「『PERSONA -trinity soul-』第20話『おもいで』感想」
アニメ
いやだなぁ…こんな可愛い子が女の子のわけないじゃないですか。
↑はCV:風浦可符香で再生してください。というわけで慎と洵(結祈)のデート回でした。ダメだなコレは、結祈かわいすぐる。頼むから俺をショタに目覚めさせないでください、お願いします
(←アニメでのマコちゃんでもう手遅れ気味)。洵を演じる必要がないからか、結祈の声がいつもより女の子っぽくなってたりして、改めて沢城みゆき嬢の演技には舌を巻かざるを得ない。関係ないが、くじらのはねが道行く人に無意識に踏まれるていくカットは、「集合的無意識がそれこそ人々に気付かれずに踏みにじられている」ということの暗喩ととらえるのはやや勘ぐりすぎ?
風邪で休んだ(という仮病の)慎をネギでお見舞いなんかして相変わらずお嫁さん気取りの守本さん。しかしまあ、どうにもこうにも空回りばっかですねぇ…。内藤的には慎の嫁は結祈でFAなのですが、それだと倫理的に完全アウト(同姓かつ近親)なのですよね。だがしかし、アニメだから関係ないぜ!そんなこと言ってたらキタロー×アイギス(近親どころか人間ですらありません)なんて絶対に成り立たないしな。
・真田「勝手に(あがって)すまん」
そういうことはチャーハン作る前にも言いましょうね。
諒の部屋に入るのは断りを入れ、それでいて勝手に家にあがって勝手にチャーハンを作り、「アイソトニック飲料はないのか?」などとほざく男、真田明彦さんのデリカシーがどこにあるのか僕にはさっぱりわからんです。
ファミレスで結祈、めぐみと一緒にいたのはダンス部の人々…だよね、文脈的に考えて。高等部に入る前に部員に洵を紹介しておこう、てなめぐみの計らいかな。とはいえ、結祈がダンス部への入部を希望していることを洵は知らないんじゃないのかな?そのことが結祈の口から出されたのは洵がいなくなった後の19話ですし。それ以前から結祈と洵の間でそのことについての意識の共有がされてたのなら話は別ですけど。
ただ、慎とデートしてみたり、ダンス部の人々と積極的に交流しようとする結祈の姿がちょっと哀しく映るのです。洵がいないうちに、叶えられる自分の望みを叶えようと生き急いでいるような。そう見えるのは、やっぱり常に二人であるがゆえに、それぞれがそれぞれに折り合いをつけながら生きてきたんだろうなぁ…と想像させられるからなのかなぁ。たとえば結祈がさる男性に恋をしたとしても、相手が男性である限り、洵にして見れば愛情を注ぐ対象としてその人を見るのはかなり難しいでしょうし。双子とはいえ、洵と結祈が別の人格である以上、そこら辺の気持ちを共有するのは難しいよなぁ…。
あるいは身体の性別が洵のものである以上、結祈が彼に譲ることが多かったのかもね。そう考えると、ますます今回描かれた数々のシーンが切なく見えてくるなぁ。
慎が「見たことない」といった像は、ローマ神話の
ヤヌス神に似てますな。二つの顔を持つこの神は二つの人格を持つ洵のペルソナ…というわけではなく。誰のペルソナなんだ?守本さんが出したペルソナとも違っていたし。おそらくはこのヤヌスの像が今後のカギの一つになるんじゃないかな、と思うのだけど。
で、守本さんのペルソナが解放された件。今まで俺は守本さんの中のモーリーさんがマレビトに利用されている、と思ってたのだけれどそうじゃなくて、「慎たちの友人の守本叶鳴」が主人格なのではなく、「マレビトのモーリーさんとしての守本叶鳴」が主人格だったのね。つまり利用されていたのではなく、もともとマレビトのメンバーであったと。なんでこの可能性に今まで気付かなかったんだろうか…。影抜きを流行らせていたモーリーさんなる人物も守本さんと別人なのではなく、マレビトのA潜在探しのために彼女がやっていたことであれば納得。ラストで見せたペルソナの巨大さから、彼女のものも複合ペルソナである…のかな?
にしても楢崎さんの尾行は相変わらずヒドすぎる。彼が監視してたのは洵、なんだけど。「目論見通りに事が運べば、誰よりも危険な目に遭うのは…」という伊藤さんのセリフに続くのは「洵」だったのでしょう。マレビトは洵の能力を知っているわけで、だからこそ彼の動きを監視して、マレビトの手から彼を守る必要があった、と。
結果的に拉致されましたがね!楢崎さん、本当にダメだこのひとは。厄介な慎が離れたスキを狙って有働と沙季は洵を拉致しにかかったのだろうけど、つまりそれは彼らにも楢崎さんが軽視されているってことだよなぁ…有働は楢崎さんが洵を尾けていることに気づいていたのだし。
洵と諒がいたのは無意識の世界。ここからくじらのはねを通じてアヤネや諒、統馬は現実世界に顕現していたのかな。洵は現実世界に戻っても精神の器があるからいいものの、果たしてまだ諒のそれが残っているのかどうか。可能性は薄いかなぁ。まあ器がなくとも、意識が存在しているなら拓朗の父のように別の器で現実世界に現れることもできるか。
くじらを集合的無意識とするなら、どちらもその断片である、という点でペルソナとくじらのはねはある意味で同質のものと言えそうですね。