字のボタンで選ぶように促される。
自分の顔を一生懸命捜すけれど、これだという確信が持てない。
明らかに違うのもあるけれど、「これが本物だ」と言われたら信じるものが4枚くらいある。
恐る恐る1枚選んだら、外れた。私の眉はこんなに太くないそうだ。
2回目の選択でやっと当たる。

自分の顔は普段、鏡でしか見ていない。
写真では左右が逆になるので、見慣れていないのだ。
と言い訳してみるが、もちろんこんなのは言い訳だ。
真正面という一番見慣れているはずのアングルで間違えるって事は、横顔や斜め方向になったら、さらに正解率は下がるだろう。

ふと、恐ろしくなる。
もしもの話だが、肉親が変わり果てた姿になったとして、本人確認のために死体安置所に出向いたとして。
もしかしたら私は、赤の他人を肉親と認定してしまうかもしれない。
何せ、自分の顔ですら自信が持てないのだ。
面変わりした遺体を見て間違いのない判定を下せる自信なんて、持てるわけがない。

私は極端な例かもしれないが、多くの人にとって死んだ人間の顔は見慣れないものだ。
しかも相手が肉親なら、動揺で判断力が狂う場面だってあるだろう。
人間の顔をコンピューターが判別できるようになってきているのだから、そろそろ、死体の顔を代わりに判定してくれるシステムが出来てもいいと思う。
生前の写真を何枚か登録しておくと、死体の写真と照合して、同一人物かどうかをかなりの高精度で判別してくれるのだ。
生前と死後の容貌の差も、システムなら計算して誤差を修正できるだろう。
写真ならデータを送るだけで済むから、人間が確認のために出向かなくてもいい。
行方不明になった人が遠い土地で亡くなった時にも、身元の判明する可能性が高くなる。
行方不明のその人の可能性がある場合だけ、届けをした人に連絡が行くのだ。
見ず知らずの人の死に顔と対面する機会が減る事にもなって、精神衛生の面からも良いと思うのだけど。
だって、別人でもきっと、目の前のこの人といなくなったあの人を重ねて見てしまうだろうから。
3

2017/6/20  21:29 | 投稿者: 時鳥

部屋の奥でアイロンをかけていた。頭がぼんやりとしていることに気付く。
風邪、貧血、低血糖、酸欠、可能性はさまざまにあるが、どうもこれは、熱中症というもののような気がする。
水道の水を多めに飲む。頭が徐々にクリアになった。
気温は30度に達していなかったと思う。さほど暑くないから、油断していた。

私は自分で立って水を飲みに行けたから、とりあえず熱中症を疑って駄目もとで水を飲んでみたけれど、人に頼まなければならない立場だったら、多分、我慢していただろう。
他の要因だったかもしれないし、ちょっとぼんやりしていただけで、そんなに不都合は感じなかったのだ。
毎年夏になると熱中症による高齢者の死亡事故が起きるけれど、あれって我慢強いお年寄りが人の手を煩わせまいと我慢して、見極めのボーダーを越えちゃうってケースが相当ある感じがする。
普段から体調を崩すことは多そうだし、こんな小さなことで、無駄足になるかもしれないことで、手間をかけさせたら悪いんじゃないかと思っちゃいそうだ。
4

2017/6/18  22:09 | 投稿者: 時鳥

キッザニアと言う施設があるのだそうだ。
そこに行くと子供はいろんな職業について、お仕事が出来るらしい。
子供じゃないし、子供もいないから、言ったことはない。
話によると、バスガイドとか獣医とかマクドナルドの店員とか、たくさんの職業が用意されているらしい。

選べる職業の中に、普通の会社員の社内業務があったらどうなるか想像する。
公園に遊びに行く時には出張申請、
消しゴムを失くした時には消耗品購入伺い、
上履きを買うからお金が欲しい時は仮払申請、
買った後にはおつりを計算して仮払精算、
新しいおもちゃが欲しい時には起案を書く。
おやつくらいなら消耗品購入伺いでいいことにする。
書いた後は、上司や総務や経理などの担当者を探して、スタンプラリーをしなければならない。
ハンコをもらう順序も大事。
でも、担当者は担当者で他の人のハンコをもらうために動き回っているから、見つけ出すのが一苦労だ。
担当者を探しているうちに、公園に行く時間がなくなったりもする。
・・・どうも、キッザニアに行かなくても出来るような気がしてきた。
なんだか、全員がほかの誰かにとっての鬼になっている鬼ごっこみたい。
それが会社員の仕事の全てってわけではないけれど、その側面もある。
2

2017/6/17  23:11 | 投稿者: 時鳥

「アルジェのイタリア女」というオペラを聴いていた。
作曲はロッシーニで1813年、ヴェネツィアで初演。
初演から現在まで一貫して大好評の、オペラ・ブッファの傑作。

アルジェの太守が献身的な妃に飽きて、「次はイタリア女がいい」と言い出したことから話が始まる。
太守の密命を受けた海賊は、襲った船で希望通りのイタリア美女をみつける。
これが本作品の主人公、イザベッラ。美人でしたたかで、頭の回転も速い。
連れて行かれたハーレムでも向かうところ敵なしなのだが、そこは今回では扱わない。

このたび、聴いていて気になったのは次のことだ。
「イタリアって、どこを指しているんだろう?」
初演当時、イタリアと言う国は存在しなかった。
台本ではイザベッラはリヴォルノ出身となっている。
リヴォルノはピサの近くにある町で、イタリア半島の付け根近くに位置するから、これは間違いなく、「イタリア」である。
しかし、現在のイタリア共和国の範囲と、この作品で言う「イタリア」が完全に一致するかとなると、疑問を感じずにはいられないのだ。
太守のムスタファは、シチリア人が連れてこられても満足したのか、サルジニア島出身では、内陸のミラノは、ユーゴスラヴィアの国境近いトリエステ、フランスのニースではどうか。
このうちどれかは、ムスタファの考えるイタリアには当てはまらない予感がする。

イタリアが統一される前から「イタリア」という言葉は使われていて、今、その頃の文章を読むと、つい単純に現在のイタリア共和国の範囲を脳裏に思い描いてしまうけれど、多分、本当は違う。
イザベッラは自分はイタリアーナだと言い、ムスタファはイタリアーナを妃に求める。
同じ時代だけれどこの2つの「イタリアーナ」にも、もしかしたらずれがあるのかもしれない。
2

2017/6/15  22:20 | 投稿者: 時鳥

横断歩道の青信号が点滅し始めた。足を少し急がせる。
すぐ後ろを、お年を召した男性の一群が歩いていた。
ちょっと呑んでいるらしく、たいへんに機嫌がよろしい。
彼らもまた、変わりかけた信号を見上げて騒いでいる。
一人が笑いながら叫んだ。
「ダッシュしたら、心臓止まるから!車にひかれる方がまだ楽だから!」

すごいせりふだ。
背を向けて、一人で笑いをかみ殺す。
本人がそう言ってんだから、そうなんだろう。
洒落にならない内容なんだけど、あっけらかんと言われるとひたすらおかしい。
3

2017/6/14  22:33 | 投稿者: 時鳥

銀座七丁目のガーディアン・ガーデンで影山紗和子さんの個展を見る。
「バクルームは地下」というのが個展のタイトルで、入ると、ドアのすぐ横から向こうの角まで、1枚の長い絵が続いている。
角をはさんで次の絵が、また次の角まで。そうして四方の壁の端から端まで絵巻物のように絵が続いて、ドアのすぐ横で終わる。終わったその絵は始まりとつながっていて、無限ループ構造になっている。
全体で「バクルーム」、1枚ごとの絵には「マジパンサスペンス編」「もぐら王国夕食会編」「改造人間もう見たくない編」などといったタイトルが付けられている。
絵だけれど、どんな絵か、何の絵か、と問われると返答に窮す。
絵の真ん中あたりに主人公らしき生き物がいて、残像を描きながら絵巻物の中をずーっと移動している。女の子だったのが帽子の化け物みたいになったり、猫だったのが河童になったり。怪しいサンドイッチの機械はネズミっぽいものをはさんでいるし、ぬいぐるみはかっさばかれて綿だか腸だかがはみ出す。
目のさめるような楽しい色彩感覚、ふやっと柔らかな、つついたらゆがみそうな線、かわいさとグロテスクが入り乱れたタッチ。夢かアリスの世界っぽいけど、夢にしては目まぐるしい。試験前とかに焦りながら昼寝をしている時、こんなだった気がする。
延々とループする不条理な世界の謎をちょっとでも解こうとして見入ると、癖になって、ミイラ取りがミイラになる。
画面の真ん中を横断する生き物はめまぐるしく変化して、2歩前と今ここでは、まったく違う姿に変わっている。
残像みたいに、分身みたいに、軌跡みたいに、絵は連続しているから、当人の意識は途切れていない。自分は自分だと思っているだろう。
けれど傍から見たら、同じ生き物とは思えないくらいに違ってしまっている。
実はわたしも傍から見たらこんなだったりして。
そんなことを、ひょいと思う。
数年前に描いた文章を読み返すと、確かに文章を書いた記憶はあるのだけど、今の自分とは違う人が書いたみたいに思えることがある。
1ヶ月前にした仕事がまったく記憶になくって、過去の自分に感心したり罵倒したりする。
あれって、ここに描かれている河童と2歩前の猫みたいなもので、わたしじゃない誰かのやったことに、もうなっちゃってるのかもしれない。現実逃避、責任回避。

参考:
http://rcc.recruit.co.jp/gg/
※会期は6月16日まで
2

2017/6/13  23:51 | 投稿者: 時鳥

旅もじゃ、というサイトで、観光映像大賞のノミネート作品が見られると聞いて、見に行った。
奈良を紹介するのは井上涼さんのアニメーション。
大分県はシンフロ部、スイスではアルムおんじみたいなおじいさんが都会の駅のディスプレイに登場して山に招き、宮城県登米市は当地のソウルフードをめぐって、おばあちゃんが大立ち回りを演じる。

それはそれで面白いのだが、それとは別に、サイトのゆるキャラが気になって仕方がない。
どうしてここに、文字。
2

2017/6/11  22:16 | 投稿者: 時鳥

府中市美術館で「浅野竹二の木版世界」展を見る。
1900年に京都で生まれ、1999年に京都で亡くなった木版画家だ。
当初は日本画家を目指していたが、木版画家に転向し、全国名所絵版画で名を知られるようになった。
それから自分で描いて彫って摺る創作木版画に重心を移し、90歳代になっても彫り続け、彫れなくなっても絵は死ぬまで描き続けた。
京都の街角を描いた30歳ごろの作品が、最初のコーナーの1枚目の作品だった。
舞台は京都だが、古さや重さは感じない。モダンで軽やかな風が吹いていて、とても自由だった。
年をとるにつれて、もっと自由になっていった。
不要なものはどんどん抜け落ちて、線は大胆に、残ったものは深みを増した。
柔らかな色彩の風景はほこほことし、創作木版画は迷いなくシンプルになった。
この人はもう何も怖くないみたいだ、と、80歳代の作品を見て思った。
「怖いもの知らず」とは違う。
この世の恐ろしい部分はたくさん見てきて知っているが、それでももう、怖くないのだ。
勝ち負けとか、これまでとかこれからとか、できるできないとかに頓着せず、今の自分に描けるもの、描きたいものを率直に描いている。
何も知らないのではなく、知った上で飾りなく無邪気で、曇りがないこと。
天衣無縫って、そういうもののことを言うんだと思う。
2

2017/6/8  23:18 | 投稿者: 時鳥

風呂あがりに化粧水をぺたぺたと塗る。

皮膚の水分量は風呂から出た直後は多いのだが、何もしないとわずかな時間でどんどん失われていく。
だから、風呂後のスキンケアはできるだけ早くに行って、水分が逃げるのを防がなければならない。

と、言われている。
今や常識となっている説で、雑誌や広告で繰り返し目にし耳にし、皮膚の水分量が急降下する様を表すグラフは脳裏に思い描けるほどに見慣れている。
実生活でも数十年間、何やら塗っているけれど、実のところ、あまりこの説を信じてはいない。
水分量が急降下するグラフは何十回も見ているけれど、スキンケアでこれだけ違いが出ました、というグラフを見た覚えがない。
一目瞭然なグラフには大変な宣伝効果があるから、あれば広告に使われるだろう。
なのに見た記憶がない。
ってことは、そんなわかりやすいグラフはないってことかもしれない。
化粧水を塗ることにほとんど効果はなく、気休めに過ぎないかもしれない。
と、ずっと疑っている。
ま、だとしても、別に構わないのだが。
効果以前に、塗ることがなんか気持ちいいから。
2

2017/6/7  23:59 | 投稿者: 時鳥

知らない番号から着信があった。
検索してみると、詐欺電話の番号だと教えられた。
親切な人が情報を集積してくれているらしい。

ふっと、思った。

誰かの過失か悪意かで、自分の番号がこのリストに載ったら、どうなるのだろう。
知り合いに電話をかけても出てもらえない、お店に予約の電話をかけても着信拒否される、出てもらえてもぞんざいな対応をされる、なんてことがすぐに思いつく。
迷惑メールフィルタがあるくらいだから、迷惑電話フィルタがスマホに付いてたって、何の不思議もないのだ。
あとは、怪しい仕事の勧誘電話が昼夜を問わずかかってくるとか。
飲食店ならともかく、せめて110番と119番と相談窓口の類には着信拒否されたくないものだ。
2

2017/6/4  22:35 | 投稿者: 時鳥

角を曲がると、髭面の男が刃物を構えて立っていた。
ぎょろりとした目と大きな刃先がこちらを向いている。
悲鳴はかろうじて飲み込んだが、一歩飛び退る。
いると知っていても、ぎょっとして心臓が跳ねる。
どうして博物館の考古展示室でこんな目に遭わなきゃならんのだろう。

國學院大學博物館の考古展示室には、縄文時代の男性と女性の等身大の人形が設置されている。
女性のほうはかがみこんで貝を拾っているからいいのだが、男性のほうは先端に黒曜石の矢尻が付いたヤリを手にしていて、あろうことか、それを角を曲がってくる人に向けている。表情もやる気にあふれている。私が鹿だったら倒されているところだ。
いることを知っていて健康な私でもこんなに心臓に悪いのだから、本当に心臓の悪い人が知らずに出くわしたら、洒落にならない事故でも起きやしないかとちと心配になる。
刃物をこっちに向けないでくれるだけでもいいんだけど。

このタイミングで國學院大學博物館に行ったのは、もちろん、高円宮家所蔵根付コレクション展を見るためで、そっちはもう大変に満足して、あと2回くらい見に行く気満々。
3

2017/5/31  21:49 | 投稿者: 時鳥

生ゴミの臭いをフルーティーな香りに変える薬剤が出来たという。
家庭用のスプレータイプのほか、ごみ収集車用にポリ缶タイプも販売されるそうだ。

金木犀がトイレの匂いになったのと同じ現象が起きるんじゃないかと、心配になる。
良い匂いだから金木犀の香りを選んだはずなのに、どこのトイレにも金木犀の芳香剤が出回ると、金木犀の香りがトイレを連想させるようになった。
おかげで本物の金木犀まで不当な扱いを受けている。

中国に桂林という街がある。
話によるとこの街には金木犀の樹がたくさんあって、秋になると街中が金木犀の香りに包まれるという。
この街のトイレの芳香剤は、何の香りをしているのだろう。
少なくとも、金木犀の香りではないような気がする。
自分の住む街はトイレの匂いがする、と住民が思ってしまうのは、街にとっても住民にとっても幸せなことではないだろうから。
2

2017/5/29  22:40 | 投稿者: 時鳥

「いつかチェコに行かなきゃ駄目だな」と。
ミュシャ展の会場で決意した。もう10年以上前のことだ。
その場には、連作「スラヴ叙事詩」の下絵と写真が何枚か展示されていて、連作の全作品がチェコのとある城にあることを伝えていた。
ひと目で、これはミュシャの本気の作品だとわかった。
絶対に実物を見たいが、スラヴ叙事詩は20枚の連作絵画作品で、1枚が非常に大きく、輸送は難しい。
そしてさらに重要なことに、これはチェコにとっては民族の宝だ。国外に出ることはまず考えられない。
となると、現地まで見に行かなければならない。絵を見るためだけにチェコまで行くなんて、酔狂が過ぎると思われるかもしれない。だが、ミュシャの「スラヴ叙事詩」にはそう思わせるだけの力があった。写真からでも伝わってくる力だ。

「いつか」はなかなか訪れなかった。健康で、平均寿命までまだたっぷりあったものだからのんびり構えていたら、予想外の事態が出来した。
なんと、「スラヴ叙事詩」の方が日本に来てくれるという。20点全点、展示替えなしで一挙公開。嘘みたいな機会到来だ。
かくして、チェコに行く代わりに六本木の国立新美術館に足を運ぶ。

会場に入り、絵の前で足を止めた。
何分間か一歩も動かず、巨大な絵を文字通り仰ぎ見る。
スラヴ叙事詩は、小さな作品でも高さ4メートル、大きな作品では高さ6メートル、幅は8メートルに及ぶ。
人生を賭けた仕事というのは、本当にあるのだと実感する。
この連作に描くために自分は生まれてきた。少なくとも、画家はそう信じていたに違いない。才能、財産、人脈、時間、自分の持つものを全部注ぎ込んで、この20枚を描いた。

アルフォンス・ミュシャは、チェコのモラヴィア地方に生まれた。
20代でパリに出て、たまたま名女優サラ・ベルナールのポスターを担当したことから一躍人気画家となり、フランスでもアメリカでも名声を博したが、後半生は故国に戻った。
「スラヴ叙事詩」は、故国に戻ったミュシャが17年をかけて描いた、スラヴ民族の歴史群像だ。
どれも力強い絵だが、1912年に制作された最初の3枚はことに気迫がみなぎっていて、圧倒される。
黙って見上げて畏敬の念に打たれた後、泣き笑いに近い微笑が浮かんでくる。
そうか、これが描きたかったのか。よかったねえ、描けて。

傑作と単純には言い切れない部分がある。
ミュシャを特徴付ける流麗な筆致はパリ時代より深みを増し、人々の喜びや嘆きを余すことなく表現する。建築、服飾、儀礼などの文物もよくよく調べて真面目に丁寧に描いている。色彩感覚も飛びぬけていて、叙事詩の名にふさわしい、詩的で典雅で荘厳な空気にあふれている。
しかし、色々なものを画面に詰め込みすぎて、全体的に取りとめがなくなっている部分もあるし、写実的な部分と夢想的な部分が入り混じっていて、どっちつかずな感じもする。
こんな大きな絵にしなくても伝えることは出来たんじゃないかと思わなくもないし、大上段に振りかぶり過ぎてて、押し付けがましい。
基本的にはこの人、画家ではなくイラストやデザインの分野の人なんだと思う。
1910年代から20年代にかけての作品だが、当時の現代美術と並べれば古臭いし、教会美術にしては画風がイラストっぽい。
離れて欠点を探せばいくらでも見つかる。
実際、連作が完成した直後にお披露目をした際には、ほとんど評価が得られなかった。
30年代にはナチスがチェコに侵略し、この連作を描いたミュシャは愛国者とみなされて連行され、何日も尋問を受け、釈放はされたものの、その後すぐに亡くなっている。
遺族が避難させなければ「スラヴ叙事詩」は破壊されて、現在まで残ってはいなかっただろう。

何年も全身全霊をかけて打ち込んだのに世間には受け入れられず、制作期間中に第一次世界大戦が始まり、世界は彼が絵にこめた願いとは裏腹に、戦争へと向かっていく。絵は逮捕の理由となり、死の遠因となる。
結果として「スラヴ叙事詩」は画家に落胆と不幸をもたらしたわけだが、それでも画家は「この絵を描かなければよかった」とは一瞬たりとも考えなかっただろう。
評価されないよりはされたほうがいい、逮捕も尋問もされない方がいい。
でも、この連作で問題とされているのは、そういう外側のことではないのだ。
自分で自分を恥じないで済むか、この世でやるべきことをしたか、とどのつまりは、死んで神様の前に出た時に申し開きができるか、ということなのだ。
こころざしは、覚悟を決めた人間の内部から生まれる光だ。
その光が作品の隅々まで満ち溢れていて、それがこの連作を人類の生み出した宝にしている。
欠点があっても、これより優れた作品がどれだけあっても、関係がない。
堅くて純粋なこころざしがここにはある。

故国を出て、パリで名声を得て、華麗な画風で美女を描いて社交界の寵児となった。
その時代の自分を後年のミュシャは恥じる。
故国のために民族のために、自分はこれまで何もしなかったと悔やむ。
後ろめたさを少しでもぬぐうために、スラヴ民族の歴史を描く。
壮大なスケールで、思いのたけをこめる。
最初の3作品を描いた時、彼は、自分の絵が役に立つと信じていたと思う。
民族の歴史に誇りを持て、と彼は言う。スラブ民族の苦難と栄光を掲げて、その末裔であることに自信を持て、と真正面から演説する。
しかし、その後に彼は一度、信じられなくなったらしい。無条件の礼賛が少し曇る。悲惨な歴史を描いて、救いがない。
このまま先細りになってもおかしくないのだが、20年代に入って、絵が別の光を帯びる。
希望、と言ったらいいだろうか。
過去を描きながら未来を二重写しにして、こうなって欲しいと言っているみたいな作品だ。
ミュシャ個人の思い入れが混じっていて、歴史画としては適切ではないのかもしれない。
しかし、もう一度、こうなれるかも知れないという希望を観る人に与える。

神様の前に出た時に申し開きが出来るか、とついさっき書いた。
神様の前でこの人は、後悔の言葉を述べたかもしれない。
自分の絵は人を動かすことが出来なかった、世界は何も変わらなかった、と。
でも絵には、もう固まって動き始めた現実の流れを別の方向に変えさせる力なんて、元々ほとんど備わっていない。
その代わり、現実ではまだ誰も見ていないものを形にして見せて、迷っている人々を少しだけ引き寄せることはできる。よくない道を選ぶ人が少し減るのだ。
「スラヴ叙事詩」は現在をすぐ変える薬ではなく、未来の行動に対して影響を及ぼす、遅効性の薬だ。効力はまだ切れていない。
病気をあっという間に治す特効薬は、凄いものに見える。
だが、そもそも病気にかからなくする予防薬のほうが、実は特効薬よりも凄いのだ。
治る以前に病気にならないのだから、損失が一番少なくて済む。
ミュシャが魂をこめた「スラヴ叙事詩」は、きっと人類が良心を保つために生み出された予防薬のひとつなのだと思う。
4

2017/5/26  21:19 | 投稿者: 時鳥

送話口に向かって「バイバイ」や「じゃあね」と言うと切ることのできる電話が出来たのだそうだ。
カスタマイズで、「バイビー」にすることも出来るという。

バイビーって、久々に聞いた。まだ使っている人がいたのか。
記事の趣旨とは違うところに感心する。
しかし、「バイビー」で切るのは、考えてみれば良い案だ。
「バイバイ」だと、売買契約の話をしている最中に何度も電話が切れる可能性がある。
「じゃあね」も、日常会話の合間にしばしば顔を出す。
となると、普段まったく使わない「バイビー」で切ることにした方が、問題は起きにくい。

普段使わない言葉って意味では、「バイナラ」でも良いと思う。
「バイバイキーン」もありだ。
街角でいい大人が「バイバイキーン」と言っている光景を想像して、微笑む。
そうすると、かかってきた電話を受けるための呪文は、もちろん「ハーヒフーヘホー」になる。
4




AutoPage最新お知らせ