<<前回のお話
須菩提への授記が終わるや否や、立て続けに大迦旃延に対する授記が始まる。思えば、前稿に示した“阿りの偈”が三大弟子の連名になっていたのは、銘々がいちいちに歓喜や共感を表明する下りを挿入する手間を省いたものだったことになる……が、いいのだろうか、それで?
第三章における
法華経中最初の授記例を通して論じたように、少なくとも舎利弗に対する授記の下りが含意する中で最も重要なものは、如来の方便力は“衆生の歓喜を喚起”すること、すなわち、
教育者∞たる仏陀に自ら望んで成ることへの共感を広げること、であるようにしかボクには読めないのであるが、本章では、その肝心の部分が省略されて、どうでもいい定型フォーマットや「ウンコがない」などという粉飾語句が死守されていることになる。
ここからも、法華経教団第一期の人々が、自分たちが主張しているセントラルドグマが図らずも含意していることに、存外無自覚であったことが知れるのであるが、それはさておき。
名号:閻浮河の黄金の光(閻浮那提金光如来)
国土:(言及なし)
劫名:(言及なし)
仏寿:十二中劫
如来の名がかなり苦し紛れになってきたせいか、国土と劫についてはその名に対する言及がなくなる。
まぁ、これも冗談半分で言っているのであって、そもそもこの如来の名号が苦し紛れに見えるのは、これが漢訳だからである。前稿に見た“光明”や“名相”といった名号がスッキリしているのは、たまたま表意文字である漢字に、原典サンスクリット語句が示す概念にうまく対応する字があったからに過ぎない。
が、ではこの“閻浮那提金光”の名号がまったく苦し紛れではないのか、と問うと実はそうでもなくて
(苦笑)、“閻浮那提”というのはヒマラヤ山脈の北方に措定された伝説的な河を示す固有名詞であり、当然、これに一字で対応する漢字は存在しないので、訳者は音写せざるを得なくなったのである。むしろ、法華経に限らぬ仏典に見える各種の名号に、普通名詞と固有名詞が無頓着に入り混じって用いられるのは何故なのか、の方が興味深いテーマではあるのだが、本筋ではないのでここでは捨て置く。
それはともかくとして、大迦旃延への授記の粉飾部に、ちょっと見逃せない面白い部分がある。