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今日、我が国において“法華経”と言えば鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』を指すこと、その一方で、現在知られる法華経サンスクリット語写本と妙法蓮華経の間には少なからぬ異同があること、その中には後世になって
こっそり妙法蓮華経に編入されたものもあること、をここまで示してきた。
今話で取り上げる法華経第五章“薬草”(妙法蓮華経薬草喩品
(やくそうゆほん)第五)は、原典と羅什訳の乖離が最も大きい章、ということになる。どう異なるか、というと、羅什訳は本章の後ろ半分を丸々欠いている。羅什訳を補完する体で闍那崛多
(じゃなくった)、達摩笈多
(だるまぎゅうた)らにより7世紀初頭に編まれた『添本妙法蓮華経』がこの部分を含むのは当然として、どうしたことか、先行訳となる竺法護訳『正法華経』もこの部分を含んでいる。ここまでは
第十一章後半、すなわち妙法蓮華経でいうところの提婆達多品第十二と似た話である。
少し事情が異なるのは、正法華経にはこの第十一章後半を妙法蓮華経同様に梵志品第十二として分かつものもあることから、原典当該部が後付けであることが推察されるのであるが、本章についていうと、後半部を欠くのは原典・漢訳を通じて羅什訳のみ、となっている点だ。とすると、これは羅什が何らかの事情でこの部分を訳し落としたか、意図的に省いた可能性を考慮する必要が生じる。
視点を転じて、ボクの見るところ本章に登場する
法華七喩の第三である三草ニ木は、第一期を要約した譬喩の中では……あくまでも
第三〜
四章と比較して、ではあるが……言わんとするところがわかりやすい。これを詳しく読むことで、改めて法華経教団のセントラルドグマを再確認してみたい、と思う。
* * *
本章は、
第四章から引き続いて釈迦と大迦葉の間で交わされる対話の体を採っている。
大迦葉よ、善きかな、善きかな。迦葉よ、如来の真実の功徳をたたえて説くことは、そなたたちにとってまことに結構なことである。
冒頭、釈迦……法華経教団を代弁するキャラクタであって、歴史上の彼ではない……が褒めているのは、前章で大迦葉が述べた体裁になっていた長者窮子の譬喩、ということになる。つきつめれば、褒めているのも褒められているのも法華経教団の書き手、ということになろうが、最早これにツッコむのも飽きた。
本題となる三草二木の譬喩はすぐ次下から始まるのであるが、例によってその直前にこれから譬喩で以って言わんとすることが真正直に要約されている。いささか冗長ではあるが目を通しておいて無駄にはなるまい。