法華経転読(9-1)

2016/3/31 | 投稿者: ghost

<<目次へ戻る

普賢菩薩(ふげんぼさつ)は、現代においては既に触れた観世音菩薩ほどの認知度はないかも知れないが、我が国では厚い崇敬の対象にされてきた菩薩であり、特に、中世においては貴族階級の女性からの人気を観音様と二分した菩薩である。伝統的には、同じく法華経に登場する文殊師利菩薩(もんじゅしりぼさつ)と共に、釈迦立像を信仰する場合の脇士とされる。余談だが、文部科学省の実験検証原子炉が“ふげん”、“もんじゅ”と命名されたのは、ここに由来する。

連載第9話となる今回は、この普賢菩薩が登場する法華経第二十六章“あまねく賢明な菩薩が人に勧めて仏道を修める心を起こさせる”(妙法蓮華経普賢菩薩勧発品第二十八)を転読(うたたよみ、と読んでね)していきたい。

前話で取り上げた第二十一章を除けば、具体的なダーラニーの呪文が示されるのは本章のみであり、また、定型パターンで以ってダーラニーの提示を繰り返す同章に比して、本章は曲がりなりも一連の物語構造を有しているので、そこから法華経におけるダーラニーの持つ意味合いを邪推してみよう、というのが今回のテーマとなる。

法華経全篇を通して見たとき、普賢菩薩は序章にすら登場せず、本章にのみその名が見える。このような扱いを受けているのは、主要キャラクタ中では普賢菩薩だけだ。全篇中における本章の位置から考えても、本章が全二十七章中の最末期に増備されたことはほぼ確実であり、ひょっとすると、序章が作られた後に本章が付け加えられたから、かも知れないが、序章に見える登場人物一覧、すなわち釈迦が霊鷲山において法華経の説法をおこなった際……もちろん、これは歴史的事実ではなく、法華経教団の創作した物語に過ぎない……に同席した人々の一覧に彼が含まれないことには、いちおう筋の通った理由がある。

彼は娑婆世界、すなわち我々が住むこの宇宙の住人、ではないからである。

どっひゃー!!


そのとき、普賢菩薩摩訶薩は、東方より、数えることのできないほど多くの菩薩摩訶薩とともに人々に取り巻かれ、敬われ、途中のもろもろの国土を震い動かせ、蓮華の雨を降らし、百千億那由他の楽器を奏でながら、菩薩の威徳と、菩薩の偉大なる変化の力と……(中略)……このような思議を超えた神通による変化を現わしながら、普賢菩薩摩訶薩はこの娑婆世界に到着した。

あまりに粉飾語句が多いので一部割愛させてもらったが、本章は上引用の書き出しに始まる。ビジュアルを想像するとトンデモない光景である。何か明確な根拠があって言うワケではないが、ジャパニメーションにしばしば見られる異形の者たちが大挙して行進・登場するシーンのイメージの源流は、存外ここにあるのではないか(直接的には百鬼夜行かも知れないが、百鬼夜行もまた、ここに源流があるような気もする)などと考えさせられる。ともかく、常軌を逸したイマジネーションである。

一方で、イマジネーション不徹底な部分がないでもない。

と言うのも、娑婆世界に到着した普賢菩薩が最初にやるのが、かの仏足頂礼だからである。前話でも論じたように、この礼法が法華経が説かれたインド以外の社会で通用する謂れはないし、そもそも、娑婆世界以外から来訪した普賢菩薩に頭や足といった構造があるのか(本章には彼自身の容姿についての説明は一切ない)が疑問である。もちろん、これは冗談で言っているのであるが、後日触れるが、法華経執筆者の中にはこの枠組みを明確に意識して、更にトンデモないことをケロッと書き遺したヤツもいるので侮れないのである(コレについては次々話にて取り上げる)。

世尊よ、私はかの世尊の宝威徳上王如来の仏国からこの国土にまいりました。世尊よ、この娑婆世界において、この“妙なる教えの白蓮華の法門”が説き示されていると知り、私はそれを聴聞するために、世尊であられる釈迦牟尼如来のもとに来詣いたしました。

普賢菩薩が開口一番に発するのが上引用の台詞。SF読みでもあるボクとしては「そんなファーストコンタクトってアリかよ?」とか思うのであるが、書き手にとっては大した問題ではないようだ。同時に、トンデモ本読みでもあるボクとしては、現代の無邪気に「宇宙人から宇宙の真理を授かりました」と主張するトンデモさんたちが、自分たちの思いついた……いや、宇宙人から授けられた真理とやらの伝道に注力するあまり、肝心の宇宙人の描写がぞんざいになりがちであること(以って主張全体の説得力が失われるのみならず、失笑の対象となる)に通底するものを感じる。

つまり、本章書き手の意識は、法華経が説かれるという事象は他の宇宙から聴聞しに来たくなるほど稀有で貴重なことなのだ、という主張に置かれているのであり、逆に言えば、現代のトンデモさんたちがそうであるように、彼らは他宇宙から来迎した普賢菩薩の権威で以って自身の主張を裏付けしているだけ、ということになる。もちろん、彼らやトンデモさんたちが期待しているほどの権威が本当にそこにあるのか、というのはまったく別問題なのであって、これらのケースに限って言えば、断言するがまったくない。

この修辞上の問題は、広くは法華経全篇に共通する……たとえば授記に際し粉飾的に他仏国土が騙られることを想起せよ……のであって本章のみに限ったコトではないのであるが、それにしても、宝塔の出現を除けば(厳密に言えば第二十三章もそうだがコレについては後日改めて)原則的には釈迦の語る物語の中に現れるのみであった他仏国土が、法華経最末尾に当たる本章に至って、改めてその実在を観念される体で登場することには、何らかの意図が込められている、と考えるべきだろう。ここでは結論を急がず、もう少し本章を読み進めることにする。

さて、本人が語るところによれば普賢菩薩は『法華経』を広く説き明かして欲しくてはるばる異世界から我らが娑婆世界を訪ねたそうだが、まぁ、そもそも終劇間近にやって来て何言ってんだ、という気がしないでもないが、これを迎えた釈迦……繰り返すが、法華経教団を代弁するキャラクタであって歴史上の彼ではない……は、例によって例の如く、いささか噛み合わないことを言い出す。あまりに噛み合わないので、妙法蓮華経を漢訳した鳩摩羅什はここに、

若善男子善女人。於如来滅後。云何能得是法華経。

つまり、若し善男子・善女人ありて、如来の滅したる後において、云何にして能く是の法華経を得んと、という、他のどの写本にもない挿句を補っている。要するに、普賢菩薩の要請にもかかわらず、釈迦は法華経そのものではなく、釈迦の死後においてどうすれば法華経を得ることが出来るか、ついて語り出す。もちろんコレは、この釈迦が空気が読めないから、ではなく、本章の書き手が本章を通じて言いたいことがそちらにあるからであって、それに対して前振り(他仏国土からの普賢菩薩ご一行の来迎)が大袈裟過ぎたのである。

逆に言えば、少なくとも本章が執筆された時点で、それだけ大袈裟な前振りを以ってしてまで強く主張したいことがあったればこそ、このようなちぐはぐな修辞が用いられたのだ、ということは言えそうである。

さて。

言葉通りの意味としては、如来滅後という語は法華経教団にとっての現在、つまり紀元1〜2世紀頃のインドも含んだ言葉であり、実際、第十章の用例を見れば、第二期までの法華経がむしろそちらの意味でこの語を使っていることがわかる。対して、本章の普賢菩薩と釈迦の対話に見える如来滅後はいささか異なる意味合いを持っていて、結論を先取りすれば、前話末で触れた法華経教団の世代交代が前提としてあって、本章のいう如来滅後は、法華経教団を代弁するキャラクタとしての釈迦が死んだ後、つまりは、法華経を成立させた人々が死に絶えた後のことを言っている。

なぜコレが言えるのかというと、本章と第二十ニ章のみに見出だせる表現(厳密には第十三章にも存在するが、これは少し意味合いが異なると思われる、詳しくは後日改めて)漢訳妙法蓮華経から拾えば如来滅後後五百歳というものがあるからである。天台大師や日蓮はこの語を、いわゆる末法思想における“末法”の意と解していたようであり、日蓮の主著『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』の題号も実にここに由来するのであるが、既に論じたように、法華経自身からは末法思想は読み取れない。如来滅後後五百歳は、法華経教団にとっての現在=如来滅後とは区別される何かであるが、後世の天台法華が考えた末法でもないのであり、法華経第三期の中でも教説の維持伝承に強い関心を示す第二十二章と本章にのみこの語が現れることから、コレが知れるのである。

これを念頭に置いた上で、稿を改めて、本章の書き手が異世界からの来訪者を招いてまで言いたかったコト、を探っていくこととしよう。

つづく>>



トラックバックURL

トラックバック一覧とは、この記事にリンクしている関連ページの一覧です。あなたの記事をここに掲載したいときは、「記事を投稿してこのページにお知らせする」ボタンを押して記事を投稿するか(AutoPageを持っている方のみ)、記事の投稿のときに上のトラックバックURLを送信して投稿してください。
→トラックバックのより詳しい説明へ




AutoPage最新お知らせ