<<前回のお話
前章と本章に続けて展開される、釈迦とその弟子の関係を親子になぞらえた二つの譬喩物語は、伝統的な天台法華教学の解釈によれば、広くは一切衆生、狭くは二乗=声聞・独覚の人々を、次第に一乗真実へ導く如来の“巧みな方便”なのである、ということになるのであるが、これは歴史上の釈迦がこれを説いたと信じるからそうなるのであって、実際にはこの譬喩は法華経教団の人々がなんらかの必要に求められて創作したのに違いないのである。
ここでボクが思うのは、第二期以降は対立声聞衆に対し攻撃的な態度が目立つ法華経教団であるが、本章が創作された第一期、それもその初期においては、彼らは対立声聞衆……否、この時点では対立までには至っておらず、法華経教団は自分たちを含む大きな出家者集団の非主流派であったろう、と思うのであるが……すなわち所属教団の主流派を、これらの譬喩を以って説得することが可能であると、楽観的に信じていたのではないか、ということである。
前章と本章の譬喩が、共に釈迦と弟子の関係を親子に見立てていることは前述した通りであるが、これを比較すると、
前章の三車火宅の譬えにおいては、子どもは「火宅の如き三界」に遊ぶ未だ理非を判断できない存在として描かれているのに対し、本章の窮子は、文字通り読めば老成して父親の財産の管理を任された人物になっている。思うにこれは、悪気なく創作した第三章の譬喩が、結果的に教団主流派に「我々を小児扱いするのか?」と不興を買ったことをうけて、法華経教団なりにおこなった改善だったのではないか、と思うのだ。
少なくとも、本章の書き手自身の主観においては。
善逝は、私たちを、偉大な力のある多くの菩薩たちのところに遣わされ、私たちは数千億の譬喩や因縁をもって無上の道を説き示します。
最勝者の子供たちは、私たちの言葉を聞いて、菩提のために最勝の正しい道を修習します。そして、その刹那に、「そなたたちはこの世において仏陀になるであろう」と、予言を授けられるのです。
この法の蔵を守護しながら、また、最勝者の子供たちにそれを演べ説きながら、あたかも、かの信頼された貧しい男のように、私たちは救世者のために、このような働きをするのです。
上引用は、本章後半に偈で繰り返される要約の中程に登場する一節である。文脈上はこれは大迦葉が詠んでいることになっているから、ここでいう
私たちは、法華経教団にとっての説得相手となる主流派声聞衆を表象していることになる。前章において相手を小児扱いしたことを思えば、本章では同じ人々に対し、
法の蔵を守護しつつ、
数千億の譬喩や因縁をもって無上の道を説き示し、釈迦が衆生に
予言を授ける下地を整える大役が託されているのであって、随分と持ち上げられていることがわかる。