2018/4/10

交代劇  川柳

監督を替えるという。

まあ、サッカーが好きなだけの位置からだが、此の数試合と其の結果などをなぞれば、なんだか演劇的な経緯が感得できて面白い。

東京オリンピックでアルゼンチンに勝った、あの数年前に、釜本という凄い高校生がいる、しかも京都に、と聞いて、見に行ったのだから、此方は古いオジンだ。
以後、日本リーグのヤンマーのゲームを何度も西京極へ見に行った。
真冬で、スタンドの下から上へ雪が吹き上がって来る状態での観戦などが思い出される。

面白いだけではない。ブラジルに勝ったゲームの中継など、点が入ってからは、終われ終われ、其のまま勝てと、テレビ相手に気を揉んだ。

サポーターは、ゲーム中での選手の交代を見るように、監督の交代を冷めた眼で見ればいいと、ある評論家が言っていた。もう20年前にもなるか、この言葉で、外国のプロの在り方が情緒を離れて理解できた。
それ以来、監督の交替劇に興味津々だから、我ながら嫌なサポーターだ。

しかし最も一生懸命に応援した選手は八重樫。日韓でのオリンピック予選の八重樫の動きは美しかったと、いまも情緒的になる。

ハードな視線に、突然、情緒が湧き上がる、これがサッカー観戦の愉快だ。

しかし、どうなるコトか、ねえー。
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2018/3/24

老いさまざま  川柳

・腹立たしさとともに、、いま俺はボケているとの自覚が作句の途中で再々、現われる。
川柳性を如何に使うかの、いわば芸に凭れる作句が多いので、内在する自己のリアリティーから浮き上がる作句の多い今日この頃。ボケに浸食されているのだと苦笑いをするよりない。
作句に蓋がピタッと閉まった感が行き渡ると如何ともし難い。焦ると自尊心が出て更に焦燥感が倍加する。
のんびりやれよ、と言い聞かせて作句を中断するまでに時間がかかる。
・昨日、芸の老化についての面白い記事を読んだ。
「演劇界」2017年12月号四代目 市川左團次へのロングインタビュウである。

立ち上がるにしても、お客さんがいるからお腹へ力入れてポンと立つけれど、ちょっと気をぬいたらよっこらしょって立っちゃうような年代になってからのほうが、大きさとかは出るのかもしれない。
(中略)
この間、俳優協会の名題試験があって、僕も試験管みたいに皆さんの見せていただいたんだけども、動きすぎというか、バタバタしちゃうんですよね。
(中略)
あの役はいい役ですよね。でも、くたびれるからなあ。歳取ってからやらせていただいた時は、曲者を槍で突いて落としてからのせりふがね、早口で言わなくちゃなんないし、息は続かないし、大変で。この頃は、病人の役とかがいいなあと思ってる人間だから。
1940年生まれで矍鑠だ。

・あちら様は名跡を継ぐ人。当方は一つ下で、半分病人のオジン。句会で聞こえずに呼名を怠る体たらく、いやはや、である。

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2018/3/14

エレキ  川柳

半世紀と少し前。
僅かであったが、職場のサークル活動を奨める空気が示された。労組の結成を抑える意向が見え見えだったが―――そこでテケテケテケのエレキブームに乗った数人が、「お前の厚顔無恥の厚かましさをもってクラブの結成と楽器購入の予算を獲って来い」と。
つまり、お前の音感などアカンが、顔だけ必要だったのだ。
サークルは無事?発足。毎晩、テケテケジャジャジャーンと練習というよりまあ愉しんだ次第。
テレビでチンピラ達のエレキを競い合わせるほどのエレキブームで、その中央にベンチャーズが存在して居た。
我らが無茶苦茶バンドは、テスコ、グヤトン、シンバルはジルジャンだったか、街の楽器店に日参して廉価かつ長持ちする楽器を求めて店員にイヤな顔されるほどにーーー。

数日前の新聞に、エレキの売れ行きが不振で製造販売会社の顔色が悪くなっているとの記事があり、今朝、ベンチャーズのバンドリーダーの訃報の記事があった。

若者の嗜好、其処に在る若者らしさが流行りの音楽になって、其れが世相の質を顕すはずだが、近頃、どうなってるのかな?

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2018/2/23

兜太さん  川柳

好著『今日の俳句』の読みの会を川柳の先輩達とともに近くのお寺の一部屋でやった。6人だったか7人だったか。好著に引用されている俳句がとても刺激的で皆コーフンした。
その前だったか、何処かの書物で川柳を機知と、概括された兜太さんだった。
さらに1964年に、川柳の河野春三の個人誌「馬」6号に、招待作品「三日月」8句が載って、これは、現代俳句を読まないとアカン、遅れる!と、数年間、書店で「俳句研究」を毎号、立ち読みした。 
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2018/2/17

晴  川柳

「晴」第1号」を頂いた。

「川柳を書く 川柳で書く 川柳する」(樋口由紀子)の文章が面白かった。
読んでいて、自分と川柳の関係性を思い、自身に内在する川柳性を思って、たちまち「内在する」という言葉のいい加減さに辟易することになったのだが、持ち前の厚かましさ、つまり現在時の意識の概略を思わせるエネルギーが樋口の文章に在るのだと思った。

さて私には、読者が2つ在って、一つは川柳人。いま書いている川柳人及び過去の川柳人。いま一つは世間の皆さんと他の短詩形文芸の皆々さんが居られる。

川柳を書かせる意識に持ってゆく何かが横軸に在って、書き方(川柳性)が縦軸に在る。(縦と横という語はどちらでもいいのだが)交錯する処で一句に成る。
つまり川柳には書き方比べの様相が付着しているのだ。
そして書き方の新規が現れると、多くの場合、書き方の在庫となると共に川柳人のものと成る。
砕けて言えば、スクイズもフォークボールも野球人に在るように、川柳性という書き方が川柳に在って川柳人の関心を引く、いや引かれる。此の辺りのいわば川柳の内部事情がそのまま世間に差し出されるのだから、川柳は実は、かなり付き合いにくい存在なのだ。

樋口が「を書く」「で書く」「にする」と表題にしたところには、川柳人に通い合っている作句の事情が在って、創刊号で数多の読者に向ける姿勢が在るようで、しかし、「川柳は分からない」(斎藤斎藤)の語に、応えにくい文章を書いたものかな、ご苦労さんと思った次第。

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