15世紀半ばから本願寺一向宗の八世蓮如上人が加賀のこの地に空堀と柵を構えた寺院を建て、尾山御坊(金沢御坊)と称します。
1580(天正8)年織田信長は柴田勝家の甥、佐久間盛政に加賀一向宗の拠点である金沢御坊攻めを命じます。
佐久間盛政は金沢御坊を落とすと修築して尾山城と称し、これが金沢城の前身となります。 盛政は石川・河北2郡13万石を領します。
1583(天正11)年、賤ヶ岳の戦で柴田勝家は羽柴秀吉に敗れ、越前北の庄城で自刃、佐久間盛政は捕縛され京六条河原で処刑されます。
1585(天正13)年、能登の前田利家が賎ヶ岳の戦功により石川・河北2郡を加増され金沢城へ入城、この城を居城とします。
客将高山右近の指導の下、利家・利長・利常の3代に渡って城と城下町が整備され、利長により金沢城と改められました。
1602(慶長7)年金沢城は落雷により天守を焼失し、以来天守は再建されませんでした。 前田氏は大名最高石高102万石を世襲し、利家以降14代を経て明治に至ります。

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