2014/10/21 | 投稿者: ghost

前稿末で言及していた佐藤弘夫先生の本を読んだ。結論から言うと期待していた内容(明恵=高弁の曼荼羅本尊と日蓮のそれの直接的な系譜関係)とは少し違ったのだが、いろいろと考えさせられたので読書メモを残しておくことにする。

クリックすると元のサイズで表示しますで、『日本中世の国家と仏教』(佐藤弘夫著/吉川弘文館,2010年、原著1987年)なのであるが、表題が示しているように、古代末から近世初までの日本の国家システムと仏教の関係史、という要約で間違いではないと思うのだが、著者自身がはしがきで、新仏教を民衆仏教と規定しようとするのであれば、その思想構造の分析に留まらず、それが当時の人々にいかに受け止められどのような歴史的役割を果たしたのか、という問題視角の設定が不可欠(p.5)と述べているように、歴史書にしては各宗派の教義・思想に(特に著者が個人的に思い入れが強いと見える法然、日蓮に対して)かなり踏み込んでいる書である。

そういう次第なので、ボクのような好奇心の読者はともかく、各宗派の信徒である人からは銘々の信仰に基づき「それは違うぜ」と言われそうな面も少なからずあり、ゆえに純然たる歴史研究者からもやや「信心に踏み込みすぎ」という評価を受けているようであるし、再刊時に追加された巻末コラムで他ならぬ著者自身がそう愚痴っている(p.280)のだが、ボク個人としては好きな本である。と言うか、これまでに読んだ佐藤先生の本(このweblogには書いていないが結構読んでいる)が概ねどれもそうだったので、それらの原点に当たる本書も当然そうだった、と言うべきか。

それはさておき、射程の広い本書を要約することなどボクには到底不可能なので、自身の関心にしたがって本書の肝を抽出したいと思うのであるが、著者の論点の面白い(かつ剣呑な)点は、いわゆる鎌倉新仏教、さらには対する南都北嶺の旧仏教それぞれの立ち位置を、決して固定的に見ていないことに尽きるのだと思う。

たとえば、旧仏教というと−まぁ字面のイメージだ、と言ってしまえばそれまでだが−いかにも伝統を墨守し権威を振りかざしていたような印象があるし、法然と言えば念仏一辺倒の現実逃避思想、日蓮と言えば法華経一本槍の唯我独尊者、禅と言えば新興武士階級のシンクタンク……そういう固定的な観念があるし、もちろんそれらはそれぞれの特徴を確かに捉えてはいるのであるが、著者はそういった観念を全否定こそしないものの、個々の差異を大胆に捨象してある共通性の下に括りあげるのである。

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