2018/9/17

埒(らち)について  川柳

河野春三は、自作の川柳と時勢との関わり合い、あるいは関係性についての厳しさを示すことがあった。
『河野春三川柳集』から引いてみる


昭和23年〜24年

  陋巷の落暉に虚無の貌がある
  水栓のもるる枯野を故郷とす
  わが胸のジキルとハイド今日も無事

昭和25年〜26年

  寒夜覚めて履歴書しかと机の上
  短日の壁に浮浪は女陰彫る
  永いスランプ――しゃつの裏を着ていた

昭和30年

  炎天やわれら亡びず十年経たり
  プラカード倒るピエロは下敷きに
  今も眼底に ブランコの不逞垂る

昭和31〜37年

  母系につながる一本の高い細い桐の木
  炎天の その身をうずむ  父の椅子
  死蝶 私を降りてゆく 無限階段の繩
  救いなき傷 流木にある戦禍
  基地の一本もない老婆の歯をかえせ

ご覧のように、春三は川柳に在る遊興性に対して一線を隔していた。
川柳という文芸への関わり合いが、誰にも消費行為として在ろうとも、自身の発語、作句が何時頃に在ったかを示しておこうとしていた。

戦後の10年であれば、その時節の固有性が川柳に在ったとする川柳観を春三は抱いていたのだ。
後の時代から見れば、これらの川柳に在る発語の大方が川柳固有のものであるとは言い難いが、少なくとも、遊興性から離れた位相の発語がこのように在った。

戦後10年を経た同時期の川柳界で「彼女が私に句を見てくれ――と言ってきたのは昭和三十年頃であった。(中略)川柳と言えばその九十九パーセントが男性の手に成っている当時(後略)」と句集『新子』の序文に川上三太郎が書いている。
三太郎は、三太郎なりの、時節と川柳の関わり合いを発語として活字にしていたのであり、其処に、春三とは別の位置ではあったが、時勢と川柳との関わり合いを黙過していてはならないとする認識、つまりこの時勢のなかで川柳が川柳であるところの埒を広げるだろう、との観測があっただろう。
実際、新子を渦の芯にする私川柳は、その後、川柳という文芸の埒を押し広げたのであり、此れを最も強力に推奨すると共に自身も私川柳を書くことをもって埒の拡張に参加していったのが春三であった。
やや極論になるが、近、現代の川柳史の中で、川柳の埒を最も広げたのが「川柳に私の思いを書きましょう」のキャッチフレーズと其の膨張であった。




1

2018/9/8

冨二(4) 大きな曲がり角が在った  川柳

  つらら墜つ刹那もひかる飢餓の錐   小宮山雅登

  ボクの行く手にゴム手袋がびっしり  奥室数市

1959(昭和34年)「現代川柳」(現代川柳作家連盟発行)18、19号に在る。
連盟の機関誌で、加盟者の近作を牽く中の二句だと思われる。

そっと捲らねば破れる紙質の悪さと古さの中で出会った、半世紀を越す過去の川柳に在る、比喩とイメージ。
当時の革新的な川柳人の神経の働きが、「錐」「ゴム手袋」を曳き出しており、リアリティーに立つ作句で在ったことが見えるとともに、更に遠い戦後期の、いわゆる革新派の心性と川柳界の川柳観との違いを感得させる。
川柳という遊興性、それを否んだ革新派という史観は、理解し易くて、とりわけ両者の懸隔が最も広がっていた時節であったのだが、その両者の反発や無視を理解しながら、超然と行き来して、二年後に中村冨二は高名な『中村冨二句集』(刊行 山村祐、編集、松本芳味)を出して居る。
尤も、よき柳友たちに奨められて冨二が腰を上げた、との評判があり、冨二は、川柳一句の、いわば耐用年数、ライフサイクルの短さを能く認識していた感が在った。
掲出の二句の作者に、この辺りについての意識が在ったか、などを言うことは無聊でしかないが、近、現代川柳史というスパンに置いて見れば、この二句の主意を云々するより、二句の作句法が、川柳史的な転換期の質を孕んでいたと、見える。
川柳界と革新派と、両者に畏敬されていた冨二(同様の数人が在った)、それ等全部をひっくるめた川柳の曲がり角が見える。

2

2018/8/26

冨二(3)  川柳

ふと気付いたこと。

テレビの美術番組を見ていて、冨二の川柳は恣意的に、あるいは無意識でコラージュをやっていた、と思った。
そして近頃の川柳の状況が、みなさん、やっと、コラージュに達して、元気、元気。
だと思った。

冨二は1960年に出した句集の序で

「川柳という名に残されたモノは、技術だけである。という考え方は、当分変わりそうもない。」と書いて、多くの川柳人に????首を傾げさせた。

いま、コラージュ全盛の時期に至って、「残されたモノ」が、川柳の作句に日常化している感が在る。

尤も、冨二は、自分の句集を「『冨二が現在生きていることの、尻尾の様なモノだ』と、お考えくだされば倖せである」とも書いている。

冨二と云う山、その存在に登ってみる季節が来ていると感じられる。
2

2018/8/22

冨二(2」  川柳

今月、77歳になった。
何の感慨もない。
川柳に書いてやろうと思ったが、感慨の無いことを川柳にするのは存外、難題だ。
感慨が無いのだからと、さっさとやめた。

で、爺さんになって居る自分を575で如何様に書くかを冨二に求めたのだが、たしか68歳で逝かれたと―――。
数少ない資料から訊ね出した佳吟

  爺が通り 変てこな黒い影ゆき  中村冨二

1975(昭和50)年の「対流」誌に載っており、50歳代後半の作らしい。
らしいというのは「対流」誌の冨二の作品は旧作をどかどかと新作に混ぜて発表していたので、個々の句の作句が何時であったかが定めがたいのだ。
そしてこの一句は、一般的な老いと、やがて老いが來る自身を混交した書き方てあり、新旧混合の発表の仕方が在ることを持って「爺」の句語の定着が得られた―――と思われる。
冨二のおっさん、なかなかやってくれるなあ―――と、当方などボケはじめになって感心。 



4

2018/8/6

冨二(1)  川柳

ふと、気付いたこと

冨二は川柳との関わり合い、とりわけ作句の折に自分を許していた。
作句の時空に、何だか微笑ましい他者、微笑ましい自己を見て、突っ込むべき―――追及すべきを、中途半端に放擲すると川柳が顕われたのだ。

話していて、あの、気弱に見せる自嘲の相、柔らかさは、なにかを中断している、その重みの自覚の顕れであったのだ。

追及すると、川柳の範疇から飛び出してしまう、この自覚が作句になっていた。
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