2016/1/30 | 投稿者: ghost

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釈迦のジラしに対し、再び舎利弗が教えを乞う。突き詰めればこれは法華経執筆者の一人芝居なのであるから、いささか滑稽な感がなきにしもあらずではあるが、二度目の乞いに対する釈迦の再びのジラしはなかなか興味深いことを言っている。

舎利弗よ、この意義を説いても何の役に立つであろう。舎利弗よ、この意義を説き明かすならば、天をはじめとするこの世間のものたちは驚き、疑いをいだくであろう。また、増上慢の比丘たちは、大きな坑に堕ちこんでしまうであろう。

途中までは前段と同じであるが、末尾に法華経教団の本音が垣間見える。増上慢というのは、見慣れない言葉かと思うが漢訳仏典にしばしば見られる語で、悟りを未だ得ていないにもかかわらずさも得たような偉ぶった態度、またはそのような態度を取る人……要するにボクのような嫌なヤツ、のことを言う。もちろん、ここで言われている大きな坑に堕ちこんでしまうとされる増上慢の比丘とは、法華経教団から見た同時代の論敵のことを指していると考えて間違いあるまい。

う〜む、どっちが増上慢なんだ?と首を傾げたくなるが、捨て置こう。

メゲずに舎利弗が三度教えを乞う(またも偈がやり取りされるが、キリがないので割愛)。ここに至って釈迦は、ついに舎利弗の乞いを受け入れて如来の密意を説こうと宣言する。

ちなみに、このやりとりを天台教学では“三止三請(さんしさんしょう)”と呼ぶ。この前後の流れでは釈迦は二回しか止めてないじゃん、とか思うのだが、これは冒頭のやり取り、つまり、二乗には仏の密意はわからん、と断言した直後に舎利弗よ、この程度の説明で満足するがよい(これについて問うのを止めよ)との言葉があり、妙法蓮華経ではこれを含むすべてを止舎利弗と表記しているからである。

殊更説明するまでもなくこの修辞は、三国志演義における劉備玄徳の諸葛亮孔明に対する三顧の礼と同じ効果を狙ったものであろう。もう少し簡略化された形になるが、天台教学における後半部(本門)の要、如来寿量品第十六(第十五章)の冒頭にも、同じような三唱される繰り返しが見られる。この点において、方便品と如来寿量品が法華経の要であると喝破した天台大師の解釈は、決して的を外しているワケではない。つまり、この三唱の後に示される部分が、法華経を書いた人が主観的には一番言いたかったことだからである。

まぁ、言いたいこと、と、正しいこと、は必ずしもイコールではないのであるが。

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