私的イーガン解釈(3)

2015/2/28 | 投稿者: ghost

注)本連載はグレッグ=イーガン作品のネタバレを含む恐れがあります。本稿を読んでもイーガン作品を楽しむ邪魔にはならないと思いますが、ご自身でボクと同じ(または異なる)解釈に至りたい方は読まない方がいいでしょう。

<<前回のお話

二〇二十四年、ボストンの神経外科医ジョン・ヴァインズが、完全な意識をもつ自分の<コピー>を、完成度の低い仮想現実の中で走らせた。現実時間でほとんど三時間がかりで(脈拍を急上昇させ、呼吸亢進に陥り、ストレス・ホルモンを多量に分泌しつつ)、史上初の<コピー>が発した第一声は−「これは生き埋め同然だ。気が変わった。ここから出してくれ」
(『順列都市』上巻 p.73)

かくして遂に、本連載の主題となる『順列都市』の世界に耽溺してみたい。もっとも、ここまでの「頭の準備体操」で既に溺死している人もいるかも知れないが、別にボク自身は誰に理解や共感を求めているワケでもないので、捨て置いて《発進》する。本作中の狂言回し、ポール・ダラムがそうであるように。

クリックすると元のサイズで表示します『ディアスポラ』において、人間知性の遠い末裔であるソフトウェア知性ヤチマは、二百兆の異なる物質宇宙の遍歴を経て、なおも不変な自己の《不変量》を確かめるべく数学の《真理鉱山》へと潜っていった。その含意するところの汲み取り様には読書子それぞれのリテラシによって浅深があると思うのだが、かの終幕の詩的な美しさに心打たれるという点については、ネット上のレビューを散見する限りにおいて、万人に共通するようである。

さて、これに対し前稿末で「この究極的に壮大に思われる『ディアスポラ』は、実はその極限ではない」と書いた。有り体に言えば、小説作品としての完成度では、『順列都市』は、『ディアスポラ』どころか他の凡百の小説にも遥かに劣る駄作であることを認めた上で、ボクがそれでも本作をしてイーガンSFの極限と判じる理由を、まず明らかにしたい。

一言に要約すれば「これは真に超現実(ハイパーリアル)の物語である」という言明に尽きるのであるが、読者側の理解力不足というよりは、本作執筆時点でのイーガンの筆力不足(あるいは日本語版訳者の能力限界)によってこれが必ずしも読者に理解されていないのではないか、という、極めて不躾な仮定のもと、それを私的に補ってみよう、というのが本稿の目指すところである。

不要とは思いつつ念のためにお断りしておくが、これはイーガンや訳者の山岸真を蔑んで言っているワケでは決してない。以下に述べるような思惟は、彼らがいなければボクは決して自ら思いつくはずがなかったのであるから、比べるまでもないが、知力で言えば彼らがボクなどよりも圧倒的上位であることは百も承知なのである。が、後々述べることになろうかと思うが、ボクは、少なくともイーガンは、自身の作品を起点として、様々な言説が生まれ続けていくことこそを期待して本作を書いたのだ、と信じているので、それに従うまでのことなのである。


本作品世界(の半分)のハイパーリアルさ加減を把握するため、ここで今一度『ディアスポラ』の模式図を振り返り、比較してみよう。

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<『ディアスポラ』後半の模式図>

前述したように『ディアスポラ』の世界は二百兆の宇宙を股にかけているという意味で気宇壮大なのであるが、あくまでもそれらは、作中の万物理論である《改良版コズチ理論》の範疇に拘束されており、知性・アイデンティティの発現は四/六次元宇宙の物質基盤の制約内にある。

無論、ヤチマたちはコズチ理論のルール違反すれすれのハイパーテクノロジーを操るし、世界設定を共有する『プランク・ダイヴ』ではそこからの逸脱直前までが描かれる(余談だが、おそらくこれはイーガンの念頭にティプラーのオメガポイントがあったのだと思う)が、しかし、彼らは決して万物理論やその根底にある数学自体を変更することは出来ない。繰り返すが、イーガン世界に魔法はないのである。

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<『順列都市』の模式図>

対する本作世界であるが、作中で万物理論に対する言及はないので上掲模式図では()付で示しているが、まぁ、これは自明に存在するとして問題あるまい。図左側が、常識的な意味での現実世界であり、普通の人間の代表として主人公マリア、本作中のソフトウェア化知性である《コピー》を最上部に載せているが、これが何を意味しているかについては最早説明不要だろう(わからない人は本連載を頭から読み直して欲しい)。

問題は図の右側、作中では“エリュシオン”と呼ばれることになる世界だが、呆れたことにこの世界は、数学のみに依拠していて、一切の物理基盤を持たない世界である。普通は、こういった世界を“魔法”と呼ぶのであるが、空恐ろしいことに、エリュシオンは我々の現実世界で数学的に検証済みのオートマトン理論の上に乗っている。加えて、エリュシオンを直接駆動する論理であるところの“TVC宇宙”も、作中の言及を読めばわかるように、現実世界のチューリング、ノイマンの仕事の延長線上にある筋目正しいものだ。一方で、我々が乗っている(であろう)万物理論は現実においても未把握なのであるから、実は、論理的な堅牢さ(が世界の「あるべき度」指標として適切かどうかは必ずしも自明ではないが)で言うと、本作中の荒唐無稽な《順列都市》は、ある意味においては我々の現実世界よりも鉄壁なのである。

そして、その発案者であり創始者となるポールは、これを自ら組み上げ、かつ、エリュシオンの内部にあってはTVC宇宙の論理に直接のアクセス権を有する……私見では、これがこの目論見が失敗に終わった直接の要因なのであるが……のであるから、TVC宇宙のブートストラップ用プログラムが『光あれ』(説明不要とは思うが、旧約聖書創世記で神が世界を創造する際に発する句)と命名されていたのは、これはまったく伊達ではないのである。本作は、狂った神様が自分用の「宇宙」を作ってそこに引き篭もる物語なのだ。しかも、完璧ではないにせよ、その原理は、現実に数学的に証明可能ときている。

これをハイパーリアル、と呼ばずして、何と呼ぼう?

さて、この着想、すなわち、物質宇宙の永続性は我々の拠って立つ地球はもちろん、宇宙そのものについても不明瞭で信用のおけないものであるから、数学の磐石性のみに拠って立つ世界へ《移入》し以って知性の永続性を獲得しよう、というアイデアは、現実の我々にとって妥当なのであろうか。

前述したように、本作中のTVC宇宙それ自体が妥当か否かはともかくとして、セル・オートマトン理論の健全性は、数学の健全性(これは厳密に言えば自明ではないのであるが)と同程度には現実に検証されている。従って、上記のアイデアが現実の我々にとっても有意味な未来像の1つであるか、という問いは、セル・オートマトン上に我々のそれと等価な知性を構築可能か、という問いの正否に依存しているといって良い。

そしてこの問いは、実はさらに2つの問いを内包している。1つは、技術的に知性を発現するオートマトンが定義できるか、であり、もう1つは、それが可能であるとして、他ならぬ“私”をそこに《移入》できるか、である。本作世界ではこの2つの問いに対して、前者は純粋に可能であり、後者は、同じ入力に対して同じ出力を返す知性は同じアイデンティティを有すると見做す限りにおいてイエスであるがゆえに、エリュシオンの《発進》は意味があった。

では、我々の現実世界についてはどうか、と問うと、言うまでもなく知性がオートマトン上に構築できるか否か、というのは、万物理論同様に現代科学のハードプロブレムの1つなのであるが、直感的には、工学的実現性はさておき、純粋理論的には否定する方が困難な問いではある。常識的な意味において我々の知性を発現させているところの生体=細胞は疑う余地もなくオートマトンなのであり、その複雑怪奇な組み合わせが知性の拠って立つところであることも、まず間違いないからである。

厳密に言えば、他ならぬ私の知性、アイデンティティが、実は私の脳であるとか、広くは個としての生体に局在してはいない……つまり知性本体は別の世界にあり、この生体はそれが存在を主張する端末に過ぎない……というある意味においてファンタジーでオカルトな見解も、現時点においては決して否定はできないのであるが、仮にこの見解が真であるとしても、ではその知性本体は如何なる論理に基づいて顕現しているのか、という問いは残る。そして、現時点の我々は、数学の磐石性を信じる限りにおいて、そこに知性の座を生み出し得るであろう方法をオートマトン以外に知らないのであるから、これは単に連鎖の鎖が伸びるだけの話なのであって、論理的には同じことになる。

一方で、“私”をそこに《移入》できるか、という問いについては、おそらく解はない。聡明な方はお気づきのことと思うが、そもそもこの問い自体が擬似問題なのであって、本質的には、何を以って私は“私が継続している”と見做すのか、という問いなのであり、これは原理的に万人に妥当する唯一解を持たない。平たく言えば、それを決めるのは他ならぬ“私”なのである。これはレムも『GOLEM XIV』でほぼ同じことを言っているので、ある水準を超えた知性を有する人(=イーガンやレム、念のため)は、概ね同じところに突き当たるのだろう、と、ボクなどはそれ以上の解析を断念して丸呑みしている話ではあるのだが。

とまれ、以上のような思惟から、まことにもって空恐ろしいことに、それが実現するか、実現可能性があるとしてその方向へ我々総体が向かうか、ということは別としても、我々の選択し得る将来像の1つとしては十分あり得る、という意味において、この荒唐無稽で飛躍も甚だしい『順列都市』は、決して単なるフィクションではないのである。

ちなみにイーガンは、“宝石”シリーズの系譜にある『ボーダー・ガード』においても本作とよく似たプロットを(作中では仄めかすに留まる)弄んでいるのだが、以降『ディアスポラ』に端を発する《融合世界》シリーズでは、あくまでも物質宇宙を基盤に物語が構築されるようになって、この極めて先鋭的な着想は鳴りを潜めたように見える。私見ではあるが、数学の磐石性のみに拠って立つ世界への《移入》、というアイデアは、極めて魅惑的であると同時に、文字通り“現実逃避”でもあるので、イーガンはその弊害を嫌って敢えて封印したのではないか、などと勘繰っている。真相はわからないが。

さて。

ここで少し脱線し、しばしばネット上の書評子たちが言及する、本作に対する論難の代表的なもの2つ、に反論してみようと思う。念のために言っておくと、ボクが言いたいのは、これらの書評子が間違っている、ということではなく、このように理解すれば素直に物語を楽しめるよね、という提案に過ぎない。

第一は、作中でポールが語る《塵理論》が意味不明で、それがエリュシオンを生み出すとは到底思えない、というものである。

結論から言うと、この“誤解”は、作中のポールと作者イーガンを混同することに端を発している。私見では、塵理論とエリュシオンの間には何の因果関係もない。塵理論は、疑う余地もなく“狂人”であるポールが、自身の強迫観念を後付け合理化するために編み上げた似非科学理論なのであって、イーガン自身はこれを信じていない。ただし、イーガンが塵理論的なメタファを好むことは、先に触れたトンデモ数学コメディ『ルミナス』における《不備》の誕生仮説からも推察は可能である。

前掲模式図にも示したように、エリュシオンの基盤はTVCセル・オートマトンとオートマトン理論、そして数学である。時刻tにおける状態と、状態遷移のルールが定義されれば、時刻t+∞の状態は存在する、という意味において、エリュシオンは存在する。それは《塵》のような、あらゆる意味においての物質的基盤を必要としない。一方で、エリュシオンは、それを物理基盤上でシミュレーションするケース(作中、ポールとマリアが垣間見た2分間がこれに当たる)を除き、いかなる意味においても現実世界から観測不可能であるという点において、決して存在しない。これが『ディアスポラ』における隣接宇宙への移住(拡張版コズチ理論に基づく干渉を利用した交信可能性がある)と、本作における宇宙創造の本質的な相違であり、この相違が本作を「極限」へ押し上げている。

ボクの見解としては、『順列都市』は、セル・オートマトンによって物理宇宙から《発進》することに成功する話、ではないのである。この物語は、作中宇宙のポールとその出資者(彼らは《コピー》なのであるが)そしておそらくは主人公マリアが、TVC宇宙が物理宇宙から《発進》したのだと確信した話、なのであって、第二部に描かれるエリュシオンでの出来事は、実際には、たとえばポールが死の瞬間に垣間見た幻であっても構わないのである。

これは言い換えれば、浄土真宗を信仰する上で、極楽浄土の存在を確認する必要がない、というのと同じことである。かの信仰は、阿弥陀如来の第十八願によって既に他ならぬ私が救われていると信じる、信じることが出来た、ことが肝要なのであって、極楽浄土が実在するかどうかは、それに比べれば大した話ではないのだ。

さて、脱線し過ぎる前に第二の論難に移ろう。こちらは、エリュシオンを《発進》させるのに、何千万ドルも費やしてコンピュータシミュレーションを実行する必要などない、エデンの園配置とTVCルールが定義されればそれで十分なはずだ、という論難である。

これも結論から言うと、この“微妙な誤解”は、かのシミュレーションの目的を取り違えていることによる。その通り、シミュレーションは《発進》には必要ない。ポールがシミュレーションを実行したのは《発進》のためではない。エデンの園配置が作成された時点で、実は《発進》は完了しているのだ。シミュレーションはポールが《発進》の成功を信じるためにおこなわれたものである。そして。それを確信した時点で、確信したポールの運命は決したのだ。

より厳密に言えば、ポールには自分が用意したエデンの園配置が、真にエデンの園配置足り得たかを検証する手段が実際に実行してみる他になかった、ということなのであり、実はこれは『ディアスポラ』における、もっとも信頼できる予測手段は、変異した種子それ自体がおこなうであろうあらゆる計算をおこなってみることであり……それはじっさいに種子を育てて精神を作りだすのと同じことで、予測でもなんでもない、と同じ話である。

ちなみに、私見では作中のポールはこのことに気付いていない。彼は自分の《コピー》を含む時間線がこれ以上分裂することを望んでいなかったが、二百万エキュ(作中の通貨単位)に目がくらんで……もちろん、彼はカネが欲しかったのではなく、少しでも長く《発進》の成功を味わいたかったのである……後からやって来たトマスの参加を許可してしまった。結果、作中では暗示されるに留まるが、エリュシオンの《発進》は、トマスを含まないバージョンと、含んだバージョンの少なくとも計二回起こったはずなのである。これは、計算高い彼の意図に反した結果であるから、当然ポールはこのことに気付かなかった、ということになる。

もっとも、エリュシオンが2つ発進したとして、現実世界に対するのと同様に、互いに観測・交信可能性はないのであるから、ポールはそこに頓着しなかった、という解釈も可能ではある。が、むしろ作品終幕、ポールとマリアの《再発進》が成功したとして、第二のTVC宇宙において、二人が自分たちがここまでやってきたことを研究整理する途上でこのミスに気付き、「だからあのとき私は、船に乗りそこねたっていってやれ、っていったでしょ!」と二十五人目のポールを難じるマリア、なんてのを妄想すると楽しい、とか考えてしまうボクは、遂に狂気に陥ったのだろうか?

つづく>>



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