2016/1/26 | 投稿者: ghost

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声聞や独覚には仏の智慧は理解できないのだ、との断言で始まる法華経第二章“巧妙な方便”の冒頭部の結びに、“十如是(じゅうにょぜ)”の名で天台法華信仰者の間では有名な一節が現れる。妙法蓮華経からその部分を引いてみよう。

所謂諸法如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。

如是、すなわち、是(か)くの如し、と十個述べられるのでこれを十如是と呼ぶ。所謂諸法、すなわち、いわゆる諸々の法……声聞や独覚には理解不可能でただ仏のみが知りえる法とは、に続いてこの十如是が示されるのであるが、実は、この十如是はサンスクリット語原典に対応する箇所がない。厳密に言うと、原典では五つであり、かつ、直感的である。

それらの法が何であり、いかにあり、何に似ており、どのような相をしており、どのような自性をもっているか

漢訳妙法蓮華経を物した鳩摩羅什は、何か思うところがあってこの一節を大幅に増補し、かつ、分析的な体裁を加えたらしい。この背景については諸説がありどれが妥当とも判じ難いのであるが、敢えてその判断は避けて、羅什がそのようにしたくなった理由に想像を廻らせてみたい。

以下、例によって私見に過ぎないのであるが、全般的に法華経の文面は、他の仏典に比較して、極めて情緒的であり分析的な視点を欠いている。読者諸兄には、八正道や十二支縁起、六波羅蜜(あるいは十波羅蜜)といった仏教由来の用語をご存知の方もおいでかと思うが、これらの語が示しているように、全体として俯瞰した場合の<仏教>には、普段我々が明確に意識していない物事を、やたらと分析的に分類し「それはn個の〜からなる」とする言明が無闇に多い。

これは、歴史上の釈迦がそう言ったから、というよりは、釈迦が、普段明確に自覚されないところを自覚的に思惟することを弟子達に勧めた……これとて史実かどうかはわからないが、少なくとも<仏教>に形を与えていった人々の多くがそのように考えていたことは、現代に伝わる経典群から読み取れる……結果、それを弟子達が経典として書き遺すに際し、いわばその副作用として表れたものであろう、とボクなどは考えているのであるが、対して法華経の記述は全般的にそういう傾向に乏しく、直感的あるいは情緒的な表現を中心に話が進むという特徴がある。

この点は古くから問題視されていたようで、要するに「法華経は自身を最高の経典だというワリには、教理的な内容に乏しいではないか」との批判があったのだが、他ならぬ天台大師が『法華玄義』において、唯如来設教の大綱を論じて微細の網目を委しくせず、あるいは前の経に已に説くが為の故なり、すなわち、法華経は本当に重要なことのみを論じて細目には触れないのだ、なぜならそれらの細目は法華経以前の経で説き終えているのだから、と、いささか苦しげな弁明を遺している。

余談になるが、この天台大師の説が、日蓮が主著『立正安国論』において、極端な法華経原理主義を採りつつも、彼自身が爾前経(法華経以前の真実ではない教え)と蔑む余経を引用して憚らなかった背景にある。

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