2010/1/31  23:54 | 投稿者: 時鳥

村上春樹の訳文のほうで読む。
新潮文庫版は中学生の頃に読み通せなかった苦い記憶があるのだ。今なら読めるんだろうけど。

妙に気にかかっている場面がある。
彼女の郵便受けには名刺がはさまっていて、そこには「ミス・ホリデー・ゴライトリー 旅行中」とある。主人公の青年はちょっとした拍子に尋ねる。「どうして君は旅行中なの?」と。彼女は不意を突かれた顔をして、「それが何か変かしら?」と尋ね返す。

人に変と思われることを気にする人とは思わなかった。だからか、不思議に印象に残っている。
しばらく考えて気づいた。
拾った猫に名前をつけないみたいに、自分にも名前をつけてないわけか、この人は。
嘘吐きで、人を煙に巻くのは得意中の得意なくせに、こういうところでは嘘を吐く気がないらしい。
本当はこの世のほとんどの人は名前も住所も暫定なんだけど、さも永久不変のように振舞っている。そういうものだと知った上で、大人は名前を名乗って名刺のやりとりをして、ここだけの前提条件を積み上げている。
そのからくりを知っているのか知らないのか、彼女は不定であることを隠そうとしない。というか、固まりたくない、変わりたいという願望の表れなのかもしれない。
彼女はまだ知らないみたいだけど、ティファニーみたいな場所は手に入れると変容して、それ自体がひとつの不安になってしまう。そういう場所は手に入れるのではなく、手の届く場所に居続けるのがいいのではないかと、私は思う。
だとすると、彼女は彼女である限り、「旅行中」なのだろう。いつか彼女の名刺に住所と名前が印刷される日が来るかもしれないが、きっと、それぞれ別の名前と別の住所が印刷された名刺が5種類くらいあって、そして、どこにも印字されない、ほとんど名乗ることもない、ホントの名前と住所が別に存在するんだろう。
本当に、まやかしのティファニーにとっつかまったりしないで、そうなってくれることを祈っているんだけど。

『ティファニーで朝食を』トルーマン・カポーティ 訳:村上春樹 新潮社
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2010/1/31  22:43 | 投稿者: 時鳥

渋谷のパルコファクトリーとロゴスギャラリーで開催中の「MOE絵本フェスティバル」に足を運ぶ。
有料のパルコファクトリーでは酒井駒子、100%ORANGE、川浦良枝、島田ゆか、荒井良二、加藤久仁生、池田明子、杉浦さやか、工藤ノリコ、こみねゆら、どいかや、菊田まりこ、やまだうたこ(以上、敬称略)の原画と、作家の愛用品、それから80人以上の作家の方々からのお祝い色紙メッセージなどがたっぷりと展示されている。
無料のパルコギャラリーでは、雨宮尚子さんの切り絵、kabottさんの絵本を題材にしたバッグ、原優子さんの有名な絵本の主人公(ぐりぐら、ぴっちほか)のぬいぐるみなどが展示されている。
グッズや絵本、MOEはどちらの会場でも売られている。

加藤久仁生さんの絵本『つみきのいえ』の原画に見入る。
題名だけは聞いたことがあるけど、どんな話かは知らない。
その場に絵本があったので、読む。

徐々に水かさの増す街に、一人の老爺が住んでいる。
この街では家が床上浸水する頃になるとその上に新しい家を建てる。
そうして長年かけて家は積み重なり、水中から見るとさながら、積み木を重ねたように見える。
そんな街に暮らす一人の老爺と、彼の家の物語。

人が暮らす場所には、過ごした時間の記憶が刻まれている。
場所の記憶って普通は上書きされていって、同じ場所に古い記憶と新しい記憶が混在したり、古い記憶につながるものが破壊されて新しい記憶に結びつくものが出来たりするのだけど、この街の場合は古い記憶につながるものはみんな、水の中に沈められる。
今いるこの家は、古い記憶に直接はつながらない。
けれど、たとえば、水の中に落としたのこぎりを拾うためとか、何か理由をつけて水に潜れば、古い記憶に深く強く結び付けられた場所が誰にも上書きされないで残されていることに気づく。
今はいない人がいた時間、今いる人がいない時間、何かを持っていた時間、何かを持たなかった時間、懐かしい時間と懐かしい場所は、今いる家の下に全部、名前をつけて保存されていた。それらが積み重なった上に、今の家がある。
今いるこの家には古い記憶が残っていない、新しい記憶もいずれ水の下に消えてしまうから、と、水の下をないものに出来る人は別の土地に移れる。
でも、本人が意識していようといなかろうと、今の家は水の下に沈んだ全部の家の延長線上にあるということを忘れられない人は、この場所を離れられない。
水に沈んだかつての家は、家具が朽ちて海草が生えて、当時とは様変わりしている。
それでも、記憶を持つ人には、その場所をかつてのままに見ることが出来てしまうのだ。それはそれで、痛ましいことかもしれないけれど。

千年の樹齢の樹は、建築物になってからも千年の寿命を保つ。そんなことを言った宮大工の棟梁がいた。
今にして思う。建築物として過ごす千年は、その木にとってどんな日々なんだろう。樹として千年生きてしまったことを心の片隅で後悔する日はなかったんだろうか。
もしかしたら樹と同じように、数十年の大事な記憶がある人は、同じだけの味気ない時間に耐えられてしまうのかもしれない。
そしてなぜか私はそこから、満願成就なんて言葉を連想している。
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2010/1/31  0:26 | 投稿者: 時鳥

ふあふあさんの日記を読んで、今晩が今月2回目の満月と思い出す。
そうか、ブルームーンか、と、転がるようにベランダに出る。
見上げると、満月を中心にした大きな円が目に入った。
およそ、LP盤レコードの大きさ。
満月は真ん中の穴で、レコードの縁が鈍く光るように、空に大きな光の輪ができて、淡く輝いている。
空には雲と呼べるようなものは見つからないが、全体に水分を多く含み、地色はまろやかなブルーグレー。
そんな空に浮かぶ月にはソフトフォーカスがかかって、まるで春の朧月のようだ。
一月終わりの月としては、少々不本意かもしれない。こんな甘口になる気はなかったのに、と。
水気にはじかれた光が外側にはね返って重なり、大きな同心円を作る。
もしかしたら、家々に邪魔されて見えないだけで、地平線まで見える場所だったらもうひとつぐらい同心円があるのかもしれない。光の輪の段々。
「ブルームーンを見た人は幸せになれる」という伝説は、少なくともこの場所、この人に限定すれば真実だった。
たしかに、見上げて幸せになった。
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2010/1/30  23:48 | 投稿者: 時鳥

この時期にしては暖かい一日。
午前、窓際に座って、背面は日向ぼっこをしながら正面でフリーペーパーやパンフレットをめくって、情報の仕分けをする。
この部屋では、湯たんぽと日向ぼっこと煮炊きの火が主な暖房の役目を担っている。

昼前、近所に買い物に出る。
七分咲きの白梅を見つけて、ひっそりと驚く。
今年初めて梅の花を見たような気がする。
忙しすぎてか、もう梅の花が咲く時期だってことを忘れていた。

午後、あざみ野に「音が描く風景/風景が描く音」展を見に行く。または聴きに行く。
夜に帰宅。
洗濯物を取り込みに出たベランダの床が白く明るい。
ほぼ満月。
手帳をめくって確認する。
十六夜だった。
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2010/1/29  23:22 | 投稿者: 時鳥

最近見つけた催し物より。

「涅槃会を体感する会」
場所:神奈川県立金沢文庫
日時:3/13 13:30〜15:30
内容:映像で涅槃絵を体感します。*当日受付

ネハンエヲタイカンという言葉の響きに、まず内容以前のインパクトがある。
歳時記によると、釈迦が入滅した旧暦2月15日に各地の寺院で開かれる法会だそうだ。
寺院では涅槃絵を掲げて遺教経を読誦し、地方によっては粥を振舞ったり、餅や団子をまいたりするそうだ。
実際の涅槃会ではなく、映像で体感と言うのがまた渋い。

「氷川丸体操をしよう」
場所:日本郵船氷川丸船内
日時:5/15 13:00〜15:30
内容:手旗信号を使って、みんなで氷川丸体操をしよう
(当日製作した手旗はお持ち帰りいただけます)。*要予約・20名

こちらも氷川丸体操という言葉にインパクトがある。
手旗を作って、手旗信号を習って、体操も教えてもらえるんだろう。多分。
行くか行かないかと問われたら確実に行かないけど、
(そもそも、対象者は小学生とその保護者だ)
気になるかならないかなら、確実に気になる。
ちなみに講師は元船員や体操の専門家ではなく、現代美術家の高橋唐子氏である。
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2010/1/28  23:20 | 投稿者: 時鳥

出先で、カレンダーを見上げる。
一枚目がもうすぐ終わろうとしている。
この一枚もあと数日で役目を終えて、ほぼ確実に捨てられる。
ふとそんなことを思う。

普通のカレンダーは、日が経つごとに痩せていく。
今年の残りの日数がカウントダウンされるわけだけど、たまには過ぎた日数を積み重ねて、肥えていくカレンダーがあったっていいかもしれない。
月の半ばに来月のカレンダーが届く。
届くまで、どんな図柄かわからない。
届くと、来月が近づいたのに気づく。
そんなカレンダーも、きっと悪くない。

1か月半以上先の予定をカレンダーに書き込めないのが、このシステムの欠点と言えば欠点だ。
申込時に何ヶ月先のカレンダーを届けてもらうか選べるようにしても良い。
3ヵ月後を選ぶと、その人の予定は再来月から始まる。
だから今月と来月の予定は真っ白で、それまでは行き当たりばったりなのだ。多分。
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2010/1/26  8:25 | 投稿者: 時鳥

雨が降ると、魚の動きは活発になるという。
それは喜んで活発なんだろうか、それとも嫌がって活発なんだろうか。

水の中から雨を見上げるところを想像する。
水面がゆがんで、水の中と外を隔てる境界面がはっきりする。
薄いレースのカーテンから厚手の冬用カーテンに換えたみたいに、こちらからあちらも、あちらからこちらも、見えなくなる。それは多分、安心できることなのだろう。
不意に気づく。
陸地に降る雨は水で出来ているけど、水中に降る雨はきっと空気で出来ている。
空気の雨は浅く深く降って、途中まで降っては引き返すから、傘がなくても建物がなくても、少し深みに潜ってしまえばめったに雨は降ってこない。

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2010/1/25  23:50 | 投稿者: 時鳥

ヨーロッパ系の言語には、大抵、二人称が2種類ある。
初対面や親しくない相手に使う「あなた」に当たる言葉と、子供や親しい相手に使う「きみ」に当たる言葉だ。
最初は「あなた」で呼び合っていた知り合いが、あるタイミングで「きみ」になる。
何となく私は、このタイミングはどの言葉でもまったく同じもののように思っていたが、言葉が違うと言うことは文化が違うと言うことだ。それなら、「あなた」が「きみ」に変わるタイミングも、文化や地方や言語によって微妙な誤差があるのかもしれない。
イタリア人とロシア人では、基本的なタイミングは共通としても、細部で色々違いがありそうな気がする。
だとすると、例えば、ドイツ語の映画にフランス語の字幕を付ける際、音声と字幕で「きみ」と「あなた」の使い分けが異なっている場合だって、ありうるのかもしれない。
日本語の字幕では、現実の会話ではほとんど使われない「あなた」や「きみ」が頻繁に出てくる。でも見ている側はそういうものだと了解して、違和感を抱くことはほとんどない。
なら、ドイツ語のタイミングで切り替えられた「きみ」をフランス人が見た場合も、その手の了解が働く可能性もあるが、問題は、日本語の「きみ」はほぼ使われないのに対し、フランス語の「きみ」ははっきり意味を持って使われていることにある。
「あなた」が「きみ」に変わることに何らかの意味があり、でもその意味合いがずれている二つの文化というのは、「あなた」と「きみ」の使い分けがない文化とある文化の間よりも、一面ではよほど誤解が生まれやすいと私は思う。
映画の字幕なら誤解で済むけど、大事な会議の通訳などは気を使うところかもしれない。
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2010/1/24  23:41 | 投稿者: 時鳥

AさんとBさんの性質を、ある人は似ていると言い、別の人は似ていないと言う。
どちらかが間違っているのではなく、おそらく着眼点が違うのだろう。
例えば音楽だった場合、速さ、旋律、リズム、コード進行などの様々な要素のうち何を基準にするかで、似ているかどうかの評価はまったく異なってくる。
人間の性質は音楽よりずっと要素が多くて、要素の全てを言葉にしきれていないくらいだから、似ている似ていないはそれこそ評価する人ごとに異なると考えたほうがいい。
結果として同時に同じ場所にたどり着いたけど、経過が全然違う場合もあれば、たどり着く時間は違うけど同じ道筋をたどっていることもある。
前者と後者、どちらを似ているとするかは、評価する側の問題なんだろう。
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2010/1/24  21:24 | 投稿者: 時鳥

「東山魁夷と昭和の日本画」展を見に、山種美術館に行く。特に好きな画家ではないが、チケットを受け取ってしまったのだ。
館が千鳥が淵にあった頃には何度か行ったが、恵比寿駅から徒歩10分の今の場所に移ってからは初めての訪問になる。

「おお、これは。」
期待せずに会場に着くなり、内心で唸った。
「見事な化石壁と化石床だ。」
1階全体と、地下の展示室に続く階段は床と壁が同じ石材でできていて、無数のアンモナイトが埋まっている。べレムナイトとウニらしきもの、サンゴらしきものも見つかる。
展示品よりよほど熱心に壁と床を観察する。
足元を何気なく見ると、べレムナイトを踏んでいたりして、口元が綻ぶ。
都内屈指の化石含有率を誇る美術館であることは間違いない。

展示は、ほぼ予想の範囲内。
悪くはないんだけど、これが見られたから来て良かったと思う作品もない。
まあ、ここの収蔵品展はなんだかんだで5回以上見たことがあるから、見覚えのある作品があちこちにあるのは当たり前と行ったら当たり前なんだけど。
展示室の広さは千鳥が淵時代と大差ない。
駅から離れた便の悪い立地条件なのに、客がたくさんいる。
そういうところも千鳥が淵時代と同じ。
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2010/1/23  23:12 | 投稿者: 時鳥

音楽が好きだが貧乏な若者がいて、食い詰めて金持ちの叔父の元に身を寄せようとする。しかし、この叔父は大変な音楽嫌い。隣家には音楽好きの一家が住んでいて、バンドを組んで日夜練習に励んでいるのだが、しょっちゅう怒鳴りあいの喧嘩をしている。
叔父の元に行こうとしていた若者だったが、ちょっとした行きがかりから音楽一家の元に下宿してバンドに入り、その家の娘とお互いに好意を抱きあう。
彼の素性がばれそうになるとか、うっかり牢屋に入るとか、ラジオ放送ジャックをするとか、起こりそうなことが色々起こって、歌って踊って、ハッピーエンドと言う素直な作品。
日本未公開らしいんだけど、何でだろう。
ちゃんと面白いのに。

歌や踊りが随所に挟まれるけど、ミュージカルと呼ぶのはややためらわれる。
個人的な感覚では、歌や踊りによって物語が進行するものがミュージカルだと思っている。
この作品の場合、歌や踊りは要素として重要で、人の心を変える役割を果たすこともあるけれど、普通に動いて会話している日常生活がいきなり歌と踊りになってしまうことはない。
つまり、歌や踊りと日常生活の間には、ごくごく細いながらも境界線があり、歌は歌で台詞の一種にはならないのだ。

この時代のアメリカ映画らしく、話はとんとん拍子に進み、たいした悪事も悪人も出てこない。都合よく進みすぎるきらいはあるけど、これよりずっと無茶な台本を音楽の勢いで無理やり押し通した作品だってたくさんあるから、私にしたらこれくらい十分許容範囲。逆に、こんなにいい音楽を付けたんだから、もうちょっと音楽の勢いを借りても許されるんじゃないかと思う。歌も器楽も、かなりいい音楽がつけられている。ディナーの前の男声合唱が特に気に入った。

スクリューボールコメディ全盛期の作品で、台本も面白い。
音楽嫌いの叔父も音楽一家の母親も口が達者なものだから、この二人の口喧嘩は聴き応えがある。
うっかり護送車に紛れ込んで牢屋にぶちこまれても、楽しくハーモニカを吹いている主人公も、活発で機転の利くヒロイン、何かと言うと歌って踊って演奏する男たち、出てくる人々のほとんどはいい感じに明るく、明日を信じている様子が伺えて好ましい。
細かく探せば粗はある。
でも、見終わって何となく楽しい気分になる映画って、それだけで十分に価値があると思う。数時間でも数分でも、確実に人の人生を明るくする。

「恋のラジオ放送」1941年 アメリカ
監督:ジョージ・マーシャル
ジェームズ:ジェームス・スチュアート
モリー:ポーレット・ゴダード
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2010/1/22  0:28 | 投稿者: 時鳥

98%が水で出来た、新しい素材が開発された。

というニュースを読む。
海外の雑誌に近々論文が掲載されるそうだ。
グミキャンディに似た感触で、硬さはこんにゃくの500倍だと言う。
こんにゃくの500倍の硬さ。
それがいかなるものか、その場に居合わせた人間で相談したが、誰一人具体的なイメージがつかめなかった。
硬いのか軟らかいのか、皆目見当がつかない。
この比較、論文を読む人にはわかりやすいものなんだろうか。
日頃こんにゃくと触れ合っている日本人にもわからないのに。
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2010/1/20  22:34 | 投稿者: 時鳥

強い強い風の中にいると時々、疑う瞬間がある。
もしかしたら私は、風上から吹かれているのではなく、風下から吸い込まれているのかもしれない。
風の泉だとか卵だとかから風が生まれて四方八方に散っていくのではなく、風の終着駅とか寄合所とかのいわゆる吹き溜まりがあって、各地で生まれた風は皆、そこを目指して集まっていく。
到着した後については、まず、ほかの土地から来た風と情報交換することは間違いない。
その場所を安住の地にして、茶飲み友達と世間話をしながらのんびり余生を過ごす風もあるだろう。
けれど多分、大部分の風はしばらくしたらその場所を離れ、吸い寄せられるようにして別のポイントに向かう。風の寄合所は世界中、至る所にあるのだ。
たどり着いたポイントで、別のポイントの噂を聞く。噂に惹かれて、また旅に出る。旅が終わる時期は、風自身もおそらく知らない。88個スタンプを集めれば終わりといったわかりやすいものではないだろうから。

目には見えないけれど、空中には風の軌跡が残されているのかもしれない。
ひとつひとつの風が描いた軌跡は絡み合って、まるで神経細胞のシナプスのような複雑で細かい網の目状態を作っている。
風の軌跡の繊維が絡んで、フェルト状になって地球をくるんでいる。
世間ではそれを、大気圏と呼んでいる。

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2010/1/19  23:41 | 投稿者: 時鳥

試験に出る割合ナンバーワン、と、ある新聞が広告でうたっていた。
それは本当に自慢になるのだろうか。
内心、首をかしげる。

特に大学入試の国語の論説文なんて、悪文ばかり出てきた記憶がある。
ふるいにかけるのが目的だから、誰にでもわかる平易でわかりやすい文章なんて、出て来やしないのだ。
出題率は決して文章の質を保証しない。
保証するのはせいぜい、ある決まった枠組みへのはめ込みやすさ程度のものでしかないのではないだろうか。
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2010/1/18  23:56 | 投稿者: 時鳥

人から貰った、と、ダージリンの包みを渡された。
オレンジペコのダージリンと書かれた辺りから何となく予感はしていたが、開けてみると案の定、長めの茎や枯葉の欠片のようなものが多く混じっていて、茶葉の長さも細かかったり長すぎたりと統一性に欠ける。しかも外国土産だ。飲んでみるとやはりあまりおいしくなかった。そこで、喜んで持ち帰った。
これも飲まないから、と、ダージリンのセカンドフラッシュも渡される。開封済みの缶を開くと、なるほど、茶葉の大きさがそろっていて、見るからに質がいい。シルバーチップも混じっている。が、こちらはやや気が進まずに受け取る。
朝起きると、まず紅茶を入れる。
一応はリーフだが、その方法と来たら温めたポットにざくっと茶葉を投げ込んで、沸騰したやかんの湯をどぼどぼと注いだものを、食事や身支度の合間に水代わりに飲むだけだ。だから、質のいいお茶だとかえって気がひける。今ひとつなお茶のほうが気軽に飲めるのだ。
いいお茶を粗雑に飲むのは気がとがめるけれど、かといって、いいお茶をおいしく飲むために早起きするほど紅茶好きでもない。
紅茶好きとは呼べないけれど、朝一番で飲まないと調子が上がらなかったり、夕方に偏頭痛に襲われたりする程度には習慣化している。
必需品と嗜好品の間。好き嫌いの問題ではもうなく、あった方が生活がスムーズに動くもの。

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