2013/3/31  22:36 | 投稿者: 時鳥

第一印象は、壁か土間。
淡い灰色の紙には黒っぽい粒がたっぷり混ぜ込まれていて、まるで小石を混ぜ込んだセメントのように見える。俗に言う、コンクリートというやつだ。
しかし、この壁なり床なりがある部屋、または建物を具体的に思い描こうとすると、どうも上手くいかない。
壁だとしたら、室内ではなく、建物の外装部分だと思う。
床だとしたら、靴を脱いで上がる場所ではなく、土間か水場だと思う。
そこまでは見えるのだけど、その先がしっくりこない。
風呂場では冷たすぎるし、玄関では殺風景過ぎる。
ビルのエントランスには控えめすぎるし、建物の外観にしても、相当に地味である。
非常階段を兼ねた、ビルの外階段ならありかもしれない。
辛うじて、そう考える。
だが、紙をよくよく見直すと、完全な裏方に回すにはちょっともったいないくらいの味があることに気付かざるを得ない。
地味なのだけど、わざとそうしているかのような、作為のある地味さなのだ。
いっそ茶室の壁にしたら、と、発想を切り替えてみたが、コンクリート風の、西洋の匂いのする紙なので、いくら風情があってもそこまでは突き進めない。

紙を紙として見つめて、使い道を考える。
例えばだけど、純金の葡萄のブローチとか、蒔絵入りの万年筆とか、箱入りで普通に贈ったら成金趣味になるものをこの紙で包んで贈ったら、粋かもしれない。
大粒でカラフルな飴をざらりと包んでも似合う。
要するに、贈り物を包む紙に向いているのではないかと思う。
無造作に見えるけど、よく見ると洒落ていて、ごわごわした手触りにも味がある。
たいした物に見えない包みを開くと、ちょっと目の覚めるようなものが入っていて、おや、と気付いて包み紙を見直すと、そっちもなかなかに隅に置けなかった。
平安貴族にこれを見せてみたい。紙に対して鋭敏な感覚を持っていて、活用方法にも優れていた彼らのことだ。きっと、面白い使い方をしてくれただろう。
現代の本読みとしては、「装丁に使うなら、何の本がいいか」なんていう、あまりひねりのないことを考えてしまう。
地味で堅いようで、ユーモアがある随筆なんていいんじゃないだろうか。
寺田寅彦とか中谷宇吉郎とか。安野光雅でも可。
女性じゃ駄目ってことはないけど、どちらかというと男性のイメージで、それも、適度に枯れていて、かつ、悟り澄ましていず、説教臭くもないことが条件。

「モダニイ」特殊紙|ブレンド(粒・玉)|レアースレート
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2013/3/30  22:03 | 投稿者: 時鳥

スズメの剥製を見かける。
個体によって、模様がかなり違っていることに、今更ながら気付く。
特に胸と顔。
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2013/3/28  21:31 | 投稿者: 時鳥

部屋の電球が片方、切れた。
部屋の主照明は、LED電球を2つ使っているが、そのうちの1つが切れたのだ。
運良く、買い置きが見つかったので付け替える。
点灯。白い。昼白色だったか、これ。

切れる前は2つとも、暖色系の電球色だった。
それが今回の交換によって、片方が電球色、もう片方がくっきり白い昼白色になってしまった。
大して不都合はないので、このまま行くことにしたが、違和感のある影ができている。
電球が2つあるため、影の縁がぶれて、にじんでいるのだが、その色合いが右側と左側とで違う。
以前は、影の濃いところと薄いところでモノトーンだったのが、今回、影の濃いところと薄青いところと薄黄色いところの三色になり、にわかにカラー化が進んでいる。
これ、慣れると、部屋の壁を写真に撮った場合に、影が映りこんでいればそれだけで、部屋のどの辺りで撮った写真か分かるようになるんじゃないだろうか。
影のぶれる幅と薄青い影のできる方向は、場所によって違うから。
まあ、部屋の中でわざわざ壁の写真を撮る機会なんてないけど。
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2013/3/26  23:06 | 投稿者: 時鳥

『ベッドサイドの数値表』という本を入手した。
看護士や看護学生のために書かれた本で、現場や試験で必要になる数値が分かりやすくまとめられている。
煮沸消毒は15分以上煮立てないといけないとか、人間の一日の尿回数は4〜6回だとか、誰もが知っておいたほうがいい知識と、知らなくてもいい知識とが交じり合っていて、楽しい。

この本によると、歯列から肛門までは約9メートルで、その内の6〜7メートルが小腸、1.5メートルが大腸だそうだ。
連想は、目黒寄生虫館に飛ぶ。
寄生虫の実物標本に満ち満ちたこの館には、ある男性の身体に寄生していたという長さ8.8メートルのサナダムシの標本もあった。
このたび得た知識とあわせて鑑みるに、途中で折れ曲がるか、とぐろを巻くかしていたのだろう。
彼だか彼女だかにとっては、そこはもう手狭になっていたのかもしれない。合掌。
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2013/3/25  22:19 | 投稿者: 時鳥

高品質ミラー、というものをもらった。
ガラス特有の青みがなく、物の色をより正確に映すのだそうだ。
普通の鏡と高品質の鏡が半分半分でくっついていて、確かに、言われてみると、ちょっと違う色に見える。
言われなければ気付かないレベルだけど。
断面を見ると、普通の鏡は水色がかっているのに対し、件の鏡は凍る寸前の蒸留水みたいに透き通っている。
もしも空がこの鏡でできていたとしたら、地上から宇宙まで素通しで見えるんじゃないだろうか。
そんな妙な想像をする。
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2013/3/24  23:33 | 投稿者: 時鳥

1982年にBBCが製作した「ウィンザーの陽気な女房たち」を観る。
シェイクスピアの全作品をドラマ化しようという試みの下、生まれた映像作品だ。
ヴェルディのオペラ「ファルスタッフ」の原作のひとつだから馴染みはあるし、戯曲も読んだことはあったが、演じられているのを見るのは初めてだ。
登場人物は庶民ばかりで、入れ替わり立ち代り現れては、独特の哲学を披露する。
馬鹿みたいな人が意外にいいことを言うのだ。

演劇で観ると、フォードの嫉妬振りは気違い染みている。
下手したら、オセローより酷いんじゃないかと思う。
間男をいぶりだすためなら、自分の家だろうと火をつけかねないところが怖い。
奥さんが利口者だったからか、周囲が下手にあおらないからか、喜劇の領域に収まったけど、事と次第によっては悲劇に陥ってもおかしくない。オセローみたいに。
似たような言動でも、喜劇に向かう人あり、悲劇に向かう人あり。

洗濯籠を巡る攻防は、あっさりしすぎて拍子抜けした。
これは、オペラの方がずっとうまくさばいていると思う。
フォードが家捜しする前に、ファルスタッフが退場してしまっていると、緊迫感が出ない。
洗濯籠の中身を水に落とす場面もないし。
こうしてみると、「ファルスタッフ」2幕2場は凄い場面なのだと改めて思う。
洗濯籠の中に押し込められたファルスタッフが「暑い」とぼやく。
男たちは殺気立って家中をひっくり返し、間男を探す。
女たちは洗濯籠を見張りながら、この状況を笑っている。
若い恋人たちは衝立の陰で抱擁の真っ最中。
という、4つの筋が何の違和感もなく同時進行する。
作曲したヴェルディも凄いけど、「ウィンザー」のこの場面をあの台本にしたボーイトも凄いと思う。
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2013/3/22  23:01 | 投稿者: 時鳥

展覧会のチラシをもらう。
ある漆の器職人とその家族が30年間、食卓で使い続けてきて、今も使っている器、すべてを展示するのだそうだ。
会期はおよそ5ヶ月。
器の美しさもさることながら、会期中、このご家族がどうやってごはんを食べるのかが気になって仕方がない。
つい、質問しそうになったが、何とかこらえる。
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2013/3/21  23:50 | 投稿者: 時鳥

本日(3月21日)開館の、新しい博物館。

インターメディアテク
開館時間:11:00〜18:00 木・金〜20:00
休館日:月曜日
入場料:無料
http://www.intermediatheque.jp/

所在地は東京駅丸の内口から出てすぐ、JPタワーの2階と3階。
数年前まで東京中央郵便局だった建物であり、展示室は往時の部屋をそのまま使い、展示品は東京大学総合研究博物館が出している。
運営は日本郵便、展示・研究は東京大学総合研究博物館という役割分担である。
東京大学総合研究博物館は、小石川分館で分かるように、古い実験器具とか標本とかを大量に持っている館なので、東京中央郵便局の建物とは相性が良さそうだ。
なお、木曜日と金曜日の夜間開館は5月28日からで、それまでは18時閉館となる。
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2013/3/20  22:20 | 投稿者: 時鳥

スーパーのかご置き場で、一番上のかごが斜めになっていた。
スーパーの入り口にあるかご置き場では、多くの場合、短辺を手前に、長辺を奥行きにして、かごを高く積み重ねている。
そしてその時、一番上のかごは、奥の短辺の底をすぐ下のかごの縁に引っ掛けるようにして、斜めに重ねられていることがしばしばある。
手前側に向けて、かごの縁を見せ付けるような、籠の底まで見せて「はいどうぞ」って言っているような置き方だ。
こうしてあると何となく、かごが取りやすいような感じがあるけど、よく考えたら、傾きを逆にしたほうがかごは取りやすいように思う。
つまり、手前の短辺の底を上げる置き方だ。
これだと、かごの持ち手を取って、手前に引くだけでよく、かごを持ち上げなくてもスムーズに取れる。
しかし、この置き方にも欠点があることに気付いた。
かごが高く積み重ねられていた場合、手前を上げる形で斜めにすると、背の低い人は取っ手に手が届かない可能性がある。
かごの山の頂上にやっと手が届く人を想定してみる。
かごが平たく置かれていた場合、底が外に出るくらいまでかごを持ち上げなければならないが、背丈の問題で厳しい。
手前が上がっている場合、取っ手に手が届かない。
そうすると、奥を上げる置き方にして、斜め下に引っ張ればかごを取れるようにするのが、唯一の正解ということになる。
普段、何気なく見ていることでも、気付いて考えると、いろいろな発見がある。
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2013/3/18  23:39 | 投稿者: 時鳥

南関東で生まれ育った私にとっては、雪といえば年に数度降る牡丹雪だ。
不揃いな白い欠片が、雲の上から次々に落ちてくる。
降りはじめは不恰好なくらいに不揃いで、しばしば、もつれたようなかたまりが混じる。
それはまるで、紡ぎ損ねた真綿のきれっぱしのようで、雲の上の誰かの不器用な手つきを想像させる。
雲の上に降雪作業担当者がいて、彼らは各々、綿菓子ほどの大きさの雪の素を手に持って、細かく紡いで雪にしている。だが何しろ、慣れていないものだから、小さくなった雪の素を扱いきれず、頻繁に取り落とす。
雪が数時間降り続くと、かたまりは徐々に減り、粒が揃ってくる。作業者も慣れてきたのだろう。
でもやっぱり、どこかにたどたどしさが残っていて、雪を降らせ慣れていない空が、一生懸命頑張っている感じがする。
この紙から真っ先に受け取るのは、そんな情景だ。

わずかにくすんだ白い地に、純白の羽毛のような繊維が漉き込まれた紙。
遠目からはほとんど白無地に見えるし、間近でじっくり観察しても模様は判別しがたい。
ややしっとりとした手触りという以外、触感にもさほどの特徴はない。
そんな大人しい紙なのに、光に透かした途端、表情が一変する。
雪空の情景が、燃え立つように浮かび上がって、目眩に似たものを覚える。

手元にあるのは「ゆき」と名づけられた白地の紙だが、ほかに地色の違う8色の紙がある。
藤色や桜色などの羽毛が際立つ紙もあって、白地の奥深さとは別の、華やかな魅力を持っている。

「OKフェザーワルツ」王子エフテックス|特殊紙|ブレンド(粒・玉)|ゆき
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2013/3/18  21:47 | 投稿者: 時鳥

レシピや何かで「同量の水」とあると、実はちょっと迷う。
頭の遠い片隅が、体積か、重量かで悩んでいる。
それをほっといて、ほぼ同じ体積の水を思い切りよく投入するのが通例だが、自信はない。
でも、100gを手ごたえで測るより、100ccを目分量で測るほうがまだ精度が高いような気がする。
思うんだけど、物の単位って、重さの単位より長さや大きさの単位のほうが先に出来たんじゃないだろうか。
人間の感覚の構造からすると、どうもその方が自然なように思う。
大きさじゃ区別が付かなくなってから、重さってものが考えられるようになったんじゃなかろうか。
ただの印象だけど。
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2013/3/16  22:29 | 投稿者: 時鳥

先々週には小林秀雄のモーツァルト論を読んで、今は「アマデウス」を観ている。マイブームというわけではなく、本当にたまたまそうなった。
どちらにも、モーツアルトの自筆譜についてふれる場面があった。
モーツァルトの自筆譜はきれいなことで有名で、書き直しがほとんどない。本人も手紙の中で、五線譜に向かう時には音楽はすべて頭の中で出来上がっていると言っている。
サリエリに限らず、一音、一小節をひねり出すのに呻吟している作曲家なら、すべからく殺意を覚えるだろう能力だが、これはこれで面倒なものかもしれない。
そうやって一気に完成してしまうということは、本人のコントロールする余地がほとんどないんじゃないだろうか。
迷わないのではなく、迷えない。AとBの案があった時、どちらが良いか本能的に分かってしまう。
もうちょっと違う感じにしたかったんだけど、って思った時には、もう曲は完成している。そういう場合、気に入らない部分を直すんじゃなくて、新しい曲を最初から作ってしまう。
ロケット花火を思い通りの方向に飛ばすみたいな感覚だったかもしれない。
発射角度とか、2小節の主題とかを物凄く慎重に決めて、最初の一歩を注意深く踏み出さないと、あらぬ方向に飛んでいってしまう。
一歩ずつ前進する人とは別の問題があったんだろうな、と思う。
これまでにないタイプの曲を作ろうと思ったら、下手したら、自分を変えなきゃいけない。
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2013/3/15  23:24 | 投稿者: 時鳥

「ちいさな哲学者たち」のある場面にて。
子供が「あとで、あとで」と叫んでいた。日本語で。
フランス語のはずだけど日本語に聞こえて、しかも状況に微妙にマッチしている。
どうやら、"Attendez!"(待って!)と言っていたらしい。
意外なところで意外なフレーズが似ている。
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2013/3/14  22:16 | 投稿者: 時鳥

こっちのほうがきれいに撮れてるわね。
ある人が、写真を見ながら、そんなことを言っていた。

でも、あっちのほうがきれいに写っていたわね。
そんな台詞が続いた。

結局、どっちがいいのかは分からなかった。
どうやら物事は、正しければ良いってわけじゃあないらしい。
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2013/3/13  6:53 | 投稿者: 時鳥

「ちいさな哲学者たち」という映画を観た。
フランスの幼稚園で開かれた哲学の授業の様子を記録した作品で、3歳から5歳の子供たちが丸くなって座り、愛や自由や友情や頭のよさなどなど、各回に設定されたテーマについて延々と語り合う。
言葉はたどたどしいし、自分の狭い見聞だけでいきなり結論までたどり着こうとしているから、話が飛躍することも多いのだけど、少なくとも、「どっかで聞いたような正論」はひとかけらも出てこないのは特筆すべき点だと思う。
おかげさまで、対話のどの部分も流して聞くことが出来ない。
思ったことを口にする、思ってもいないことは口にしない。
それだけのことなんだけど、それが大人にはできない。禁止されている気がして、自主規制をかけている。多分、過剰な自主規制だ。わかってはいる。

主人公は子供だけど、大人向けの映画なんだと思う。
同年齢の子供が見たら、「こんなの私にだってできる」と思うし、実際、できるだろう。
少し上の年齢の子供が見たら、たどたどしさや論理の飛躍ばかりが目に付いてけなすだろうけど、じゃあ、そういう子供たちが同じ問答ができるかというと、できない。
大人が見ると、自分にはもうできないことをいとも簡単にやっていることに驚く。
でもその中には、「こんな子供が」という、見下ろす態度が混じっているかもしれない。
子供を見ていると、「よく見てるなあ」や「よくわかっているなあ」といった感嘆の念を、しばしば抱く。
普通の大人が目に入れても見ていないこと、知っても考えないことを、子供はいちいち見たり考えたりする。
それを、子供なのに、ではなく、自分もやってみよう、と思えるようになっておきたいものだ。

様々なテーマの対話の中でも、「愛」と「自由」についての対話は、一際長く収録されていた。議論も白熱している。
父親と母親の間に愛がなくなると、自分の生活に大きなしわ寄せが来るってことを子供たちは完璧に理解していて、日頃から強い興味をもって観察している。好きな異性がいる子は、自分と相手についても鋭い見解を発する。
「あやまれなくなったら終わりなんだよ」と言い切る子の人生に、これまで何があったのか。深い。

「ちいさな哲学者たち」2010年 ジャン・ピエール・ポッツィ&ピエール・バルジエ(監督・撮影)
ル・メ・シュル・セーヌのジャック・プレヴェール校幼稚園の園児たち(出演)
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