<<前回のお話
是れ何なる禍に依り、是れ何なる誤りに由るや。
“客”の第一問がここで終わる。この一文もやはり対句になっているが、
是れ、すなわち種々の「まつりごと」を以ってしても改善されない世の有り様に対し、
禍(わざわい)、すなわち、
是れを受ける人間の側ではどうしようもない外部的な要因と、
誤り、すなわち、不適切な人間の言動がそれを引き起こしているとする内部的な要因、のふたつが想定されていることがわかる。
これに対して“主人”、つまり日蓮自身の考えが開陳され始めるのだが、やはり文章の流麗さを狙ったと思われる粉飾部分を削って、彼の見解のコアの部分を抽出すると、下引用部分が冒頭の問いに対する彼の答えということになろうか。
聊か経文を披きたるに、世皆正に背き、人悉く(1)邪に帰す。故に善神は国を捨て(2)去り、聖人は所を辞して還りたまわず。是れを以て、魔来り、鬼来り、(3)災難並び起こる。
(付番、下線は引用者による)
下線部はいずれも広本における改訂部分である。略本では(1)に“悪”の字が用いられ、(2)は
去るの前に“相”の字が添えられていた。(3)は元は
災起難起になっていて、直前の
魔来鬼来とやはり、いささかくどい対句になっている。(2)については書写時の脱字の可能性もあるが、ここでも改訂時の日蓮の関心事の多くが、修辞のブラッシュアップ(結果的にそうなっているかどうかはさておき)に向けられていることがわかる。
逆に言えばこれは、広本改訂時においても、日蓮は自身の基本論理になんら迷いも疑いも持っていなかった、ということでもある。ま、御坊のお人柄を偲べば当然、といえば当然の話なのではあるが。
さて、この三文の意味するところはさほど突飛でもなければ独創でもなく、むしろ、多くの日本人(に限った話でもなかろうが)が漠然と同様の観念を無自覚なまま抱えているのではないか、と思う。よって、ここで労を惜しまずに詳細に読み解いても無駄にはならないだろう。