2016/8/22 | 投稿者: ghost

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かくして、昨年末から何となく始めた法華経全27章の転読(うたたよみ、と読んでね)を8ヶ月かけて何となく完遂してしまった。正直、自分がちょっと怖い。

この間、いろいろなことがあった。いい感じの新居に引越したし、何気に年収が大台を超えたし、それにも増して念願のオオルリの撮影にも成功した。これらはやはり法華経転読の功徳なのだろうか。このWeblogをどこかへ埋めたらご利益倍増だろうか。

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そういう冗談はともかくとして、本連載のまとめ的なものを書いて終わろうと思うのであるが、27章に渡る法華経の主張の要約を試みるなどということは、浅学不才の身に余る暴挙であることを百も承知の上で、さりとて、そうでもしないかぎりはクロージング出来そうにないので、敢えてやってみることとしたい。

第一に、法華経を説いた人々は、仏陀を、超越的な神ではなく、人間が辿り着くことのできるうちで最も尊い何か、と観念していた。そして、仏陀の尊さの最たるものとして、他の人々を同じく仏陀の境地へと導く働きが想定されていた。本連載では、これを便宜的に“教育者”と表現してきたが、これは、彼らの主張を理解する上で、今日的に我々が“仏陀”の語から想起する超越的な何者かを、必ずしも顧慮する必要がないことを含意していると諒されたい。

第二に、彼らは上記の彼らの仏陀観こそが、時間的・空間的に普遍な真理であると考えていた。同時に、この真理を訴える経典である法華経(ここには彼ら自身が創作したそれと、彼らが夢想した異世界においても真理として説かれるそれが含まれる)の一句一偈を語り継ぐことが、普通の人々が仏陀へと至る道筋であると主張するに至った。つまり彼らは、テキスト上の字面の印象とは異なり、実体存在としての超越的な神・仏・菩薩ではなく、我々が住むこの世界、さらには他宇宙をも統一的に貫く法則的なものを希求し、それを自分たちが表現し得た、と信じていたとしてよかろう。

極めて大雑把な要約ではあるが、法華経が手を替え品を替え言っていることは、つきつめれば以上がすべてである。

改めて力説するまでもなく、これらの主張は、紀元1〜2世紀頃を生きた彼らが手前勝手に放言したことが、たまたま複数の翻訳や翻案を経て今日の我々の知るところとなったものであり、それ以上でもそれ以下でもない。その主張は、真理性が証明されたわけではない。

今日の我々が享受するところの、自ら望み求め勝ち取ったワケでもない自由・平等・科学に重きを置く価値観の視点から見れば、法華経教団の主張はさほど的を外したものではなく、むしろ面と向かって否定することが憚られる聖性を帯びていなくもない。「人間は誰もが等しく最高の可能性を発揮し得る存在である」「これが時間・空間を超えた真理であることを語り継ぐべきである」といった言明に対し、強いて噛みつく理由はない。が、これは有り体に言えば二重に錯覚である。

個々人が認めようが認めまいが、我が国に限っていえば歴史的にみて法華経は我々がそういった価値観を受容するに至る下地の一つとなったものなのであり、その価値観をもって法華経を評価するのは循環論法である。我々が無意識のうちに正しくて当然と考えている自由・平等・科学といった価値観もまた、真理性が必ずしも証明されているものではないのだから。まぁ、それを言い出すとキリがないから一旦置こう。

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