2010/1/28

空軍大戦略  うろおぼえ歴史


第二次世界大戦、ドイツ軍がフランスを占領し、
イギリスに矛先を向けようとしていた。

ヒトラーはまず、イギリスの空軍基地=飛行場を壊滅させ
制空権を得たところで陸軍を上陸させようと計画していた。

イギリスに襲い掛かるドイツの爆撃機とメッサーシュミット。
それを迎え撃つ、イギリス空軍。

イギリスは完備されたレーダー網と 名機スピットファイアをうまく使い
ドイツ空軍を撃退していった。

『空軍大戦略』(バトル・オブ・ブリテン)として歴史に名を残す。


この映画を観に行ったのは中学生のころだったなァ・・・
プラモデルに興味を持ち始めた頃で、特に戦闘機が好きだった。
あの当時は、戦史はまだわからなくて、映画の歴史的背景なんてわからなかった。
それでも飛行機がたくさん出てくるので満足してた。

映画は本物のスピットファイア、メッサーシュミット、ハインケルなどを使い
映画の大半が空中戦シーンという、ストーリーはほとんど無いものだった。
しかしながら、今では本物を使った映画なんて作れはしないから
映画史に残る名作ということになっている。

ストーリーが無いだけに、TVで放映されることはほとんどないけれど。

そうして今でもこの映画は印象に残ってて、LDを持っているにもかかわらず
レンタルショップでDVDを見つけると嬉しくて、また借りてきてしまった。

今夜はこれからこの映画を鑑賞します♪

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2009/9/29



柳田邦夫『零式艦上戦闘機』を再読した後、
『零戦燃ゆ』を再読中。

「零戦」と書いて、あなたはどう読みます?

ゼロ戦と読んだあなた、間違ってます(笑)

まだまだ日本の航空機製作が立ち遅れていた頃、
堀越二郎技師の設計による、当時の世界最優秀機。
この飛行機があったから日本はアメリカと戦争への道を歩んだのかもしれない。
零戦21型は、当時のどの戦闘機よりもスマートで美しい形をしていたと思う。

中国から送られてくる零戦の性能は、アメリカにとって信じられないことだった。
日本人がそんな飛行機を作れるわけがない。
なにかの間違いだろう・・・と

昭和初期の頃は、まだまだ日本は発展途上というか、
自分たちでなにも生み出せない国と思われていたんですね。
はっきり言ってかなり偏見を持たれていました。
またそれが、日系アメリカ人の差別を受ける要因にもなっていたんですが
それはまた別の話。

真珠湾攻撃は、アメリカ軍の上層部は知っていた。
日本に先に攻撃させ、アメリカ国内の反日感情を増幅させ
戦争に突入しようとしていたと考えられるし
歴史は実際にそうなってしまった。

しかし、アメリカは零戦の、その神秘的な強さを見くびっていたのだろう。
そしてパールハーバーは攻撃され、多大な被害をこうむってしまった。
フィリピンでも、まさか日本の戦闘機が台湾から飛んでくるとは考えられなかった。
運が日本に味方したとはいえ、フィリピンの航空戦力も壊滅。

そして日本は零戦に頼るようになってしまった。
後継機の開発も遅れる中、最前線からは零戦の補充を求めてくる。
日本の工業力は消耗に追いつかない。

零戦だけに頼った日本軍は、改良に改良を重ね多くの形式の零戦を作ったが、
アメリカの工業力にたちうちできるはずもなく
最後は特攻機として使われるという 悲惨な運命となってしまった。

だから、私は零戦52型というと 悲壮感しか感じないんですが・・・

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忘れてました(^^;)
『零戦』は(れいせん)が正解です。
(れいせん)と読むか(ぜろせん)と読むかで マニア度がわかるんです(笑)
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2009/8/11

源内の最期  うろおぼえ歴史


俺はエレキテルを作った。
でもその価値はだれにもわからねえ。
とうとう見世物にされちまった。

金山を見つけても信用してくれねえ。
掘り出すまでの費用が捻出できねえときやがる。
少々借金をしたところで金さえ出りゃあ 大もうけできるってのによ。

源内櫛は売れたけどよ
あんなもなあ ただのアルバイトよ。

気球もなあ・・・
金さえありゃ 空を飛べるぐらいでっかいのを作って
みんなをアッと言わせてやったのになぁ・・・

牛の背中に脱色剤を塗ってやって
「南無阿弥陀仏」と描いてやったら
みんな大喜びで拝みにきやがる。

俺はいったい何をやってるんだ・・・・


俺はいろんなことがやりてえ。
いろんなことをするには金がかかる。
だからいろんなことをやった。

本を書いたり 戯曲もかいたりしたけどよ
そんなもなぁ 面白い話がねぇから 俺が書いてやっただけじゃねぇか。

名前は売れたけどよ
俺がやりたかったのは こんなことじゃねぇんだ。
こんなことじゃ・・・

おい、お前ら!
俺のことを先生と呼ぶんじゃねえ
俺は源内大明神だぜぇ
生き神様とでも呼んでくんな

---------

源内ほどの多岐にわたる才能を持っている人はやりたいことが多すぎたのだろう。
なにをやっても人気者になれた。
しかし、本当に勉強したかった蘭語の才能は無く
翻訳できないままに終わってしまった蘭書の山。

そうしたなか、付き合いがあった杉田玄白は「解体新書」の訳者として
一躍有名になってしまった。
そういう焦りが源内の心の中で増幅していったのではなかろうか。

「功ならず名ばかり遂て年暮れぬ」
という歌も残している。


晩年になって源内は家を手に入れる。
その家を見て 当時の建築法の無駄に気がついた源内は
格安で丈夫な建築法を編み出した。
そしてその設計図を盗まれたと勘違いした源内は
とうとう人を殺める・・・・

源内は伝馬町(牢獄)に送られ 獄死した。
没年五十一歳 死因は病死とも自殺ともいわれている。

以外に知られていない 源内の悲惨な最期であります。
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2009/7/31

源内とエレキテル  うろおぼえ歴史


杉田玄白が解体新書を発行し、一躍有名になり
源内が蘭画を教えた 小田野武助も蘭画が上達し、
それぞれ立派になっていくなか
源内は自分がやるべきことをやっていないことに気がつく。

鉱山の開発も 精製技術が乏しく、思うように鉄や銀の生産ができず
源内が書いたたくさんの書物も、源内のアルバイトに過ぎなかった。

源内のやりたかったこと。
それは学者として、博物学の本を書きたかった。
植物学、鉱物学、動物、魚、虫・・・
源内、すでにこのとき49歳。

つまり源内は才能がありすぎて、多方面に才能を使いすぎていた。
源内が現代に生きていれば とてつもない人気者になっただあろう。
そして源内はついに オランダ人にもらった壊れたエレキテルの修理を完成する。

源内のエレキテルは 箱についたハンドルを回し、静電気を起して
箱の上から出ている金属棒で放電させるという単純なものだった。
しかしながら わが国初の科学実験だったのであった。

しかし、一般人にはそれが どれだけのすごいことなのかは受け入れてもらえず
源内は再び落胆。
静電気を一般大衆に受けるような 静電気を使った見世物にオモチャを作ってしまった。

せっかくの科学実験も 見世物でないと大衆には受け入れてもらえなかった。
そして、エレキテルの修理を手伝わせた大工が 似たような箱を作り
失敗を繰り返して エレキテルの信用は地に落ちる。
源内は怒った。

特許なんてなかった時代だから、奉行所に訴えても喧嘩両成敗で お構いなしとされる。
悔しがる源内。
そうして この頃から源内の言動がおかしくなり始めるのだった。

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