<<前回のお話
彼は、まだ、天の鼻を得てはいないが、彼の鼻根の力はまさにこのようなものである。それは、かの煩悩より離脱した無漏の天の鼻を得る前の状態にあるものである。
続く鼻根の下りの末尾は上引用の通り。余談になるが、鼻根について述べたこの部分は、他の五根に対して長行・偈ともに倍以上の長さを誇る。そうであるべき合理的な理由があるとも思えないし、
彼は女や男の体臭を嗅ぎ、童男や童女の体臭を嗅ぐ。
(中略)
神々の娘たちや神々の妻たちの香りも嗅ぐ。神々の童児たちの身体の香りも嗅ぎ、神々の童女たちの身体の香りも嗅ぐ。
(中略)
懐妊している女性が、その疲れた身体の胎内に宿している胎児が童子であっても童女であっても、彼はそこに宿る胎児が童子か童女かのどちらかを匂いによって知る。
……等々と、それってここで
どうしても言わなアカンの?と首を傾げざるを得ない変態的な言及があったりして面白い。本章の書き手は匂いフェチだったのだろうか。それはさておき。
さて、まず前稿にて提起した「六根清浄は無上の覚りに比して主張が後退していないか?」という疑問を解いておきたい。
上引用にもその解の一部が含まれている。
煩悩より離脱した無漏の天の鼻を得る前の状態とあるのがそれである。無上の覚り、すなわり繰り返し法華経に登場するキーワード、阿耨多羅三藐三菩提とは、ここでいう
煩悩より離脱した状態である。本章の書き手のいうところによれば、六根清浄はそれ
を得る前の状態であるらしい。
ということに思いが至れば、繰り返される
父母から受けた〜との不可解な言い回しの真意も理解できるようになる。これは、例によって輪廻転生観を前提とした上で、ここで言う六根清浄を得るのは、来世以降の話
ではなく、父母から受けた今この身体においてのことだ、と言っているのだ。対して、一句一偈を聞けば得られるのは
無上の正しい覚りを得るであろうという
予言なのであって、これは来世以降の話ということになる。