2015/7/24

お耽美雑考  
今回はまごう事なき年寄りのボヤキであります。(こういう事が気になるお年頃ってあるのよ!)

 最近、美しいものを美しいと言う事に障りを感じるようになってしまった。
 現実の中で「美しいものを優先すべき」だとか「美しいものを尊重するために道理を曲げるべき」とかいう理屈を見すぎてしまっているせいかもしれない。
 子供の頃、そういう理屈はギャグだったのよね。なにしろえこひいきできるほど美しいものなんて身近にあんまり見つけられなかったし、情報として入ってきても自分の感性にあわないものは「好き好きだねえ」とスルーして流してしまっていたから。そしてごくたまに本当に美しいと感じたものに対しては、それを誰かと共有することもはばかられ、ましてはそれを優先するために道を外れることなんて、露骨な外道としてバカにされる対象だったわけですよ。
 今は美しいものを発掘する情報力も共有手段もそれをPRする発信方法もたくさんあるから、感動を共有する幅はものすごく広がったと思う。みんなあれがイイって思うよね?と言いやすくなったのね。それはストレートな幸せの一つだと思う。
 でも、だから余計に「みんなが好きなあれのために、さあ一緒に道を外れよう」という話が出たとき、イヤイヤイヤイヤ!落ち着こうよ!と言い出しにくくなっているような気がするのだ。

 というのを、先日ブラックバイトのドキュ番を見ながらしんみり思った次第。
 私は美しいものに感動するのは危険だ、と自分が思うのはトシくったせいだと思っていたんだけど、ああいう現場で若い人がまさにその「美しい目標」を罠に危険な地雷地帯を歩かされているんだなと思うと、まことにやるせない。
 「仕事を通して社会に参加し責任を果たす」という大人になるための美しい目標は、本来はばかりなく目指していいはずのものだったのに、その目標が生活破綻って穴の上に掲げられているんだね。
 こんな清廉な美しさすら疑ってかからねばならないなんて、なんと苛烈であることか。

 政府広告なんかである「美しい日本の文化と伝統云々」なPRも、設定されれば該当しない文化に対する攻撃になるのは、トシくったおたくたちならみんな覚えている宮崎事件当時のアニメ漫画文化へのバッシングで経験済みだもんね。
 権威を与えるってことは武器を授けることと同義だと思う。
 宮崎事件当時は、叩かれたおたくらはもとよりアングラ生活が長かったから、何か飛んでくるたびとっとと隠れてやり過ごしていたけど、今の肥大化したサブカル人口にそんな対応求めるのは無理があるし、痛みも大きくなるんじゃあるまいかと心配だ。
3

トラックバックURL

トラックバック一覧とは、この記事にリンクしている関連ページの一覧です。あなたの記事をここに掲載したいときは、「記事を投稿してこのページにお知らせする」ボタンを押して記事を投稿するか(AutoPageを持っている方のみ)、記事の投稿のときに上のトラックバックURLを送信して投稿してください。
→トラックバックのより詳しい説明へ


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ