2008/6/30  23:43 | 投稿者: 時鳥

毎年恒例、ICCの夏休み企画の詳細が発表になった。

ICCキッズ・プログラム
「君の身体を変換してみよう」
期:7/12〜8/31 10:00〜18:00(月、8/3休み)
http://www.ntticc.or.jp/index_j.html

出品作品
《伸びる腕》2008年 ユーフラテス
《翔べ!小さな自分》2008年 齋藤達也+井高久美子(共に佐藤雅彦研究室)
《21世紀如意棒》2008年 勝目祐一郎(佐藤雅彦研究室),佐藤雅彦
《点にんげん 線にんげん》2008年 安本匡佑(桐山孝司研究室)+石川将也(トピックス),佐藤雅彦
《ミクロ職人修行》2008年 ユーフラテス
《計算の庭》2007年 佐藤雅彦+桐山孝司

例年通りなら、今、計算の庭がある場所をちょっと拡張したところが
企画展示スペースになる。
見ての通り、今年は佐藤雅彦さんが監修にあたっている。
にゃあさんが喜ぶかも。

ICCに限らず、隣のオペラシティホールでも新国立劇場でも、
夏休みの子供向けプログラムがこの時期たくさん上演される。
近江楽堂でのプログラムに、こんなのがあった。

鉄道唱歌を歌おう
8/8 12:30〜,13:45〜
入場無料、先着100名(11:45より両回分の整理券配布)

一人一番として、新橋からどこまで行けるんだろう。
一斉練習の後、一人一番ずつ歌いつなぐ。切れたら最初からやり直し。
その状況を思い浮べて、長縄跳びみたいだと思う。
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2008/6/29  23:01 | 投稿者: 時鳥

美術館のロッカーの扉に、こんな注意書きが貼ってあった。

「お帰りの際、鍵が逆さまですと扉は開きません。
ご注意ください。」

思い切りツボにはまって、吹き出した。
普通、逆さだと鍵が鍵穴に入らないと思うんだけど。
そんな理由でロッカーの鍵が開けられない人が現実にいるらしい。
で、係員に訴えに来て、鍵が逆さまだったってことがわかって、
負け惜しみ半分に「言ってくれなきゃ分からない」とかごねて、
真に受けた館側が、ロッカーに注意書きを貼ることにした、って流れだろうか。

でも、こういう注意書きをちゃんと読む人は、
鍵が入らなければ逆にしてみるくらいのことはすると思う。
だからこの注意書きが役に立つのは、
利用者がロッカーの鍵を開けようとする時より、
むしろ開けられない利用者に係員が説明する時だろう。
最近、こういう妙にアリバイ臭い注意書きが増えた。

もっとも、これが世にも珍しい、鍵の上下を間違えても
鍵穴に鍵が入るロッカーだって可能性は一応、残されている。
そうだとすれば確かに注意書きは必要になる。
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2008/6/29  0:50 | 投稿者: 時鳥

「こんな風に見えているんだ。いいなあ。」
内心でそうつぶやいて、微笑んだ。
ブリヂストン美術館で岡鹿之助の作品を前にした時のことである。

4月からこちら、この館では岡鹿之助の回顧展を開催している。
チラシの表に印刷されたパンジーの絵を見て行きたいと思ったが、
実際、見てみると予想以上にいい展覧会だった。

1898年東京生まれ、東京美術学校(現在の東京芸術大学)卒業後、
すぐにパリに渡り、およそ15年をかの地で過ごす。
画風は晩年まで基本的に変わらず、30年前の1978年に亡くなっている。
今回の展覧会では、全国から集めた彼の作品70点をテーマ別に分類して展示していた。
分類は、海、掘割、献花、雪、燈台、発電所、群落と廃墟、城館と礼拝堂、融合の9つ。

右折や合流が苦手そうな人だと思う。
他の人や車を押しのけて、自分の場所を確保できない。自転車のベルが鳴らせない。
信号のないところで右折しようとすると、対向車が気になって出来ないんだけど、そのくせ、
絶対に目的地を変えず、同じところを辛抱強くぐるぐる回って、対向車が消えるのを待っている。
人に何か言われても、強い声で理路整然とは反論できなくて、語尾が口の中で消えていく。
でも、芯は曲げず、考えは変えない。
絵からそんな人物像が浮かんできて、くすくすと笑いながら見る。

上の分類にも見える通り、割りに素っ気ない題材を選ぶ人なんだけど、
画面全体に天然の甘さが漂っている。
酸っぱさはあっても苦さのない甘さ。
風景画に描かれた場所は現在も残っているのかもしれない。
けれど、他の人が見ても、きっとこうは見えないのだろう。
口数が少なくて、見る側に常時強く訴えかける絵ではないのだけど、
「それで、どうなったの?」と水を向けると、小さな声でぽつぽつと、途切れがちに、
これまでに聞いたことのないような話をしてくれる。
そばに置いておきたいと思う人の気持ちがよく分かる。

描くのはもっぱら建物や静物や風景。
風景でも山海や田畑ではなく、人間によって作られた運河や町を好む。
動物に興味がなかったわけではないと思うけど、要領よくポイントを抜き出すのは
不得手だから、どの瞬間を切り取っていいのか分からなかったんじゃないだろうか。
「献花」にあった作品はどれも花瓶や花籠を真正面からとらえ、
今を盛りと咲き誇る花がすべてこちらを向いている。
建物でもホテルや市場、観光地といった人の集まるにぎやかな場所は選ばず、
発電所や燈台、僧院や廃墟など、人があまりいないか、静かな人間しか集まらない場所を選ぶ。
そういう場所の、無駄に人好きのしないところ、フレンドリーすぎないところが
気に入っていたんじゃないかと思う。
題材選びでは奇を衒わない。いつも同じと言われても構わない。
動かないものをとことん観察して、構図やバランスがぴたりとはまる場所を模索する。
似た絵が何枚あろうと、どれもが新鮮で、いつになっても瑞々しい。

一番気に入ったのは、雪の群落を描いた作品。
パリかどこかフランスの街に連なる屋根屋根を、高い場所から描いている。
屋根は雪でうっすらと白く、無数に突き出した煙突が無骨なのに不思議に甘い。
頭の中で、ラ・ボエームの第三幕冒頭の音楽が流れる。
舞台はパリのアンフェール門の税関、時刻は明け方、季節は冬。
静かに降る雪が周囲の音を消す。
近隣の村から牛乳を売りにやってくる女性たちの声が遠く聞こえる。
貧しさ、暗さ、哀しさを含んでいながら、静謐で清浄な空気で満たされた音楽。
同じものを、この絵もいっぱいに抱えている。

小部屋に、彼を写した写真があった。
トランプが弱そうな人だと、直感的に思う。
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2008/6/29  0:40 | 投稿者: 時鳥

渋谷区立松涛美術館で「大正の鬼才 河野通勢」展を見る。
随分前から楽しみにしていた展覧会だ。
河野通勢は戦前には挿絵画家として人気を博したそうだけど、今となっては忘れられている。
挿絵を描く前は洋画を志していて、10代後半から20代はじめに描かれた大量の作品が近年になって発見された。
本展覧会は新発見資料を中心とした約350点で構成され、平塚市美術館、足利市立美術館と巡回してここ渋谷にたどり着いた。
この後、11月には河野の郷里である長野県信濃美術館にも巡回する。

館には地下1階の第一展示室と2階の第二展示室とがある。
第一展示室は、主に20代前半までに描かれた油彩や素描を集めている。
題材として一番多いのは郷里の風景で、殊にごうごうと枝が鳴っていそうな河柳を多く描いている。
また、聖書を題材にした宗教画や自画像、身近な人物の肖像画も多い。

チラシを一目見た途端に見たいと思ったのは、この時代の絵を見たからである。
うねるような唸るような力が画面から発散されていて、画家の名前を知らなくても、好みに合わなくても、見た人をひきつけてやまない。
縮小写真から放たれていた力は、実物になるとことさら強かった。
力に引きずられるようにして絵から絵へ、展示室の奥へ奥へと導かれる。
が、展示室を半分見終えたあたりで食傷した。
あまりに濃厚すぎる。
それも、蒸留酒のストレートの濃さではなく、4倍に薄めるアイスコーヒーの原液を、マグカップになみなみと注がれたみたいな濃さ。
酩酊感や浮遊感、ほろ酔いの楽しさみたいなものがなくて、ひたすら神経が過敏になって、目が冴える。
油彩も素描も隅々まで張り詰めていて、見るほどに生気を奪われる。
描写力は物凄い。迫力があり、強烈な個性があり、引力があり、大変な才能がある。
凄いと思うし、こういう絵があることは知っているけれど、個人的な趣味として好きになれない。
かなり消耗して、第一展示室を出る。

休憩をはさんで、第二展示室へ。
こちらは関東大震災の様子を描いた銅版画や挿絵画家として描いた作品、また、父親の河野次郎の作品を展示していた。
第一展示室に比べると緊張感の薄い、率直に言えば今ひとつの作品が多かったので、気楽に見られる。
関東大震災の銅版画はユーモアを交えて描こうとしているけど、どうも成果をあげていないように見える。
多分、この人は風刺画にあまり向いていない。
何でも描けると岸田劉生に評されたように、何を描いても細部まで行き届いているけど、省略したり、面白いものを直感で見つけてすくい上げる能力にはさほど恵まれていない。
面白い物を作ろうと頭で考えて、鼻持ちならなくなることもしばしばだ。

第二展示室には、人気を博した新聞挿絵や装丁した本も展示されていた。
これらでは初期の、理屈っぽさと激情の折り合いがつかずにうねっていた部分が影をひそめ、理性が前面に出て制御に当たっている。
いつまでもうねり続ける展開もあっただろうし、激情側に突き抜ける展開もあっただろうけど、これはこれであり。
多分、これが一番摩擦の少ない生き方だろう。
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2008/6/28  8:09 | 投稿者: 時鳥

松岡美術館で唐三彩を見る。
唐三彩は唐の時代の焼き物で、黄色、緑、褐色の3色の釉薬を使うのでこの名前がある。
もう一色、藍色が入ると唐四彩・・・ではなく、「藍彩」になるんだそうだ。

唐三彩といえば、馬である。
人間や他の動物もあるけれど、何といっても斑に染まった馬の像、三彩馬で有名だ。
この館も三彩馬を沢山持っていて、会場の奥には10頭以上が並んでいた。
その横には、駱駝も3頭いる。
不思議なことに、馬も駱駝も、大きさは大して変わらないのに、受ける印象が随分違う。
理由を知りたくて、しばし比較した。

馬の事はよく分からないけど、三彩馬はおそらく、馬として理想的な体つきをしている。
しかも、人の言葉を理解していそうな賢い顔立ちで、全身を美々しい馬具で飾られている。

一方、駱駝は3頭とも上を向き、いななくように口を開いている。
人の言うことを完全に無視しそうなふてぶてしい面構えに、装備といえば背中にかけた布のみ。
鞍も手綱もなく、代わりに側には駱駝引きが立っている。
どうやら駱駝引きがいないと、思い通りに動かないらしい。
3頭のうち1頭だけは駱駝引きを従えていないが、その代わり、背中に人間を乗せていた。
その人間がまた不自然に小さく、駱駝に乗っているというより、乗せてもらっているように見える。
マイペースで人間の思い通りにならなくて、気が向かなければ立ち上がりもしないっていう駱駝の性質が、どれもよく現れているように思う。

馬が二枚目の優等生なら、駱駝は何をしでかすか想像の出来ない三枚目、
馬が理想の姿なら、駱駝は現実。
馬にだって駱駝みたいなマイペースはいるはずだけど、そういうのは作る気がなかったらしい。

人物像は、女性はみな丸顔でふっくらとした体つきの、いわゆる唐美人。
面白かったのは一対の官人像で、冠以外、ほとんど同じ身なりをした二人のうち
一人はどんぐり眼で彫りが深く唇も厚い、見るからに西方の顔立ちだったのに対し、
もう一人は細い目、薄い唇、平坦な目鼻立ちの漢民族の顔をしていた。
違う人種が自然に混在していた様子が見えるようで、面白い。
本当は、冠が重要な意味を持っているのかもしれないけれど、どんな意味なのかは不明。
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2008/6/27  23:02 | 投稿者: 時鳥

駅のホームを歩いていると、柱に薄い、三味線箱ぐらいの大きさの箱が
取り付けられているのが目に入った。
表面に大きく「安全取得器」と書いてある。
うっすらと興味を引かれる。
まるで安全を拾える機械のようで、素敵だ。
箱の下の方に小さめの文字で、
「線路に物を落とされた方は駅員にお申出ください」とあるからには、
線路に落ちた物を安全に拾うことが出来る用具なんだろうけど。
中身を確かめたくなったが、危うく踏みとどまる。
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2008/6/27  8:00 | 投稿者: 時鳥

おいしそうな料理が出てくるミステリは時々ある。
けれども、料理と事件のつながりが薄かったり、料理は美味しそうなのに
ミステリとしては納得がいかなかったりと、ミステリと料理の双方で
満足できる作品は意外に少ない。
その意外に少ない、貴重な作品が本書。

下町の片隅にあるフレンチ・レストラン、ビストロ・パ・マル。
従業員4人の小さな店だけど、とびきり美味しい料理と菓子を気取らずに
食べられるこの店は、いつもおいしい物好きのお客であふれている。
店の片隅や客の会話の端々には時々、結び目のようなものがあらわれる。
事件と呼ぶにはささやかだけど、不思議でも、謎でもあることには違いない。
そんなちょっとした結び目たちを、三舟シェフは料理と共に解きほぐしてみせる。

三舟シェフは結び目を解くけれど、解決はしない。
あなたが四角と思っていたのは、本当は円筒ですよと伝えて、丸を見せる。
でも、四角と思い込んだせいで歪んだものは、思い込んだ当人にしか正せない。
他人に出来るのはせいぜい、一言と一皿で背中を押すくらいのことだ。
食えない見かけの裏で、三舟シェフはおそらく、そんな風に考えているのだろう。
ビストロ・パ・マルの印象そのままの、おいしく暖かく居心地のよい作品が7編集まった短編集。
ところどころに挟まれる小さな笑いもほどよい。
些細なきっかけで食い違う人の心がちょっとだけ哀しくも愛しく、心があたたまる。
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2008/6/27  0:17 | 投稿者: 時鳥

"What is this?"
"This is an apple."

最初の英語の教科書の最初の章に、こんな問答が出てくる。
「これは何ですか?」「これはりんごです」。
ちょっと奇妙に感じてはいたけれど、私は長年、この問答をごく普通に受け止めてきた。
今日になってふと、これは実はすごい会話なのかもしれない、と気づいた。

例えば私が日常生活のどこかで、りんごを前にして「これは何ですか?」と尋ねたとする。
その時、「これはりんごです」に類する答えが返ってくる状況を、私はほとんど想像できない。
もし、八百屋や果物屋で店員相手にしたなら、「紅玉です」とか「ジョナゴールドです」とか、
品種について回答されるのが一番ありそうなケースだろう。
あるいは産地や育成方法について説明してくれるかもしれない。
また、自宅のテーブルに転がっているりんごを指して家族に聞いたなら、
「お隣の何とかさんにもらった」といった入手経路に関する答えか、
「夕食の後、食べようと思って」といった利用方法についての答えが返ってくるのが普通だろう。
よほどのことがない限り、日本人の私が日本国内で日本人相手にこの質問をぶつけて、
「これはりんごです」という返答を得ることはないはずだ。

質問者も回答者も質問の文言もまったく同じなのに、状況によって回答が大きく
異なってしまうことがある。
それは、回答者が質問の意図を解釈する際、状況がとても大きな判断要素になって
いるからなのだと思う。
「これは何ですか?」と問われた側は、質問者が何を答えて欲しがっているのかを
無意識に、瞬間的に推量する。
1つのりんごには、色々な属性がある。
名称、品種、入手経路、利用方法、経過日数、大きさ、色、その他もろもろ。
現在の状況やりんごそのものの状態、質問者とりんごと回答する自分の関係など、
多くの要素を頭の中で組み合わせて、回答者は質問した相手が何を答えて欲しいのか、
また、自分が何を答えられるのかを即時、判断する。
そして、質問者が「りんご」という一般名詞を求めていると回答者が推量した時、
初めて「これはりんごです」という答えが出てくる。

そう考えると、「これはりんごです」という回答が出る状況は非常に限られる。
まず、質問者側に何らかの理由がある場合。
質問者が子供や外国人で、「りんご」という言葉や概念を知らない場合がこれに相当する。
私が日本語で質問する場合、このケースはほぼありえない。
そして次に、りんご側に問題がある場合。
水分が全部抜けて真っ黒になっているとか、カビにおおわれてむにゃむにゃだとか、
大きすぎるとか小さすぎるとか、質問者のりんごの概念から離れた代物が
転がっている場合がこれに相当する。
そういう状況もあんまりない。

実はもうひとつ、この手の回答が出る状況がある。
それは、回答者側に問題がある場合。
回答者は、自分に求められている答えが「りんご」じゃないと推量しているんだけど、
求められた答えを提供できない理由がある。
入手経路や利用方法を質問者に正直に言うには差しさわりがあるけど、
とっさに取り繕うことが出来ないばかりに、的外れな回答で逃げようとする。
この手のぼけた回答は大抵、効果がない。
それどころか墓穴を掘る羽目になって、無駄に厳しい追及を受けるのが通例である。
もし、日本人同士の会話で「これはりんごです」が使われることがあるなら、
一番ありそうなのはきっと、このケースだろう。
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2008/6/26  0:40 | 投稿者: 時鳥

「館蔵 茶書百珍」展より、多分、大正から戦前のエピソード3種。
手元のメモを元に再構成。

・紙成茶会
戦前に開かれた茶会のひとつ。
紙成金、藤原暁雲氏が主催。
列席者からは、「かみよもきかず」を含む歌が大量に寄せられる。
亭主の歌。
「千早振るかみ代もきかず苫小牧かかるまうけを身にしむるとは」

・完全無欠居士
加藤正義氏は、ひびや傷の入った道具を嫌った。
傷がない中でも特に、青磁や白磁などのきれいな道具を好み、
そのため、完全無欠居士と呼ばれた。
ある茶会のこと、亭主を務めた加藤氏は例の如く傷のない道具をそろえたが、
完全な道具を扱う中指の先には、数日前に作った傷が残っていた。
列席者が、「中指以外完全無欠」とささやきあったのは言うまでもない。

・豹変
『茶道銀杏之木陰』を著した西象庵氏が講演会をすることになった。
当日、講演直前に西氏の姿が会場から消えた。
関係者が慌てふためいて探し回ると、とぼとぼと歩いて帰途をたどる西氏が見つかった。
人前で話す自信がないので、帰ろうとしていたそうだ。
引きずるようにして会場に連れ戻し、無理やり壇上に上げる。
すると、自信がないのはどこへやら、立て板に水の弁舌で講演をやってのけ、
関係者一同呆気にとられた。

洒落が過ぎて、底意地の悪さと見極めが付かなくなっているのが特徴。
茶書というより、むしろゴシップ?
高橋箒庵という人が、この手の文章で面白いものを残したらしい。
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2008/6/25  23:49 | 投稿者: 時鳥

齋田記念館に「館蔵 茶書百珍」展を見に行く。
この館に行くのは、初めてだ。
茶道関連の展示をしているらしいことは、以前からちらほら情報が入っていたのだけど、
今ひとつ食指をそそられず、これまで行ったことがなかった。
今回の展覧会はチラシの誘い文句がすこぶる魅力的で、行く気になる。

基本的には平日しか開いていない。
到着すると、展示室の方向は静まり返り、事務所にたったひとりで座っていた人が
出てきて、入場券をきってくれた。
珍しいのか、展覧会を知った経緯を問われる。

展示室は一部屋しかなく、その上、狭い。
小さな画廊くらいの規模だけど、展示内容は期待に背かず濃かった。
チラシにはこうあった。

「長年茶書の展覧会に従事してきた当館学芸員が、館蔵品より独断と偏見で、
面白い茶人・逸話を記したもの、奇妙なタイトルのもの、奇想天外な見解がみられるもの
など、思わず笑ってしまうような茶書を選んでご紹介致します。」

展示は、茶書の傍らに書誌事項を記載したキャプション、それに見所を解説した
解説板がつくという形式だった。
とにかく、解説版で紹介される茶人が皆、見事なまでに大人げなく、
困ったちゃんぶりに爆笑する。

入って早々、まず展示室中央のガラスケースを覗き込む。
すると、茶道雑誌に掲載された「茶とゴルフ」という文章があった。
茶もゴルフも、うまくやろうと気負うと失敗し、無心になるとかえってうまく行く、
その点ではよく似ている、というようなことを大真面目に記している。
間にあるべき根拠だとか論理だとかが、どっかですっぽり抜けている感じ。

同じく、中央ケースには西堀一三氏の著書が何冊か置いてあった。
解説版曰く、大変なロマンチストで、どの著書も前書きが感傷的で叙情的なんだそうだ。
歯に衣着せない柳宗悦はくそみそにけなしているし、展示にあたった学芸員も
「展示準備に追われる学芸員としては、前書きには要点を簡潔に書いて欲しい」
という趣旨で解説版の中で愚痴っていた。よほどらしい。

その隣には、チチ松村の『それゆけ茶人』、『旅ゆけ茶人』が置かれていた。
この館は茶書を現在進行形で蒐集している。
新刊の茶書もきちんとチェックしているようで、タイトルに釣られて
求めたものの、予想外の内容に呆然としたそうだ。
解説版に、学芸員のキツネにつままれた様子がよく現れている。
作者で見当はつかなかったのか、とか、見当がつかなかったにしても
1冊目で気づくんじゃないか、とか、思うところはあるが、
それでもタイトルに茶人と付く以上、集めないわけにはいかなかったのかもしれない。
茶書のはずが、クラゲの風流について読む羽目になってしまった学芸員を思い、苦笑する。
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2008/6/25  12:52 | 投稿者: 時鳥

たらいまわし企画・第44回「種子を蒔くもの、花と緑の物語」

たら本」というのを見つけました。
正式名称は「たらいまわし方式・本のトラックバック企画」、
毎回違う主催者さんがお好みのお題を出し、参加者はお題にそった本を
ブログで紹介し、トラックバックする、というものだそうです。
今回が第44回。面白そうなので、ちょっとやってみます。

今回の主催者はGREENFIELDSの美結さんで、
お題は「種子を蒔くもの、花と緑の物語」。

思い悩んだ挙句、4作品を選択。

『永遠の森 博物館惑星』菅浩江/早川書房
地球の衛星軌道上に浮かぶ巨大博物館アフロディーテを舞台にした連作SF短編集。
お題からまず思い浮かべたのは表題作だけど、イダルゴの蓮を巡る最終話もそうですね。
「永遠の森」は、盗作問題で揺れるオルゴールとバイオ・クロックの物語。
二つの作品が並んで作動した瞬間、同時に立ちのぼる亡き製作者たちの想いが切ないです。
「ラヴ・ソング」は、イダルゴの蓮とグランドピアノを巡る物語。
ピアノと蓮と登場人物の、それぞれのラヴ・ソングが縒り合わされます。
演奏会の開始から終幕までは、圧巻の一言。

『いざ言問はむ都鳥』沢木喬/東京創元社
植物学者を主人公にした連作推理短編集。
毎回、謎に関わるか瓦内を度外視して、植物にまつわる話がたっぷり語られます。
推理小説としては、もつれたものが鮮やかに解きほぐされる、というより
むしろ、気になるたるみやしわを両側から布地を引っ張って伸ばすような、
冷静な味わいがあります。

『醜い花』岩波書店
絵本で、文章は原田宗典さん、絵は奥山民枝さんが担当しています。
主人公は「醜い花」。それが植物の名前で、固有名詞でもあります。
世界で一番醜くて、酷い匂いをしているその花を、誰もが忌み嫌っています。
けれど、性根は決して醜くないその花は、忌み嫌われていることを
深く悲しみ、悩み、自分を責めます。
理不尽だけど、でも、とても印象深い寓話です。
奥山さんの絵も魅力的。

『ひみつの植物』藤田雅矢/WAVE出版
著者紹介では「筋金入りの植物ハカセ」になってるけど、これはもう植物オタクの域では?
不思議な植物の話を聞くだけで胸を高鳴らせ、写真を見てどきどきし、
実物を前にして目をきらきらさせ、世話をするたび、心のどこかがスキップしてそうな人。
そういう人が自分の愛する不思議な植物について、それはそれは楽しそうに語った本。
植物を育てる趣味はあんまりないので、自分で育てようとは思いませんが、
石ころそっくりの菊や変わり咲き朝顔やピンクのタンポポや刺のないサボテンや、
緑のサザエが集まったみたいなカリフラワーや、その他諸々の不思議な植物の
写真を見て、説明を読むだけでも面白いし、心底、楽しそうな著者の様子に、
こちらまで楽しくなります。
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2008/6/24  23:27 | 投稿者: 時鳥

少し離れたところから、受付ロボットを観察していた。
若い女性の姿をして、受付嬢の扮装で椅子に腰掛けている。
揺れや傷がなくて人工的だけど、ちゃんと女性の声と言葉で応対し、
素直すぎるしぎこちないけど、語りかける言葉に反応して、表情を動かす。

彼女に話し掛ける人を、しばらく見ていた。
人間は、相手が人間じゃないと思うと、かなり酷いことも平気で言える。
それがまだ大した問題になっていないのは、彼女が実際にロボットで、
しかも人間に似ているけど、人間と見間違えるほどではないから。
おそらく、ただそれだけの理由にすぎない。
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2008/6/23  22:41 | 投稿者: 時鳥

図書館の書棚から、以前借りたことがあるガイドブックを抜き取る。
何冊かと共に閲覧席に積み上げてめくっていると、ページの間からJRの切符が出てきた。
栞代わりに使って、返す時に抜き忘れたらしい。
一年以上前の日付と区間が印字された切符をしばらく見つめ、
どうやら自分がはさんだらしいと結論付ける。
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2008/6/23  0:16 | 投稿者: 時鳥

バスに乗っていると、路傍の自動販売機が目に入った。
最上段の隅に「おたのしみ」なる缶が入っている。値段は100円。
処分に困った缶飲料を売っているらしい。
買うまで何が出てくるか、まったく見当がつかない。
おそらく、中高生を中心とした学生の集団が時々洒落で買っていくんだろう。

毎回違うものが出てくるにしても、せめて炭酸かお茶かスポーツ飲料かその他か
ぐらいの大雑把な分類をしてくれると、大人が一人でもボタンを押しやすいと思う。
とりあえずお茶、銘柄は問わない、って状況が、日常生活には結構頻繁にある。
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2008/6/22  12:51 | 投稿者: 時鳥

川崎市立図書館が7月1日から図書館システムをリニューアルするそうだ。
そのため、先週から全館が休館している。
リニューアル後はウェブから本の予約取消や貸出期間延長手続きなどができるそうだが、
そんなことよりも、児童書コーナーの本をタイトルのあいうえお順に並べるのをやめて欲しい。
想像を絶して探しにくい。

面白い本があって、図書館でその本を見かけたとする。
その時、同じ作者の別の作品がそばにあったら「これも面白いかもしれない」と思う。
けれど、似た題名の別の作品がそばにあっても、面白そうだとは思えない。

図書館や本屋で勘を頼りに本を探す。
よほど小さなところなら隅から隅まで、すべての本を見ることもできるかもしれないが、
通常はジャンルだとか出版社だとか、版型とかレーベルとか分類番号とか著者名とか、
とにかく、何らかの絞込条件を設定した上で勘を働かせる。
勘にだって根拠はある。
本のタイトルはもちろん絞込条件となりうるけど、大量に書架が並ぶ日本文学コーナーで
タイトルの頭文字で絞り込むのは、あまりにも効率が悪い。

もしかしたら、子供なら著者よりもタイトルの方が探しやすいだろうという考えで
この配架なのかもしれない。
辞書を引くみたいにピンポイントで本を探すなら、この方式は確かに探しやすい。
けれど、この方式で本の探し方を覚えた子供は、大人の本棚を探すようになったら
本の探し方を覚えなおさなければならない。
多分、私がタイトル順を探しにくいと思うくらいに、その子は著者順の配架を
探しにくいと思うだろう。

開架式の図書館で本を探しはじめる瞬間、私は、帰りに抱えている本を予想できない。
探している本のリストを握っていても、心の隅っこ、と言うにはやや中央寄りに、
ウィルスソフトのような探知機が常駐していて、タイトルも著者もわからない
未知の面白い本を探している。

小説・随筆以外でジャンルが判っていれば、分類番号で絞って棚を隅々まで見れば事が足りる。
小説・随筆は分類番号で見るには量が多すぎるので、時間がない時は著者で絞る。
時間がある時はあ行、た行ぐらいのざっくりとした絞りで面白そうな本を探すこともある。
この時に分類が著者だと、知っている著者は飛ばすなり精査するなりの調整がしやすいが、
タイトル分類だと誰のどんな作品が並んでいるか予想できないため、
すべての本を同じ精度で確認しなければならない。
タイトル順の配架は、本をピンポイント指定で探すには使いやすいけど、
著者で探したり何か面白い本を荒絞りで探したりするには、隣合わせた本の間に
関連性が薄いため、大変使いにくい。

もっとも、分類番号と著者順の配架が最高かと言うと、それにもちょっと疑問が残る。
読みたい本のあいまいなイメージはあるけど、属するジャンルが自分にも判らないことがある。
例えば「90年代前半の講談社現代新書みたいな、少しひねったテーマを読みやすい文章で
書いていて、なおかつ根拠がきちんとした学術書、それでいて面白そうな本が読みたい」
と思った時、分類と著者はそれほど役に立たない。
絞込条件としては厳しすぎて、読みたい本がひっかからないのだ。
そういう時は、講談社現代新書の解説目録をめくった方がよほど役に立つ。
解説目録から糸口になる本を1冊見つけてしまえば、あとは巻末の参考文献から
リンクを張るなり、分類番号で探すなりができる。
とても有効な方法だけど、この方法の欠点は講談社現代新書の解説目録に
載っていない糸口は一生見つからないことにある。
だからそんな糸口は、また別の方法で探さなければならない。

そう考えると、万能の分類方法や配架方法って、きっとこの世にないのだろう。
できるだけ沢山の分類方法や捜索方法が提供され、探す側がその時その時に
選択できるのがベストなのだと思う。
必要な情報にたどり着くには、適切な探し方を選ぶ必要がある。
選ぶには知識や経験を元にした探す技術が必要で、これは大事なことの割に、
ちゃんと教えられた記憶がない。誰もが無意識に選んでいる。
これを意識的に選ぶだけで、結構、捕まる情報の量や質や、関連の付き方や
それこそ情報の見え方まで、変わってくるんじゃないだろうか。そんな風に思う。
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