2010/4/30  23:04 | 投稿者: 時鳥

歩行者式信号がLEDになってから、赤い人と青い人が太ったような気がする、と、2週間ほど前に書いた。
あれから色々な場所で注意しているのだが、どうやらLEDでも何種類かあるらしく、青い人のズボンの裾があったりなかったり、太めだったりそうでもなかったりする。
信号機そのものはLED式のほうが薄型で、そこは大差ないみたいだ。
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2010/4/30  22:55 | 投稿者: 時鳥

五分刈りの五分って、頭皮からの絶対値なんだろうか、それとも相対値なんだろうか。
ふと気にかかった。
つまりは、頭の出っ張りやへこみをどう処理するかの問題だ。
頭皮から必ず五分にしてしまうと、出来上がった髪型にまで頭皮の凹凸がはっきり表れてしまう。
それはあまりにみっともないから、多分、床屋さんというのは、頭皮の平均プラス五分の平面だか滑らかな局面だかを想定して、それにあわせて髪を刈っていくのだろう。

庭の芝刈りでも事情は同じと思われる。
芝刈り機というのは、基本的に絶対値の5cmで刈っていく機械だから、芝刈り機を信用しすぎると刈り上がりは地面に合わせてでこぼこになる。人間が判断して、場所によっては4.5cmや6cmにしてやらないといけない。
バリカンや芝刈り機にシミュレーションが可能なほどのシステムを搭載したら、もしかしたら、地形を判断しての調整が可能になるかもしれない。
でも、それだけではまだ床屋や庭師には追いつけない。
芝生でも髪の毛でも、場所によって伸びやすいところ、伸びにくいところ、下手に伸びると全体の形が崩れてしまうところがある。髪の毛なら髪の癖、質、生え方、庭なら日当たりや風当たりや芝生の種類でその後の伸び方は微妙に変わる。
経験を積んだ職人はそれを知っていて、刈る時に何らかの調整を加える。違いは、しばらく経ってから表れる。
機械にすると膨大なシミュレーションが、日々、淡々と実施されている。
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2010/4/29  22:30 | 投稿者: 時鳥

虎の威を借る狐について。
狐と一緒に歩いていると、皆が自分たちを見て逃げていく。
それが自分ひとりで歩いている時とまったく同じ現象だと気づかなかったのが虎の敗因。
皆が倍速で逃げていくなら、狐はきっと、虎と同じくらい恐れられているのだろう。
虎と一緒に歩いているのに誰も逃げないのなら、それは虎よりも強くて、かつ徳が高い生き物ってことなんだろう。
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2010/4/29  0:24 | 投稿者: 時鳥

数日後に話があると言われたものの、話の中身が予想しきれず、少し不安そうな様子をしている。
何の話でしょう、と相談された。
当事者ではないが、確かに内容を知っている。
少し考えて、言葉を選んだ。

「ひどい話ではないよ。」

とても良い話から、そこそこ悪い話まで、幅を持たせる。
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2010/4/28  23:39 | 投稿者: 時鳥

1階でも最上階でもないところに住んでいる。
夜更けに、上階から物音や笑い声や音楽が聞こえてくる。
虫の居所次第では気に障ることがあるけど、理性的に評価すれば騒音のレベルには達していないことがほとんどなので、特にアクションは起こしていない。

そんな夜に時々、建物の上下が入れ替わったらどうだろう、と思う。
家具や荷物が受ける衝撃だとか、天井が床になった場合の強度の問題だとかはとりあえず考えない。
月に一日くらい、建物の天地が逆転する日があると、日頃の自分の騒音の量がわかるかもしれない。
もっとも、日頃のお返しとばかりにわざと騒音を立てるような、そんな品性に乏しい人ばかりでは世の中、ないとは思うけど。
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2010/4/27  23:49 | 投稿者: 時鳥

朝、寝起き。
がらがらくわん、と、大量の缶瓶の触れ合う音が街路から届く。
そうか、今日は資源ごみの日か。
気づいて、悠然と缶瓶をまとめ始める。
先の音は収集車ではなく、無許可で自主的に掠め取っている方々の立てる音なので、急ぐいわれはない。
どうも、缶瓶の集積コーナーというのは、収集日の早朝と午後が週で一番片付いているように思う。
収集車が来た後の午後と、収集者が来る数時間前の民間の手が入った後と。
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2010/4/26  22:25 | 投稿者: 時鳥

川崎市青少年科学館のプラネタリウムに入る。
築40年近い古いプラネタリウムだけど、ここにはメガスターIIがある。
メガスターは世界最新鋭のプラネタリウムで、普通のプラネタリウムの機械が六等星までの星、数千個しか映さないのに対し、メガスターだと410万個の星を映せる。
他の場所では見たことがあるけど、ここのメガスターは初めて見る。
観覧料は200円。ずば抜けて安い。
半券をもらって場内に入ろうとすると、双眼鏡を渡された。中に入ると、中央に普通のプラネタリウムの機械とメガスターが並んでいる。座席に座ってパンフレットに目を通す。
プラネタリウムには大抵、月ごとのトピックスというものがあるのだけど、今回の話題は「メガスターIIで星空散歩」になっていた。それで双眼鏡の登場らしい。

投影は、まず、普通のプラネタリウムを使った今日の星空の案内。その後がメガスターの出番だ。
ピントを合わせてのぞいてみると、双眼鏡でも見えないくらいに星がある。一等星や二等星はどちらでも大して変わりはないが、星雲や天の川の見え方がぜんぜん違う。目で捉えきれないほど細かな星の粒子が集まってできていることがはっきりわかる。
夜空の地の闇の部分も、微細な星でうっすらと発光していて、ビロードのような質感がある。文句なしに美しい。
でも実は、星座を見つけるだけなら、メガスターより六等星までしか映さない普通のプラネタリウムのほうが探しやすい。何しろ見えすぎるものだから、素人は必要なものを見つけるのにやや苦労する。
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2010/4/25  20:08 | 投稿者: 時鳥

1958年公開の日本映画。
となっているけど、公開当時に見た人は、狐につままれたことだろう。
50年以上経った今でも、新しすぎるんだか何だかで、わけがわからん。
これ、ドキュメンタリーなんだろうか、ミュージカルなんだろうか、コメディなんだろうか。

ある日、空から、紐の先に下着をつけた風船が降ってくる。
当然ながら鴨居羊子デザインのナイロン製下着だ。フィルムは白黒だけど、実物は鮮やかな色彩を持っているのだろう。
新しい下着を人々は先を奪い合うようにして取り合い、家庭で、ナイトクラブで、女子大で、バタ屋の仕事場で、下着旋風が吹き荒れる。

冒頭はニュース映画っぽく、鴨居羊子の仕事風景南下から始まっていたのに、いつの間にか、わけのわからない話になっていた。台詞は極端に少なく、女性が下着を歓迎して、着替えてみたり踊ってみたりするって言うのが基本的な筋。それ、筋なのか?
至る所に突っ込みどころが満載である。

観ていて、『ティレジアスの乳房』というオペラを連想する。音楽を聴いたことはないのだけど、あらすじだけ読んだことがある。
ある街にティレジアスという名前の人妻がいた。彼女がある朝、「フェミニストになる」と宣言して胸をはだけると、乳房が風船になって飛び出し、彼女はそれに火をつけて爆発させる。やがてひげが生え、男装して男性のように生活し、かわりに亭主には女装をさせる。女を捨てた女房に、亭主は業を煮やして、「それなら自分が子供を産む」と宣言する。以下省略。

帰宅して調べると、このオペラは台本がアポリネール、作曲がプーランクで、初演は1947年だった。
1958年公開のこの映画はそれには10年ほど遅れているけれど、アバンギャルドって意味ではいい勝負だろう。
オペラでは要らない乳房が風船になり、映画では新しい下着が風船と一緒に空から降ってくる。
それにしてもこの映画、普通の映画館で公開していたんだろうか。視点を変えればポルノ映画館でもかけられそうだけど。既存の映画の枠に収まりきれず、劇場公開したものの、1週間で打ち切りとかになったとしても、別に驚かない。
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2010/4/25  19:11 | 投稿者: 時鳥

どうしてこう、ひっかかっちゃいけない女にばかり引っかかるんだろう。この人は。
例によって、ケイリー・グラントが右往左往。

くそ真面目な考古学者デイヴィッドが、凄まじく傍迷惑なお嬢様スーザンとかかわったばかりに、たった2日で一生分を優に越す災難に遭う話。
次から次へと「どうすんの、これ」って状況が発生し、話がいつまで経ってもかみ合わない。そのくせ、どいつもこいつも話し出すと止まらなくって、あっちでもこっちでも挙動不審。確かにこれは、「元祖スクリューボールコメディ」だ。

スーザンが信じられないほど傍迷惑な人間であるってことが、もちろん、すべての元凶なんだけど、そんな女にデイヴィッドがいちいち誠実に振舞うものだから、被害が拡大する。「仏心が仇になる」の典型的事例だ。
わがままだし気まぐれだし理屈は通らないしちゃっかりしているし早とちりだし、足は引っ張るし人の話は聞かないし、金と美貌以外に取り得のあんまりない女性だけど、でも、デイヴィッドを婚約者のアリスと別れさせたことだけは評価する。
結婚相手としては、スーザンより悪いだろう。
真面目で堅い人で、家庭の管理を任せるには何の心配のない人で、その点ではスーザンとは比較にならないほど優れた女性なんだけど、デイヴィッドの結婚相手としてはまったくお勧めできない。
もっとちゃらんぽらんな人ならいいけど、デイヴィッドなんて根本的に生真面目な優等生で、ルールに逆らえない常識人なんだから、こういう潔癖症気味の管理好きの女性と結婚したら、一生、自分を押さえつけたまま我慢のし通しになるに違いない。
きっと、好きなものも食べられないんだろう。

「赤ちゃん教育」1938年 アメリカ
監督:ハワード・ホークス
スーザン:キャサリン・ヘップバーン
デイヴィッド:ケイリー・グラント
ランダム夫人:メイ・ロブソン
アップルゲート少佐:チャーリー・ラグルス
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2010/4/24  23:26 | 投稿者: 時鳥

長い春ってどんな感じだろう、と、唐突に思った。
心理的なものではなく、気象としてのことである。
思うにそこは、夏や冬と言えるような極端な暑さ寒さがあまりない場所なのだろう。
数値上はどうあれ、少なくとも住む人はそう感じている。

ある場所の季節というのは、その土地に住む人の身体感覚が決めている。
だから、同じ気候でも、寒がりの人が多い村では冬はちょっと長めに、暑がりの人が多い村では夏がちょっと長めになるんじゃないだろうか。
人間だけに話を限定してみたけど、これを動植物まで広げると、同じ場所にたくさんの季節が重なっていることになる。
麦秋は夏の初め。麦を蒔くのは秋、9月から11月だから、麦の季節感では今は初秋にあたるんだろう。
そろそろ花の時期が終わるチューリップとしてはどうなんだろう。活動期の終わりって意味では冬が近いように人間には見えるけど、夏の暑さを避けて仮眠するのが彼らのライフスタイルだから、別に春のまま、夏の前ってことで問題ないのかもしれない。
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2010/4/23  22:52 | 投稿者: 時鳥

2003年ドイツ映画。
舞台は東ベルリン、時代は1989年10月から1990年10月まで。
1989年10月、主人公の青年の母親は、心臓発作で倒れてしまう。
8ヵ月後、奇跡的に目覚めるが、医者は青年に「強いショックを与えたら命取りになる」と伝える。愛国者の彼女はもちろん、ベルリンの壁の崩壊もその後の急激な変化も知らない。
青年は万難を排して、東ドイツの崩壊を母から隠そうとする。

最初は、母親にショックを与えないために始めた作業だったけど、だんだんに自分の中身を整理する作業、自分の中の東ドイツに別れを告げる作業みたいになっていく。
母親は徹頭徹尾、東ドイツの人間だけど、自分を含め、それ以外の全ての人間は、日を追うごとに西側の人間になっていく。毎日彼女と顔をあわせ、東ドイツを留める努力をしていると、そのことは骨身にしみてわかるだろう。
主人公の青年だけでなく、周囲の人間もそれは同じのようだ。
何も知らずに東ドイツの人間であり続ける彼女を、ある人は気の毒だと言い、ある人は嘘をつくことに呵責を覚え、多くが、早く真実を伝えるべきだと言う。けれどそれは裏返しで、結局、誰もが大なり小なりうらやんでいる。
擬似・東ドイツを自分内部で処理する方法は、おそらく関係者一人一人で違う。
擬似・東ドイツが試薬になって、あれこれ、あぶりだしている。
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2010/4/23  20:50 | 投稿者: 時鳥

漆喰造形絵画展、というものにふらりと立ち寄る。
神奈川県の大和市にそういう絵を描いている団体があり、そのグループ展だったらしい。技法としてはどうやら、キャンバスに漆喰で半立体の絵を描いた後、筆で絵を描いていくというもののようだ。
簡単に言うと鏝絵に似ていて、絵がところどころ半立体になっている。
受付にあった葉書には、展覧会の題の上に一回り小さな文字で「手で観る絵画」とあった。なるほど、主要な部分は半立体の絵が多いから、確かに触れば形はわかる。
だが、見ていて、ふと、違和感を覚える。

倉庫のある風景画の前で気づいた。
絵の中では古い倉庫の建ち並び、奥に向かって石畳の通路が続いていた。
石畳と地面との段差は、漆喰でも段差になっている。
遠近法により、現実にはどこまでも同じ幅のはずの通路は奥に行くにつれて細くなる。しかし、漆喰の段差は遠くでも近くでも、厚みがぜんぜん変わらない。それがとてもおかしなことに思えた。
目で見るなら、石畳は遠くに行くにつれて小さくなる。だが手で触れるなら、それは遠くではなく、ただの台形としか感じられないはずだ。手で観る時にも、目で観る時の文法で解釈しなければならない。それは、英語の語順で話される日本語みたいにおかしなことなんじゃないだろうか。

展示されている絵は不思議なことに、風景画が多かった。
静物画や人物画ならそれほど違和感はないのだけど、風景画だと違和感が際立つ。
総じて、遠近と厚さの関係には無頓着らしく、遠くにあるものと近くにあるものの厚みが対応していないどころか、時には逆転して、遠くにあるものの方が厚かったりする。観客の混乱を狙ってわざとやっているのならそれも面白いが、どうもそうではないらしい。誰も違和感を覚えないのだろうか。ちょっと不思議だ。
思うのだけど、鏝絵って、遠近法の発達しなかった日本だから出来た技法なのかもしれない。
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2010/4/22  23:29 | 投稿者: 時鳥

閑猫さまのところの包丁男の話を読んで考える。
街中でウクレレ男というのを見たことがある。
包丁や爆弾と違って、ウクレレは基本的に凶器ではない。でもあれはウクレレ男で、通行人がウクレレを持っているだけではなかった。
例えば、道路にヘルメットをかぶった人がいてもヘルメット女とは呼ばれないが、プールサイドにいたらそう呼ばれる可能性は高くなる。
また、水泳帽でプールサイドにいれば何も言われないが、コンビニにいたら何か愛称をつけられる可能性が高い。
つまりは、場所や状況の文脈から外れたものを身に着けていると、その物がクローズアップされるんだろう。
面白いのはこうした場合、物に人間が属してしまうことだ。
包丁やウクレレが属性の多くを占めていて、顔立ちとか服装だとかはあまり記憶に残らない。そのアイテムさえ取り去ってしまえば、その人は消えてしまう。
目撃者はたくさんいたけど、皆が皆、犯人は妊婦だったってことしか覚えていない・・・ってミステリーがそういえばあった。
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2010/4/21  23:27 | 投稿者: 時鳥

「包装の美と技術の歩み」展の会場でもらった『かんづめハンドブック』をめくる。
思ってもみなかった事が色々載っていて面白い。
ホールのマッシュルームの説明に、「かさの直径を超えない長さの茎のついているもの」とあった。超えちゃいけない理由がわからない。
また、スライスは、「かさの両耳をのぞいて、たてに2〜8mmの厚さに切ったもの」だそうだ。
除いた両耳や切った茎がどこに行ってしまうのか、興味深い。
捨てるにはあまりに惜しいが、両耳だけの缶詰というのも難しい。
別に、そんなに厳密に取り除かなくても、困る人はあまりいないと思うんだけど。
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2010/4/21  0:00 | 投稿者: 時鳥

レースは30分に1本の割合である。
レースの10分前にヴィヴァルディの「春」が流れ、曲が終わると同時に発券が締め切られる。競技場の隅っこから数人の審判が湧いて出て、トラックの各地に散っていく。持ち場が遠い人は、自転車に乗って行く。次いで選手が奥の扉から登場し、中央を通ってスタート位置に到達、一礼して自転車にまたがり、レースが始まる。

あ、これ、ギャンブルなんだ、と、端々で実感する。
一つ目は、最初から見ていない人の存在。スタート直後は空いていたフェンス際が、終盤になるにつれて人だかりがし始める。自分の身銭を切っているから、当然、野次や怒号は飛び交う。しかし、しくじった選手に向ける野次って、何だか負け惜しみ臭い。
二つ目は、プレイバックの不在。スポーツの感覚だと、レース展開の復習みたいなプレイバックを予期してしまうんだけど、それは画面にはほとんど出てこない。出るのは結果である数字の組み合わせが中心だ。時々、レース展開を流している画面があると、それは前日のレースの様子だったりする。
どうも、必要なのは直近の未来に関係する過去だけで、それ以外の過去は不要らしい。
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