2013/8/31  23:16 | 投稿者: 時鳥

天気予報の熱中症指数を見ると、「危険 運動は原則中止」とあった。
正しい。
どうやらこれが熱中指数の最上級らしい。

現在の住居の近辺では、光化学スモッグ注意報が発令されると、近くの小学校からアナウンスが流される。
屋外での激しい運動は控えるようにとの注意がアナウンスの中にあるのだが、気温が35度を超えるような日は注意報があろうがなかろうが激しい運動はしちゃいかんと思う。
活動する元気もなく、部屋でぐったりしている時にそういうアナウンスが流れると、ほんのわずか、害意が芽生える。

小学校や消防署がその場所から大々的に発令するんじゃなくて、ドアを開けて外出しようとしたらドアが警告するとか、運動靴が日に当たると太陽電池によって電気を供給され、注意報の電波を受信してラジオよろしくしゃべりだすとかやったら、きめ細かになりやしないだろうか。
そんなドアと靴とその他のある生活を想像してみた。
お節介が過ぎて、ただ苛立ちが増すばかりのように思えてならぬ。
あ、でも、子供の服か靴か帽子に温度と光のセンサーをつけて、ある閾値を超えたら親にメールが飛ぶって仕組みを作ったら、それなりにニーズがあるかもしれない。
メールが難しいにしても、一日分の温度変化を記録できるようにしておけば、親がメモリーをパソコンかタブレットに取り込んで、今日一日、子供がどういう環境にいたかをつかむことができる。
小型化できるセンサーなら何でも応用できるから、バリエーションはいろいろ考えられる。
時間を持て余した時にでも、もうちょっと考えてみよう。
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2013/8/30  7:40 | 投稿者: 時鳥

必ず行かなければいけないのは、「魔法の美術館」。チケット購入済み。
光をテーマにしたアートがいっぱい。
plaplaxの「Kage's Nest」、パーフェクトロンの「inside-out」、小松宏誠の「Secret Garden」、アトリエオモヤの「光であそぶ」なんかが特に楽しみ。

LIXILギャラリーは4月から改装のため閉じていたのが、リニューアルオープン。
日曜祝日も開くようになったのがとても嬉しい。
ショールーム機能がなくなるのは少々残念だけど。

あと、見逃せないのが「産廃サミット」。
群馬県にある廃棄物処理業者株式会社ナカダイが主催するイベントで、廃棄物=マテリアルとみなして「使い方」の創造と「捨て方」のデザインを試みる。
初日と最終日は最終入場15時まで。
展示内容は、こんなのだそうです。

・53組のクリエイターによる、廃棄物を言い訳にしない86作品
・ナカダイマテリアル約 100 種類
・自転車のプレス、発泡スチロールインゴットなどのリサイクル加工品
・これまで商品化した製品
・プラスとナカダイで運用する中古オフィス家具リユース市場“MRC”の
ご案内とナカダイのリサイクルシステムなど

http://summit2013.nakadai.co.jp/
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2013/8/29  7:17 | 投稿者: 時鳥

展覧会情報を10件追加しました。
右の「展覧会情報」リンクよりお入りください。
追加した情報は以下の通りです。


「第3回産廃サミット赤坂」
プラス株式会社赤坂ショールーム+プラス(赤坂)
期:9/7〜9/15 12時〜20時(無休)無料
※永田町2-13-5 1F
☆53組の作家による「廃棄物を言い訳にしない」86作品とナカダイマテリアル約100種類。
使い方の創造と、捨て方のデザイン。
廃棄物処理の会社が主催する、モノの"使い方"を創造する日本で唯一の展覧会イベント。

「牛腸茂雄展 第一部『見慣れた街の中で』」
MEM(恵比寿)
期:8/31〜9/22 12時〜20時(月休み)無料
※渋谷区恵比寿1-18-4 NADiff A/P/A/R/T 2F
☆没後30年を迎える写真家の個展。透明な眼差しの底にあるわだかまり。

「SFと未来像」
明治大学博物館(御茶ノ水)
期:9/1〜9/29 10時〜17時(無休)無料
☆社会が描く未来像とSFとの相関について、時代ごとの変遷をたどる。
明治大学米沢嘉博記念図書館では「小松左京『日本沈没』」展を併催。

「三笠宮家ゆかりの染織美 貞明皇后,いつくしみの御心」
三の丸尚蔵館(大手町)
期:7/27〜9/29 9時〜16時15分 8月中〜16時45分(月、金、8/26〜8/30休み)無料
※8/31〜後期
☆大正4年生まれの宮様の子供服。
和装中心。振袖とマントが、男の子用とは思えないくらい可愛い。

「歌舞伎イラストレーション」
クリエイションギャラリーG8(新橋)
期:9/3〜10/3 11時〜19時(日祝休み)無料
☆東京イラストレーターズ・ソサエティの163名による、歌舞伎をテーマにしたイラスト展。
9/21の17時半〜20時40分、出品作家が売り子になる「TIS夜店」を開催。

「教授を魅了した大地の結晶 北川隆司鉱物コレクション200選」
国立科学博物館日本館 地下1階 多目的室(上野)
期:8/31〜10/6 9時〜17時 金〜20時(月休み)600円
☆企画展。2009年に亡くなられた教授が個人収集した、とびきりの鉱物標本200点。

「魔法の美術館」
上野の森美術館(上野)
期:9/6〜10/6 10時〜17時(無休)1200円
☆11組の作家による光のアート、19作品を展示。
光と遊んで遊ばれて、光に見入って魅入られる。
美しく面白く、幻想的かつ理知的。不変の理、確固たるはずの境界線があっさり揺らぐ。

「中谷宇吉郎の森羅万象帖」
LIXILギャラリー1(銀座)
期:9/2〜11/23 10時〜18時(水休み)無料
☆雪の科学者・中谷宇吉郎の写真、スケッチ、科学映画など。

「ムットーニ・ワールド」
八王子市夢美術館(八王子)
期:9/13〜11/24 10時〜19時(月休み)500円
☆からくりシアター第3弾。
作家による上演会は9月10月の日祝、11月の土日祝、14時と16時から開催。申込不要。

「ウィリアム・モリス 美しい暮らし ステンドグラス・壁紙・テキスタイル」
府中市美術館(東府中)
期:9/14〜12/1 10時〜17時(月休み)900円
※9/30、10/7は開館。10/14は開館記念無料観覧日。月曜が祝日の場合、翌火曜に休館
☆19世紀後半のイギリスの壁紙・テキスタイル・室内装飾品。
より美しく、より機能的なもので生活を満たそうとした人々の光跡。
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2013/8/28  7:57 | 投稿者: 時鳥

ふたつ前の項で電報について書いた後、また考えた。
電報が最も盛んに使われた時代は、電話が各世帯に普及する前の時代だ。
電話がない、あるいは、手元不如意だか何だかで電話を掛けられないけれど、急いで誰かに連絡したいという時に使われた。
その後、電話がどの家にも備えられて、今では誰もが個人用の電話を持ち歩いている。それでも電報という通信手段はまだ廃止されていない。多分、50年後もあるんじゃないかと思う。
電報は、速さでは電話やメールにかなわない。字数で料金が加算されるので、送れる情報も限られている。いちいち申し込まなければならないので、手間がかかる。
どれをとってもマイナス要素みたいなんだけど、でも実は、この不自由さこそが電報が今も生き残っている理由なんじゃないかと思う。
お祝い事やご不幸に対して、メッセージを送る。駆けつけるには不都合がある。忙しいところに電話するわけには行かない。メールでは軽すぎる。手紙を送るなら問題はないけれど、自力で文面を考えるのは結構大変で、手紙の文例集と首っ引きで当たり障りのないものをひねりださなければならない。
この点、電報なら、手間がかかる分、フォーマルな感じがあり、適当な台紙と例文とが最初から用意されている。字数制約があるから、決まり文句で送っても悪くは取られない。
不便なはずの特徴が、特定の状況において便利に使われている。
電報が考案された当初には、誰もこんな風になるとは予想していなかっただろう。サービスを考える人間は、常に便利を追及しているのだから。
そういう意味で、電報みたいな不便なサービスが今後、考案されることはまずないだろうし、となると、現在の電報が幅を利かせている領域に他の通信手段が入ってくる可能性は低い。
これだけ独自の領域が確立されているからには、電報制度を運用する上での問題が発生しない限り、今後数十年は生き残れるんじゃないだろうか。
慶弔電報と言うのは、おそらくは自然発生的に生まれた使われ方だろうけど、もし、ここまで見越して慶弔電報を売り出した人がいたとしたら、その人は天才だと思う。
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2013/8/27  22:34 | 投稿者: 時鳥

帰り道。夕方と呼ぶには、もうずいぶん暗い。
散歩中の小型犬が、地下鉄の通風孔の上に腹ばいになっていた。
ここから絶対離れるもんか、というご機嫌な気配が、
むくむくした茶色い巻き毛の全身から放たれている。
飼い主の様子を見る限り、どうやら毎日こんならしい。
暑いけど散歩には行きたくて、でも暑いのだな。
強引にまとめると。
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2013/8/26  23:25 | 投稿者: 時鳥

電報の申し込み方について書かれたパネルを見る。
電話かインターネットで申し込めるのだそうだ。
電話局に行って電報用紙に記入するような形式は、もう取り扱っていないらしい。
50年前の人が聞いたら、ぽかんとすると思う。
どうして電報を使うのか、意味不明なんじゃないだろうか。
キティちゃん電報とか、目が点だろう。
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2013/8/25  23:10 | 投稿者: 時鳥

ふたつのうち好きなものを選ぶよう、指示する。
選ぶ前にその2つを10段階評価で評価してもらい、選んだ後、しばらく経ってからもう一度評価してもらうと、選んだものの評価は高く、選ばなかったものの評価は低くなりがちなのだそうだ。

そんな実験の話を聞いて、いろいろ腑に落ちる。
好きなものを選んだつもりでも、実は、選んだものを好きになっているのかもしれない。
取れないぶどうが酸っぱいのは、取れないと諦めた時点で選ばなかったことになっているから。
逃した魚が大きいのは、諦めの段階がなく、選ばなかったことになっていないから。
どうやら、選んだかどうかと、手に入ったかどうかの両方が、評価を決める時に要素として働いているらしい。
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2013/8/23  7:41 | 投稿者: 時鳥

手のひら全体でしっかり触れると、がさがさとした感触がある。
どの方向になでても繊維が皮膚に引っかかり、手を離した後も指紋の間に繊維が残っているような気がする。
材木の表面に手を滑らせるのとちょっと似ていて、心地よいと言うには少々粗すぎる。

しかし、指先で軽くつまむと、この粗さが適度なざらつきとして感じられて、意外に心地よい。
手応えがあって、力を抜いても指先から滑り落ちたりはしにくいので、扱いやすくもある。

手触りに存在感のある紙なので、長い時間触れていると疲れる。
本文ページや表紙にしてしまうと存在感が重いが、箱や包装、本の見返しなどの紙そのものを前面に出す場所には向いている。
すごく綺麗なわけでも、ぱっと目立つわけでもなく、じわじわと来るところがまた個性である。

光に透かすと、紙全体に淡いむらがあるのが見て取れる。
のっぺりとした曇り空でも、よく見ると雲の凝っている箇所が点々と見つかるといった類のむらだ。

表面を観察すると、短くて硬い紙の繊維が大量に混じっているのが分かる。
この、漆喰の壁に混ぜられた藁のようなものが、指先に覚えた引っかかりの理由だったらしい。

「ハーフエア」王子エフテックス|特殊紙|プレーン|コットン
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2013/8/21  7:51 | 投稿者: 時鳥

キーボードって道具を用意して、それを指で叩くとキーボードの受けた信号がマシン本体に伝達されるって形で長年、入力してきたけど、指の側に端子をつけるようにすれば、キーボードは紙でもプラスチック板でも、あるいはなくても、入力できるような気がする。
動作はキーボード入力なんだけど、実質的には指から直接入力する感じ。
あちこちで違うキーボードを使っていると、キーボードごとの癖やキーの配置の違いをいちいち意識して入力しなければならない。
使い慣れた配置のキーボード用紙と端子さえ持ち歩けば、どこの端末からでも同じように入力できるようになるなら、楽になる。
入力内容以外のことに余計な神経を使わなくて済む。
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2013/8/20  8:01 | 投稿者: 時鳥

「こんなに何でもかんでも専用の道具を作って、疲れないのかしらね」
分厚いカタログをめくりながら、ぼんやりと疲れる。
もうちょっと集約できるような気がしてならない。
ソファーベッドみたいな中途半端なのとはまた違った形で、
物事、シンプルにできるんじゃないだろうか。
機能を分化して、それぞれの満足度を最大化しようとしたために、
細かくなりすぎて無駄に複雑になっているような感じ。
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2013/8/19  7:26 | 投稿者: 時鳥

じじっと鳴いて、セミが飛び立った。
実は飛ぶのが嫌いなんじゃないだろうか、セミって。
トンボやカナブンに比べて、いかにも大儀そうに、不器用に飛んでいる。
非常用移動手段として羽を与えられたものの、できれば羽化したその場で鳴いて一生を全うしたいクチなのかもしれない。

イソップ物語では、アリとキリギリスの話はアリとセミの話として伝えられている。
あのセミの、飛ぶのが嫌そうで、木に貼り付いてひたすら鳴き続けている様子が、口ばっかり達者で何もしない人を思わせるのかもしれない。
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2013/8/18  20:51 | 投稿者: 時鳥

物事を実際にあるのとは違うように知覚することを「錯覚」と言う。
有名なのは目の錯覚で、直線が曲がって見えたり、同じ長さの線なのにどちらかが長く見えたり、動いていないものが動いて見えたりする。
この手の錯覚についてはかなり研究が進められて、条件さえ揃えばほとんど誰でも錯覚を起こすらしい。

しかし思うのだけど、いつでも誰でも同じように「錯覚」するのなら、それはもう錯覚ではないのではなかろうか。
眼はそういう機能を持っているという、それだけのことのように思う。
「錯覚」が存在するとしたら、それは眼ではなく、きっと考え方のほうだ。
世界は目に見える通りに存在するっていう考え方が、まずもって錯覚なんだと思う。

参考)
錯覚美術館
千代田区神田淡路町1-1神田クレストビル2階
土曜10時〜17時のみ開館 無料
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2013/8/16  23:52 | 投稿者: 時鳥

女の子とお母さんが手をつないで歩いている。
通路に柱が現れるたび、わざと手を離して、柱のむこうとこちらを回りこんでから手をつなぎ直す。
またつなぐためだけに、今、手を離す。
広げた手のひらが柱に沿ってひらひらと翻り、ふたたびつないだ手がぶらんぶらんと勢い良く振られる。
妙齢の男女がやっていると鬱陶しくても、母娘でやると至極微笑ましい。

ちょっとだけ柱が気の毒になる。
こういうの、当て馬って言うんじゃないかしら。
本来、障害物になるはずのものが接着剤になっている。

瀬を早み岩にせかるる谷川は
われても笑う。すぐまた逢える。
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2013/8/15  21:32 | 投稿者: 時鳥

【序】
いつも使っている扇子から香りがしなくなったな、と思ったら、鼻が全く利かなくなっていた。どうやら、風邪の一環で嗅覚が麻痺したらしい。
オーデコロンの瓶を鼻先に持ってきても何も匂わない。食べ物のにおいもわからない。
そうなると、料理の味もしないから、おいしいものを食べる気になれない。
鼻が治ったら食べよう、と、いろいろ後回しにする。

【壱】
とは言え、何も食べないわけには行かない。
味がついていてもついていなくても同じなのではないかと考えて、
とりあえず、冷奴をそのまま、何もかけずに食べてみた。
味がついてないのがわかった。
味が分からないのに、味がしないのが分かるって、一体どういう仕組みなんだろう。
塩味とか苦味とかのセンサーが全く反応していないのを、味がない状態と判定しているのか。

【弐】
味気ないので味付けしたいが、醤油をかけても多分、無駄に塩分を摂取するだけに終わる。
塩分抜きで味付けできるものを探して、胡椒を見つける。
白地に黒だから、何かかかっているのが一目でわかる。よしよし。
食べてみると、やっぱり味はしないが、口の粘膜に刺激を感じる。
胡椒をかけた冷奴を食べながら牛乳を飲んでも、何も違和感がない。

【参】
ということは、今なら何を食べても辛くないのではなかろうか。
冷蔵庫からチューブのワサビとカラシを取り出して、舐めてみる。
やっぱりほとんど辛さを感じない。ワサビの方がやや刺激が強いだろうか。
辛くないから、口に入れるのは問題ないのだけど、飲み込もうとすると
喉が反乱を起こす。
この一週間でした咳の数は、一千回を優に超えている。
荒れに荒れた喉の粘膜が刺激物に過敏に反応して、咳き込む。
意外なところに伏兵が。わかった、やめるから。静まれ。

【跋】
食後に飲んだ粉薬も、味は分からないのに苦いことだけはわかる。
便利なような、不便なような。
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2013/8/14  23:14 | 投稿者: 時鳥

構造色は遠いモルフォ蝶だけのものではなく、身近にも結構転がっている。
例えばCDやDVDの再生面、シャボン玉、お札やカードのホログラム、虹にオパール、カナブンに玉虫、孔雀にネオンテトラなどなど。

手元にひとつのオパールがある。
このオパールには虹色の粒がたくさん埋まっていて、動かすと、粒はそれぞれ色を変える。
この色も構造色の一種で、粒そのものは色を持たない。受けた光の一部を反射させているだけだ。
光の差す方向と見る人間との位置関係が、無色の粒に色をつける。
これは、言葉と表現の関係にも似ている気がする。

美しい言葉や醜い言葉というのは、一応、存在する。
醜いものを負わせるために生まれた言葉は基本的に美しくない。
けれど、なら、美しい単語だけを使えば美しい文章ができるかといえば、そんなことはない。
ポジティブな言葉も、文脈次第でネガティブな意味を与えることが出来るし、逆もありうる。
言葉ももしかしたら、オパールの粒みたいなものなのかもしれない。
言葉はそれぞれの色合いを持っているけれど、それはおそらく、色見本のように固定された色彩ではなく、採用可能な色彩の範囲という形をとっている。
文章を書くこと話すことは、複数の色彩を含有した単語を組み合わせて、ある特定の色を見せようとする作業にほかならない。
青く見えるように気をつけて言葉を重ねたつもりでも、読む人によっては赤く見えてしまったりもする。
こちらの持つ青のイメージをあちらに伝えるだけなのに、非常に難しい。
そんな遠回りなことをせずに、「青」と一言いえば済むのではないか。そう異議を申し立てる人もいるかもしれない。だが、そうしてしまうと、言葉の「青」に収まりきらない部分がこぼれ落ちてしまうのだ。だからできない。
不安定で不定形なものを使って、あるかないかもわからないものを日夜捕まえようとしている。

同じことは文章に限らず、言葉に限らず、あらゆる表現に対して言えると思う。
本質的な仕組みは、絵画でも写真でも音楽でも香水でも料理でも変わらない。
全部の色を持つ無色、あるいは一定幅の色彩から、一部分を恣意的に選り抜いて、重ねて、何かを伝えようとする。
発信者の想定した通りの人間が受信者なら上手く伝わるのかもしれないが、相手も人間なので、位置がずれていたり、感度が想定外だったりして、思った通りにはほとんど伝わらない。
でもそれは、誰かや何かが間違っているのでは決してない。
光の方向と見る方向が違うと言う、ただそれだけのことで、受け入れた上で次の発信をするのが発信者の正しい姿なのだと思う。

(まあ、そんなこと言いつつも、解釈の曲がり過ぎた意見に触れると、
 どういう見方をするとそう見えるんだろう、と思っちゃうことはある。
 そこは正直に白状しておく。
 綺麗事は大事だけど、そうじゃないことも大事だから。)
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