2016/8/31 | 投稿者: ghost

<<前回のお話

夫れ以れば、日本国を亦水穂の国と云い、亦野馬台、又秋津島、又扶桑等云云。六十六ケ国、二つの島、已上六十八ケ国、東西三千余里、南北は不定なり。此の国に五畿、七道あり。五畿と申すは山城、大和、河内、和泉、摂津等なり。七道と申すは東海道十五箇国、東山道八箇国、北陸道七箇国、山陰道八ケ国、山陽道八ケ国、南海道六ケ国、西海道十一ケ国。
(引用者が適宜句読点を補った、以下同)

『神国王御書』は上引用の書き出しに始まる。要するにこれは、日蓮が認識していた日本の国土の定義、ということになる。

前稿でも触れたように、本書は駿河国上野郷の地頭であった南条時光宛の書状であったとする説が有力なのだが、想定執筆年次の時点で時光は16〜18歳の若者であった。彼は7歳で家督を継いでいるので、この年齢から彼の精神年齢を過小評価すべきでないと思うが、一見すると、次代を嘱望される若者に対し日蓮が自身の知識を継承せんと諭しているような書き振りであり、この仮説を裏付けているようにも見える。

一方で、このような国土観が当時の人々にとって一般的なものであったか、という点には注意が必要だろう。

たとえばこの時光に「あなたはどこの国の人ですか?」と問えば、その答えは疑いなく「駿河国」であったはずである。対する日蓮は、本書に限らず“国”といえばまず第一に“日本”を単位に考えていて、これに大陸の“唐土”や“蒙古”を対置しており、国土というものを捉えるスケール感が異なっていることは明らかだ。当時としては、特に蒙古襲来が人々に広く知られる以前は、彼のこのような感性はかなり特殊なものであったろうし、下手をすれば日本は六十八ケ国から成っている、という認識を有しない人の方が圧倒的多数派であったとも考えられよう。

ちなみに、この六十八ケ国という数え方、五畿、七道を基準に考える枠組みは、今日において“行基図”と総称される中近世の日本地図のそれと正しく一致しており、日蓮自身の知識の源泉もおそらくはそこにあったのだろう、と考えることができる。なお、彼の生涯を通しての移動の軌跡を辿れば、東は下総国(千葉県)、北は佐渡国(新潟県佐渡島)、西は山城ないしは摂津国(京都府)、南は紀伊国(和歌山県)あたりまでであり、必ずしも彼自身はその国土観を実体験していたわけではない。

続きを読む




AutoPage最新お知らせ