2021/7/2

刑事コロンボ  
刑事コロンボの再放送を見ている。
 子供の頃見ていた時は、とぼけたピーター・フォークの演技が面白い刑事ものと思ってたな。大人になって見ると、アメリカの映像表現やメディアリテラシーの変化が判って、イヤだなと思う部分も感想として新鮮に見ることができて面白い。

 コロンボはイタリア系移民の系統だから労働者たちからの協力が得られやすくて、家庭を大事にする派なのねとか、今なら一発で問題になる、ジェンダーや人種への差別の通奏低音表現、犬笛って呼ばれてる表現もあちこちにあるのね。
 作中に出てくるテレビ番組の内容が「生意気で無礼な黒人女の暴言を、理性的な白人男性がおやおや困ったなと言いながら聞いている」って図、フォーマットでもあるのかなってぐらいいろんな作品に出ていた。実際そういう番組は多かったんだろうな。

 それで思ったんだけど、日本のドラマやアニメの中にも「女子供や口うるさいモブが理不尽なことを主人公に言いたてたり要求したりするのに、なぜか主人公側は説明したり反駁することなく、ただ困るだけ」っていうシーンはものすごく多かったね。度重なる波状攻撃も、なかったもののように受け止めて「主人公かわいそう」って気分にさせるためだけに話が進む。
 昔は「なんでこんな不自然な展開を作るんだろう、エピソードも間延びしてつまらないのに」と不思議だったんだけど、
あれは海外ドラマの中の犬笛(差別したい相手を貶める目的で仕込むイヤなエピソード)を、その意味に気づかずに「主人公はまず可愛そうにみせるのが流儀」と誤解して、そんな話作りをデフォルトで組んでしまったんじゃないだろうか。

 個人的にその「可愛そう設定の押し付け」が嫌いで、20代の中ごろにはドラマもアニメも見るのがほとほと嫌になった時期があったのだけど、考えてみるとそういうシーンが一切なかったジブリ映画は楽しみに見ていた。「そういうこと」をしないクリエイターは、それだけで1段格があがっていたな。
 漫然と苦手だと思っていたエピソード作りの原型が、はっきり判りやすい差別の様式だったって事を、古いドラマを見ると判りやすいというの、リバイバルの効能かもしれない。(コロンボだけじゃなく、イギリスの昔の特撮番組「海底大戦争スティングレイ」でも同じ傾向だったメモメモ)


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