2013/1/30  22:38 | 投稿者: 時鳥

鳥が目をつぶる時、下のまぶたが上に上がる。
眠い時、人のまぶたは落ちてくるが、鳥のまぶたは軽くなって、ふわりと浮き上がる。
鳥は、眠りに落ちるのではなく、眠りに浮かぶ生き物なのかもしれない。
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2013/1/29  7:17 | 投稿者: 時鳥

ランの花を見て、花が規定する虫のルートと受粉の仕組みについて考える。
植物というのは、マーケティングの天才だと思う。
虫の多い所では植物も多いから、多様なサービスで引きつける。これは激戦区の戦略。
虫の少ない所では、また別の手法。これは過疎地の戦略。
専門店街みたいな戦略を取ることもあれば、1種類の虫だけに特化した構造にして、マニアの行きつけの店をねらっている植物もある。
チェーン展開にしても、あちこちに生えて危機分散し、広く薄い利益を求めることもあれば、一箇所に集中的に生えて、地区の完全制圧をねらうこともある。
人間が最近気付いた戦略も、植物は太古の昔から知っていて、実行している。
きっと、植物にしたら人間のマーケティングなんててんで幼稚なもので、すぐそこの茂みにいる草ですら、人間のまだ知らない戦略も山ほど知っていて、実行しているんだと思う。
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2013/1/27  19:55 | 投稿者: 時鳥

温室を巡っていると、ある木に付けられたネームプレートがたまたま目にとまった。
「マルハチ」とある。ヘゴ科。学名はCyathea mertensiana。
私の乏しいラテン語の知識に照らし合わせても、学名を日本語に直訳したとは思えない。
なぜ、こんな名前がついたのか。
木を見て、2秒。笑いながら、喉の奥から搾り出すようにして、嘆声をもらした。
木の幹に丸八って書いてあるよ・・・。いや、本当に。嘘でも冗談でもなく。

簡単なネームプレート以外、温室には特に説明がなかったので、図書館で植物図鑑を調べる。
あまりの不思議さに、調べずにはいられない。
牧野富太郎の植物図鑑にはちゃんと「マルハチ」の項があって、この木の完璧な描写が載っていた。冒頭から途中までを引用。

小笠原諸島の特産種。大型の常緑木本。開けた山の斜面に傘を広げたように立って群生する。高さ約5m。葉柄は基部に関節があり、落葉後には幹に葉痕がはっきりと残り、その形ははじめは角ばるが後には円形のわくの中に葉柄の維管束の跡が八の字を逆にしたように配列する。(後略)
『新牧野日本植物圖鑑』北隆館 2008年

流石は牧野先生。かゆいところに手の届く素晴らしい説明をありがとうございます。
実際に目撃したとは言え、私が自分の言葉で説明しても信じてもらえないんじゃないかって気がしてたので、助かりました。
しかし、この木を「マルハチ」と名づけた人も素晴らしいセンスだと思うんですけど、どういう方だったんでしょう。まさか、牧野先生だったりしませんよね?
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2013/1/25  23:43 | 投稿者: 時鳥

「君たちはクラゲに似ているね」

排水口のネットを台所の床にばら撒いてしまった。
未使用のネットは、白いストッキングをくるぶしに届く前にぱつんと切ったような形状をしていて、床の上では平たく潰れた円を描く。
その様子は、水面にふわふわと浮くクラゲにそこはかとなく似ている。
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2013/1/25  1:07 | 投稿者: 時鳥

ある日、住民がポストを開くと、チラシにまぎれて水道屋のマグネットが見つかった。
7cm四方の板状のマグネットには大きな字で「つまり」「水もれ」とあり、下に電話番号が印刷されている。電話一本で修理に駆けつけるという、これも一種のチラシである。

住民は部屋に戻り、冷蔵庫の側面にマグネットを貼り付けた。
このようにして集まったマグネットは既に両手の指に余る数となった。
然れども、水道屋の助けが必要となる機会は一向に訪れない。
そろそろ、冷蔵庫の側面を空しく埋める外の使い道を考えてもよい頃であろう。

数分後、住民の思考がたどり着いた先は、玄関のドアスコープであった。
ドアスコープは通常、外から覗けないものだが、ある器具を使うと内部を伺うことが可能となる。
二週間ばかり前、住民は、ドアスコープをふさぐ蓋のようなものが百円ショップで売られているのを目撃した。
逡巡の挙句、購入はせずに店を出たが、彼の器具と同じ効果は水道屋のマグネットによっても十分得られるように思えた。

試みると、大き目のマグネットはスチール製の扉に難なく貼り付き、ドアスコープを完全にふさいだ。
住民は満足した。
しかし、しばし後、かすかな罪悪感を覚え始めた。
わざわざ特殊な器具まで用意して覗いたにも関わらず、暗闇のみに迎えられるのであれば、来訪者の落胆は如何ばかりか。
斯くの如き思念が脳裏をよぎり、予告なしの来訪者には居留守を決め込む住民をして悩ませたのである。

では、ドアスコープとマグネットの間に何らかの物体を挟むことによって、この落胆を些かなりとも慰めることはできないだろうか。
住民がまず思いついたのは鏡であった。
他人の家の中を覗こうとすると、覗こうとしている己の姿が代わりに映る。
それはいっそ、痛快にも思えたが、来訪者の神経を逆なでする懸念も大いにある。
次に思いついたのは、「Hello」あるいは「こんにちは」等の短い挨拶を小さな紙に書き、ドアスコープに貼り込むことであった。
これは程よく皮肉、かつ丁寧で、悪くないように思えた。しかし、非常に良い策とも思えない。

それから数日が経ち、住民の頭に不意に閃くものがあった。
ドアスコープから内部を覗こうとすると、それは実は、万華鏡であったというのは如何であろう。
勿論、回して模様を変えることも可能なものである。
万華鏡を繰ることで、悪事を働く気が多少なりとも萎えることを期待したいが、実際には左様に都合の良いことは起き難いであろう。
しかし、ドアスコープを万華鏡にするような変な家とは係わり合いになりたくない、と思われる可能性は、それなりにあるのではないかと夢想する。
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2013/1/23  22:18 | 投稿者: 時鳥

「マシュー・ボーンのくるみ割り人形」の2幕に出てきたお菓子たち。
知らなかったのもあるので、メモ。

Humbug Bouncer:「ハッカキャンデー」+「用心棒」
黒と白の太い縦縞のワンピースというか、スモックというか、とにかく、長袖で丈がくるぶしまである一体式の服を着た門番。太った男性。

Liquorice Allsorts:「甘草キャンデー」+「詰め合わせ」?
音楽は「スペイン」(チョコレート)。女性1人と男性2人。
真ん中に穴の空いた丸いキャンデーのことらしい。トローチみたいな形、色はカラフルな原色。
黒地の衣装に、その飴のデザインが散らされている。
女性のお団子を留めているシュシュみたいなのもそのキャンデー。
男性は、ポマードでびっちりと髪を固め、口ひげも黒々と濃い。

Knickerbocker Glory:「背の高いグラスで出すフルーツアイスクリーム」
音楽は「アラビア」(コーヒー)。男性1人。
白いソフトクリームのようなかぶりもので、てっぺんに赤いチェリーがくっついている。
濃いピンクのジャケットは丈が長く、ぴったりとした黒いズボン、袖口からは白いフリルがのぞき、靴は白いブーツ。
第一印象はパフェだった。動きもくにゃくにゃしている。

Marshmallow:マシュマロ
音楽は「中国」(お茶)。女性5人。
淡いピンクのふわふわしたかぶりもの、腰にも同じふわふわをまとっていて、背中が大きく開いた袖なしで胴着には白い丸いポンポンが沢山くっついている。衣装といい、動きといい、ショーガールを連想させる。
ピンクの綿菓子みたいだと、最初に見たときに思った。動物ならインコ。

Gobstopper:「大型の丸いぺろぺろキャンデー」
音楽は「ロシア」(トレパック)。男性3人。
ピンク、黄色、青のヘルメットをかぶった、バイク乗りの兄ちゃんみたいなの。
あっけらかんと光る無地のヘルメットがチュッパチャップスを連想させる。
gobは痰のことなので、直訳するなら痰切り飴?

なお、ドロス博士一家は、お菓子の国の統治者一家になっている。
ドロス博士→シャーベット王
ドロス博士夫人→キャンディ王妃
シュガー→シュガー王女
フリッツ→ボンボン王子
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2013/1/23  21:15 | 投稿者: 時鳥

「マシュー・ボーンのくるみ割り人形」のDVDを見た。
振付と演出がマシュー・ボーン、デザインはアンソニー・ウォード。
従来のくるみ割り人形から、髄だけを抽出し、改めて肉付けしたような作品だった。
クリスマスイブの夜に少女が見る夢、少女の成長物語、という基本の基本は動かしていないんだけど、通常、裕福な家庭の幸福な少女であるクララは、ここでは孤児院で暮らす八の字眉の少女になっている。
その孤児院というのが、ロアルド・ダールかディケンズに出てきそうな代物で、冷酷なドロス夫妻が鞭と鍵で支配する恐ろしい場所。ドロス夫妻の子供たち、シュガーとフリッツは意地が悪く、いつも孤児たちをいじめている。そのため、孤児たちは皆、怯えきっている。

「クリスマスイブのパーティーで少女はくるみ割り人形をもらう。その夜、少女はくるみ割り人形と共に旅に出て、雪原を超えてお菓子の国を訪問する」
くるみ割り人形の物凄く簡単なあらすじは、こんなところだ。
この作品でも確かに、その通りに話が進む。
でも、何と言うか、味付けがグロテスク。現代の不幸な少女が見る夢なら、こうなるよねっていう、シュールで悪趣味でどぎつい夢の世界が繰り広げられる。
真っ白な衣装の女の子たちがスカートをわざとらしくひらひらさせる冬の国もよかったけど、圧巻はやはり、2幕のお菓子の国だ。
出てくるお菓子は、着色料ばりばり、添加物てんこ盛りの、いかにも身体に悪そうな奴らばかり。身体に悪くても子供は大好きで、手だの口の周りだのをべとべとにして食いまくるっていう、あれだ。
2幕を見ていて何度も、汚いなあ、と思った。
見ていて、「きたねえなあ」という感想を抱くダンスって、そうあるものじゃない。
それも、垢や泥の汚さじゃなくて、べとべとねとねと系の汚さ。
幼児が舐めかけの飴玉を純然たる好意から差し出してきた時に思わず感じるあの感覚、小学生の男児がチョコレートまみれの手を半ズボンの尻で拭いた時にどやしつけたくなるあの感覚に近い。

音楽は最初から最後まで、チャイコフスキーを一歩も踏み外していない。曲の順番も変えていない。基本の筋もそのままなのに、「普通の」くるみ割り人形とはまったく違う作品になっていて、しかもそれがとても楽しい。
くるみ割り人形は何度も見たことがあるから、音楽を聴くと、「普通の」くるみ割り人形が脳内で自動再生される。それと目の前の映像をうっすらと重ねあわせながら見ると、重なりやずれが見えてきて、目の前の舞台だけを見るのとは違う面白さがあった。

「マシュー・ボーンのくるみ割り人形」2003年
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2013/1/22  21:19 | 投稿者: 時鳥

どんなに後ろを向いても、後ろには進めない。
前に進むか、せめて止まるかしかできないのに、後ろを向く能力だけはしっかり与えられている。幸か不幸か。

置いていく物と背負っていく物を都度、選んでいるつもりだけど、チェックしてみると置いてきたはずのものがちゃっかり荷物に紛れ込んでいることもしばしば。
思うに、選ぶ作業をやっている時点で、それはもう、置いて行き難いものなのだ。

現在や未来で何をしようと、どうあろうと、もう起きたことは起きたことで、過去が上書きされることはないんだけど、過去に未来を塗りつぶされっぱなしなのも業腹で、もう少し何とかならんかといつも思う。

・・・など、ちょっとした独り言。
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2013/1/21  22:16 | 投稿者: 時鳥

目にした途端、目が点になった。
信濃町駅、改札口の前に出ていた和菓子のワゴンに、そんな横断幕がかかっていた。
「伝統の創作和菓子」。
それは伝統なのか、創作なのか。
教えて、神様、仏様、池田様。

この場合、神に頼むより、自分で見に行った方が早い。
ケースを覗きこむと、みたらし団子や豆大福といった普通の和菓子が並んでいた。
伝統と創作はどこでどう共生しているのか。
謎は解けぬままだが、しかしおそらくは、興味に駆られて近づいた時点で、私の負けなんだろう。
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2013/1/20  22:27 | 投稿者: 時鳥

「Vive Offenbach!」というタイトルのCDを聴いていた。
オッフェンバックのオペレッタから聴き所を抽出して、2枚組のCDにまとめたもので、その中に「パリの生活」のブラジル人の歌も収録されていた。
成金のブラジル人がパリへ万博見物にやってきて歌う歌、という設定で、超早口で忙しなく景気よく歌われる。
この歌を知って以来、私は、ブラジル人と聞くと即座にこの歌が脳内を流れる仕様になった。
パリ万博は1867年だから、もう150年も前に作られた曲だ。
日本人が蝶々夫人じゃないように、今のブラジル人も絶対にこんなのじゃないんだろうな、と分かってはいるんだけど、どうしても頭を離れない。

これはブラジル人じゃなくて、「オッフェンバックのブラジル人」と考えるべきなんだと思う。
誰々の何とか人のイメージがあちこちから吹き寄せられ、個人の中に積み重なることによって、ある人の何とか人のイメージが出来上がる。
その人の持っているイメージは何かしらの形で外部に発せられて、周囲に影響を与える。
イメージが乱反射し、増幅したり、減衰したり、曲がったり、歪んだりしながら蓄積される。
そうして、あるグループの中でのイメージができていく。
でも、AによるBのイメージは、Bに属するイメージではなく、主にAに属するイメージである可能性がある。
オッフェンバックのブラジル人の歌が、ブラジル人の歌であるより前に、オッフェンバックの歌であったように。本当に、オッフェンバックらしい曲なのだ。これは。
あちこちからイメージを重ねると、一人しか持っていなかったイメージは印象が薄くなる。
そうやって誤ったイメージが淘汰されていくことがあるけど、何人もが誤ったイメージを共有していると、誤ったイメージが自分の中にもできていく。
無意識なだけに、危うい。

と、書いてるそばから今度は「ホフマンの舟歌」を聴いて、ベネチアの夜の運河を想像してしまっているけど。
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2013/1/19  14:24 | 投稿者: 時鳥

眠る前の30分を過ごすための部屋というものを、もしも私が持っていたなら、そこにはこの人の絵にいてほしい。
シャルダンの初期の静物画の前に立って、そんなことを思った。

ジャン・シメオン・シャルダンは18世紀のフランスの画家で、静物画と風俗画を能くした。
最初は主に静物画を描いていたのだが、その頃はあまり売れず、30代に入ってから友人の勧めで風俗画、日常生活の中の人々を描いてみたら注文が殺到し、王侯貴族が競って求め、複製画も大量に作られるような流行画家になった。そして、50代半ば以降は再び静物画に専念し、以降はずっと静物を描き続けた。
三菱一号館美術館で開かれたシャルダン展は、世界中の美術館から集めた彼の作品で構成された展覧会だった。作品数は、たった38点。しかし、いずれも名品揃いなので、不満はまったく感じない。
初期から晩年までバランスよく集められていたけれど、私が最も惹かれたのは台所の片隅を描いた初期の静物画たちだった。

これは売れないかもしれない。微苦笑をまじえつつ、思った。
いい絵である。それは断言できる。
薄暗い台所の片隅で、銅鍋がひっそりと輝いている。卵が無造作に転がり、木製の胡椒入れが落ち着いて立ち、鉤から下がった肉は熟して滑らかだ。
当時のどの台所でも普通に見られたはずのありふれた光景が、しかし、濃密で親密で、限りなく豊かなものを湛えている。見るほどに味わい深く、心が解きほぐされるような感覚を得る。
金色のコンソメスープを連想した。
目の前に置かれた真っ白な陶器の鉢に銀色のレードルが差し伸べられ、とぽとぽと金色の液体が落ちてくる。
具のないスープはただ澄み切って、黄金色に輝いている。立ち上る湯気、黄金色を構成する食材たちの姿は見えず、ただその香気だけが濃厚に漂っている。
匂いを嗅いで初めて、自分が空腹だったことに気付く。欲しかったのはこれだったと気付く。そういう絵だ。
でも、食膳の華やかさを重視する者にとっては、コンソメスープとパンだけの食卓は貧しいものにしか見えない。たとえそれが、3日間煮込んだスープと2週間かけて育てた天然酵母のパンであろうと、同じことだ。
絵に関してそういう感覚を持った人からすれば、これは、どこにでもあるものを描いただけの貧乏臭い絵に見えるだろう。
こんな絵のどこに取り柄がある、とけなされた時、この絵を愛する側が反駁することは難しい。
少なくとも私は、理路整然と美点を述べ立てて説き伏せるなんて芸当はできそうにない。そうするにはあまりにもプライベートで、心の柔らかいところに触れすぎている。

客間に飾って、来客に自慢するには向かない絵だ。
家族だけが使う居間に置くのも気恥ずかしい。
目が合うと、ふと考え込んでしまうような絵なので、寝室ですらしっくり来ない。
結局、一人きりで自分の内面を見つめる場所に置くのが一番似合う絵ではないかと思う。
しかしながら、当時、絵を注文する人間の多くが求めていたのは、一人きりで見る絵ではなく、客間で人と話題にすることができる絵だっただろう。
だから、若い無名の画家のひどくプライベートな静物画は、どんなに良い絵であってもあまり売れなかっただろうと想像される。
それでも、この画家の一番描きたいものは、これら初期の静物画にすでに、痛々しいほどの純粋さで表れていた。

風俗画を描くようになっても、うっとりするような質感、柔らかな空気、親密さに変わりはない。
人物が入ることによって、入り口が分かりやすくなったように見えた。
彼の風俗画は、まず人物が目に入る。彼の描く人物は、女中であろうと貧乏人であろうと上品で清潔感があって清らかな空気をまとっている。誰が見ても好感を覚えるタイプの人間だ。
最初は人物に注目して絵を見始めるけれど、だんだんに、周囲の静物たちが放つ気配に気付く。人と静物が織り成す空気に引き込まれて、見入ってしまう。
一見して感じの良い絵は、よく見ると実は、とても深みのある絵だったと気付く。
この時代の絵は、客間でも居間でも寝室でも置ける。置く場所によって味わい方は変わるかもしれないけど、どこに置いてもそれなりに楽しめる。非常に汎用性の高い絵だから、買う側は欲しがったことだろう。
でも、描く側はどうなんだろう。
絵を見て想像しただけなんだけど、この人、根本的に人が善いような気がする。人を喜ばせようと、一生懸命、注文に応えてしまう人。求められているものを真ん中に描いて、自分が求めているもの、描きたいものは横の暗がりに描いて、満足する。
人物の顔は、絵を見る側が真っ先に注目する部分だけど、描く側はそんなに熱を入れていない。画家にしてみれば、エプロンとスカートの境目のほうがよほど重大な問題だ。
画家と観客で多少、ベクトルは違っていたが、まあ、何とか、前に進めるベクトルだったので、何十年かは蜜月時代が続いた。

そして、50代以降の静物画。
これは、自分が元々描きたいものに戻ってきたのだと思うけど、その画風は初期の静物画とは随分違っている。
一言で言うなら、よい意味であいまいになった。
初期の静物画は、見る側が息を潜めて、自分自身を針のように細くして入っていかなければならなかったのだが、後期では、そのままの姿で入ることができるようになった。
そこをもうちょっと詳しく、と思うことがあるにしても、しばらく見ていると、不鮮明な部分も余韻として味わえるようになる。
晩年には目を悪くして描くのをやめたそうだから、画家の目が不鮮明にしか見えなくなっていたのかもしれない。
しかし、細部を突き詰めないことが豊かさにつながるというのは、誰にでもできる技ではない。
そしてもちろん、静かさ、暖かさ、親密さは保持し続けている。

ふと振り返ると、絵がいる。
うっかり目が合っても、視線が釘付けになることはない。
でも、見る気になれば、どこまでも深く入っていける。
円熟、という言葉が頭に浮かぶ。
正しく熟した画家だと思う。
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2013/1/19  0:43 | 投稿者: 時鳥

慶事は予告あって訪れるが、弔事は予告なしに訪れる。
したがって弔事休暇申請は、いつも慌てて書く事になる。

死がいきなり訪れるのは、自然がそうなっているから仕方がないけど、すぐに葬儀を開かなければならないのは、主に科学的、衛生的、物理的理由から来ているのだと思う。
ということは、人類が宇宙で暮らすようになって、広大な宇宙空間を一時保管場所として使えるようになれば、結婚式みたいに何ヶ月もかけてちゃんと準備した葬儀を営むことも可能になるのだろうか。
参列の機会は少ないほうだと思うけど、知る限りではどこも慌しい印象があって、妙に型どおりで、「本当にこれでいいの?」と傍で見ていて時々思う。
もっと時間が与えられれば、もうちょっと「らしい」式になると思うんだけど。
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2013/1/16  22:16 | 投稿者: 時鳥

足が2本だから靴下って発想が出るけどさあ、5本だったらきっと、パンストか手袋方向の発想になってたよね。
と、洗濯物を干しながら思った。

そういえば、仕事でも日常生活でも似たような考え方をしている気がする。
同じことを2回繰り返してもさして疑問は感じないけど、3回目以降になるとちょっと考えてしまうことがある。
あと何回あるのかとか、繰り返しを減らせないかとか、繰り返すのならもっと効率的に繰り返せないか、とか。
その一方で、短縮とか効率とかをまったく考えない物事もある。
思うのだけど、両者の違いはきっと、実行することと減らす方法を考えることのどちらの方がより興味深いかにあるんだと思う。
実行することが面白いのなら、減らす理由はない。
考えるのが非常に辛かったり、実行がそれほど辛くないのなら、実行する。
考えることがとても面白いか、実行がとても苦痛なら、減らしたり無くしたりする方法を考える。

靴下における実行と思考の私的境界を考察する。
私なら、足が4本ならパーツに分かれた靴下を維持し、5本以上なら一体型の靴下の導入を考えると思う。
実際、3本以上にはならないけど、仮定の話。
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2013/1/14  21:40 | 投稿者: 時鳥

冊子の裏表紙の隅に小さなロゴがあって、「VEGETABLE OIL INK」と書かれていた。
植物性インクのことだ。
分かった後も、しばらくその、サヤエンドウのようなロゴマークを眺め続けた。
何の植物かは知らないけど、とにかく、野菜だか植物だかを原料にしているから、植物性インク。
こうしてロゴと文字を眺めていると、改めてそのことに気付かされる。

植物性、と言うと何となく環境に良いようなイメージがあるけど、鉱物や化学物質の代わりに植物を消費しているわけで、植物にしてみたら、「印刷」なんていう訳の分からない用途のために自分たちが使われてしまっているのだから、たまったものではないだろう。
紙だけでもいい迷惑なのに、最近は塗料まで自分たちが使われるようになってしまった。
地球環境的にはどうあれ、殺生戒の観点で考えれば、化学物質によるインクのほうが植物性インクよりはるかに罪が少ないのではなかろうか。
単なる観点の問題で、別に植物性インクを否定する気はまったくないけど。

文字を眺めていて、もうひとつ気付いたこと。
後半が「able」ということは、vegetableの原義は「何かが出来るもの」なのではないだろうか。
さっそく英和辞典を引く。
「元気付ける」が元々の意味だったそうだ。
でも現代英語では、vegetableには「無気力な人」「植物人間」の意味もある。
日々、いきいきと生活している植物がこのことを知ったら、きっと猛反発することだろう。
この点、ラテン語の時代の人間のほうが、本質を正しく捉えていたと思う。
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2013/1/14  21:05 | 投稿者: 時鳥

1960年公開。
「オーシャンズ11」の元になった作品で、主役のオーシャンはフランク・シナトラ。
退役軍人のオーシャンが昔の仲間と組んで、ラスベガスのカジノから現金を強奪・・・って言うのはいいにしても、こんなスピード感のない強盗で、本当にいいんだろうか。
何だか、全然緊迫感がない。
いっそ、ミュージカル仕立ての強盗劇にした方が面白かったんじゃないだろうか。
シナトラといい、サミー・デイビス・ジュニアといい、歌える人材が集まっているんだから。

「オーシャンと11人の仲間」1960年 ルイス・マイルストン(製作・監督)
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