2014/2/28  7:54 | 投稿者: 時鳥

太田記念美術館で、葛飾応為の肉筆画を見る。
10年以上前に読んだ『応為坦坦録』と言う本でこの作家のことを知って、以来ずっと、この人の作品を見てみたいと思ってきた。
そんなに寡作でもなかったはずだが、現在、この人のものと判明している作品は世界で十数点しかないそうだ。
写真では何度か見たことがあるけど、実際に作品を見るのは初めてだ。
見たのは、「吉原格子先之図」という作品で、夜の妓楼の店先を描いている。
画面の奥は明るい張見世で、たくさんの遊女が座っている。その手前に格子があり、ひやかす客が鈴なりになっている。
格子の手前はひどく暗く、客たちの姿はシルエットで描かれる。こってりとした闇に、いくつかの提灯が行き交い、柔らかな丸い光が浮かぶ。

どこから出てきたんだろう、とびっくりする作品と言うのが時々ある。
同時代のほかの作家が描いたものとはあまりにかけ離れていて、一体どこからの流れを受けて生まれたのか分からない。
どこかから天啓みたいなものが降ってきているとしか思えない作品が、北斎の作品の中には、確かに存在する。
娘の応為の作品にも、それがある。
スペインの画家を思わせる、光と闇の濃厚なコントラスト。
こんな江戸絵画はほかに見たことがない。
当時にしたらこれは、どう扱ったらいいか分からない絵だったのではないかと思う。
素晴らしいのだけど、掛軸にして使うには秘めやかだし、机の中に仕舞ってたまに眺めるのも違う。枕元に飾っておいて夜な夜な眺めるのならわかる。
どういう人がこの絵の持ち主で、どう扱っていたのか、とても興味をかきたてられる所だ。
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2014/2/27  7:48 | 投稿者: 時鳥

木曜日に飲んだバリウムが水曜日に排出される。
お腹が痛いと思ったら、そういうことだった。
とっくにいなくなったと思っていたので、ちょっと驚く。
病院で渡される紙には、翌日までに出なければ医者に行け、みたいなことが書いてあるけど、結構大丈夫なものらしい。流すのはとても大変だけど。
流石に、6日かかったのは初めてだ。
最長記録として残しておく。未来の自分と悩める誰かさんのために。

腹痛以外、特に違和感はなく、普通にトイレに行ってすることをして、ひょいと振り返ったら白かったです。
腹痛も、日常生活を送る分には特に問題なく、時々差込みが、という感じ。
検査後に下剤を2包もらって飲んで、翌日くらいに白っぽかったので安心していたら、このような仕儀に。

毎回こんなことをしていたら、いつか人間ドッグで体を壊すかも。くわばらくわばら。
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2014/2/26  7:40 | 投稿者: 時鳥

ペットフィット、という製品が3月にNTTドコモから出るのだそうだ。
犬につけた端末を通して、犬の居場所や温湿度や運動量、睡眠時間などがスマートフォンで確認できる。
気温が設定温度を超えればお知らせメールが来るし、迷子になってもお知らせメールが届く。
人間用が一通り行き渡ったから、今度はペット用という魂胆らしい。どうやら。
犬用だけで、猫用はないらしい。詳しくはわからないけど、ペット自身に付けるのは軽量の子機で親機を別に室内に置くようだから、外出の多い猫には向かない仕組みなのかもしれない。
犬自身による操作はできないようだけど、ペット用のスマートフォンくらいはいずれ出来るかもしれない。
次は家具や持ち物用の端末が出てくるだろう。手袋の右と左が一定以上離れたら、メールが来るシステムとか。ゴミの日になるとしゃべりだすゴミ箱とか。カビが生えたと訴える風呂場とか。
便利なんだけど、想像したら便利すぎてどっと疲れを覚える。

ペットフィット
https://www.docomopet.com/
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2014/2/24  23:30 | 投稿者: 時鳥

ジョン・ケージの楽譜を見たことがある。
おたまじゃくしは一匹もいなくて、カラフルな色の塊や線が散らばった、まるで絵のような楽譜だった。
別のところで見た別の曲の楽譜にはちゃんとおたまじゃくしがいたので、曲に合わせて記譜法を変えていたのだろう。

おたまじゃくし方式は、音の高さと長さを簡単に記録できる、とても便利な方法だけど、西洋音楽の音階に当てはめられる音しか記録できないし、高さと長さ以外の要素は抜けてしまう。
強弱記号や速度標語を追加して補っているけど、補っているということは、原則だけではできないということだ。

楽譜の使命は、作曲者の頭の中にある曲を演奏者に伝えることにある。
かつては録音も録画も出来なかったから、紙に書いて渡すしかなかったけれど、今では録音が簡単に出来る。舞踊の振り写しみたいに、作曲者が頭の中にある曲を演奏して渡したって悪くはないけど、今も音楽は楽譜経由で受け渡されている。
これは素人考えだけど、作曲者と演奏者の両方が揃って初めて、音楽が完成するようにしたいからだと思う。
あらかじめ作曲者から正解が出されているのでは、あとはどれだけそこに近づくかしか、演奏者にはすることがなくなってしまう。忠実にコピーするほどいいことになってしまう。
そうではなくて、作曲者の残したものを時代の視点、演奏者の視点で新しく解釈しなおして、日々更新して欲しいから、わざわざ空隙のある形式にしているんじゃないかと思う。

やるべきことは楽譜に載っている。そして、それ以外の部分は演奏者にゆだねられる。
だから作曲者は、エッセンスとなる部分、これだけは落とさないで欲しい部分を楽譜に残しているわけだけど、その重要な部分が、音の高さと長さ以外の部分にある時、おたまじゃくし方式は都合が悪い。
一部の作曲家にとって作曲はきっと、記譜法を選ぶところから始まっていて、場合によっては、記譜法を編み出しさえする。
おたまじゃくし方式だけでも出来ることはたくさんある。おたまじゃくしだけで作曲する作曲家の視野が狭いわけでは決してない。
でも、思うのだけど、おたまじゃくし方式しか知らないと、おたまじゃくしで捕まえられない音は音楽に聞こえない、もしくは、音楽として聞くのが難しくなるんじゃないだろうか。
誰も音楽だと思っていない音も、誰かが素敵な記譜法を見つけて捕まえてくれたら、いきなり音楽になったりするんじゃないだろうか。
音楽が楽譜で捕まえられるとは限らない。しかし、楽譜で捕まえられるもののことを音楽と、人間は呼んでいるような気がする。
何でこんなことをいきなり思いついたのか、自分でもわからない。
音楽だから楽譜になるのか、楽譜になるから音楽なのか、それともまったく別物なのか。
どうなっているんだろう。
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2014/2/23  19:01 | 投稿者: 時鳥

「むしろ大船かなあ」
溶け残った雪の塊を見て、心の中でつぶやいた。

今後、かまくらまで至っていないもののことは「大船」と呼ぶことにしよう。
こんなとこまで東京中心思考。
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2014/2/21  7:49 | 投稿者: 時鳥

生涯に刊行した出版物は1000点近く。入獄4回、筆禍29回、空前絶後の記録を為したジャーナリスト宮武外骨が伝える関東大震災。
上野桜木町の編集部で罹災した外骨は、9日から『震災画報』の編集に着手する。
『震災画報』第一冊は9月25日に刊行され、翌年1月25日に刊行された第六冊をもって終刊した。
なかなか手に取りにくい本だったが、震災から90年目の昨年2013年、この6冊を全て収録した文庫本が刊行されたおかげで、簡単に読めるようになった。

震災後の東京で外骨が自ら目にしたこと、知人から聞いた話、新聞の端に載っていたこと。外骨の視点で集められた小さな話をひとつひとつ読む。
からりとした口調で伝えられる、人間のたくましさ、浅ましさ、強かさ、ずるさ、可笑しさ、情けなさがいちいち身にしみる。
90年前の記録だけど、今読んでもまったく古びていない。「あるある」と同意する話がそこかしこに載っている。
デマに踊らされ、ささやかなズルに手を染め、なりふり構わず、でも出来ればいい格好もしたくて、情けと現実の間でぐらんぐらんと揺れ動く。いつの時代も人間は、大して変わらない。
人間の底力も、政府や組織の録でもないところも、外骨は同じ平面で扱う。
大小を区別せず、機械的にも情緒的にもならないバランスには絶妙のものがある。

災害に関する報道は、まず事件が報道される。どこで建物が壊れた、人が死んだ、交通が途絶えたといったことが真っ先に記事になり、その後、当事者の悲しみや苦しみといったことが記事になる。
悲劇に負けずに立ち上がる人々、災害に便乗した不正、数々の救済措置、妨害の要因、どれもこれも涙や怒りを呼び起こし、感情に訴えかける。
でも、災害現場で起きるのは事件だけではないし、災害現場にいるのは立派な人ばかりでも、悪人ばかりでもない。報道されるような大きなイベントが起きることもあるけど、毎日無数に起きているのはもっと小さい、「どうでもいいようなこと」だ。
大きな事件は重要だし、善は褒賞し、悪は糾弾せねばならない。けれど、今ここで災害が起きた時、生き延びるために役に立つのは、そういう大きな話よりもっと小さな、普通の人がどんな風に振舞って、何を選んで何を選ばなかったかってことじゃないかと思う。
何しろこっちは、立派でも極悪でもない、普通の人間なのだから。
『震災画報』ではその手の、普通の人がしたこと、しなかったことがたくさん報じられている。大新聞が紙面の真ん中で堂々と報じるのをためらったようなことも平気で載せる。歯に衣着せぬ文章は小気味よく、知識は該博、淡々とした語り口には可笑し味がただよい、天下の大災害だというのに、読んでいて時折、笑いが漏れてしまう。
からりと乾いた視線が全体を貫く、極めて生きのいい記録で、関東大震災の一側面を見事に活写している。
しばらく読みにくい状況にあった作品だが、この度の文庫化によってまだまだ長生きしそうである。
平易なくせに本質をぐさりと突いていて、笑いながらはっと気づかされる。こんな震災記録、滅多にあるものじゃない。

『震災画報』宮武外骨 ちくま学芸文庫
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2014/2/20  23:20 | 投稿者: 時鳥

タイムマシンの音を現実に聞いた事のある人は、誰もいない。
玄関の引き戸ががらがらと開く音は、誰だって聞いたことがある。

誰も聞いたことがない音と、誰でも知っている音。
作るのが難しいのは、どちらの音だろう。
また、このふたつの音を作る作業は、全然違う作業なのだろうか、それとも、とても似た作業なのだろうか。
絵でも文章でも同じことが言えるけど、誰でも知っているものって、実物をそのまま持って来ただけじゃ、それっぽくならないことが多い。
皆、ある特徴的な部分というかパターンを認識して「知っている」と思っているから、その部分を上手く抽出して誇張すると本物以上に本物っぽくなる。
タイムマシンをタイムマシンにしている部分と、引き戸を引き戸にしている部分って、意外に近いかもしれない。
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2014/2/19  21:50 | 投稿者: 時鳥

国立新美術館で開催されていた「第17回文化庁メディア芸術祭受賞作品展」を見に行った。
メディア芸術祭はアート、エンターテインメント、マンガ、アニメーションの4部門で大賞、優秀賞、新人賞が選ばれるのだが、それとは別に、長年の功績に対して与えられる功労賞というものがある。
今回、功労賞を授与された方のうちに、柏原満さんという方がいた。
音響効果の技術者で、サザエさん、ドラえもん、宇宙戦艦ヤマト、平成狸合戦ぽんぽこなどの音響を担当されたそうだ。
そんな生き神様みたいな人がいて、しかもまだご存命だったことに驚く。
磯野家の玄関を開ける音と、タイムマシンの音と、波動砲の音を同じ人が作っていたとは。
功労賞なんて細かいこと言わずに、早いところ、人間国宝に指定したほうがいいんじゃないだろうか。でなければ文化勲章か。
日本人の心に数々の音の記憶を刻み込んだ功績は、文化勲章くらいではとても称えきれない。

しかし現実問題として、この方が文化勲章を授与されたり、人間国宝に指定されたりすることは、おそらくないのだと思う。
評価する側にその力がない。評価する仕組みや正当に評価できる人間がいないと、賞というのは与えることが出来ない。
賞のたぐいは多くの場合、十分な成果を出している者に対して与えられる。だから、無冠と聞くと、当人の能力や実績が不足しているように考えがちだが、必ずしもそうとは限らない。
確かに、ほとんどの場合は当人側の不足なのだけど、その中にごくわずか、評価する側の不足で受賞していない者が含まれる。
そう考えると、受賞だとか栄冠だとかは、評価する側とされる側がうまくかみ合った幸運な例なのだなあ、としみじみ思う。
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2014/2/18  22:49 | 投稿者: 時鳥

人間ドックのための検便採取にようやく成功し、肩の荷が下りる。
1本や2本採りそこねたからって、大した問題にはならないのだが、一日中、心のどこかで気にかかり、小さなプレッシャーになっていた。
宿題が残っているようで、どうも落ち着かない。夏休みの宿題は、自由研究と読書感想文以外、7月中に終わらせたクチなのだ。

思ったのだけど、これがもっと重く長く深く、深刻かつ真剣になると、跡継ぎプレッシャーと言うものになるのかしら。
比べちゃいけないか。
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2014/2/17  22:42 | 投稿者: 時鳥

土曜日の朝、ドアを開けると、玄関先にうっすらと雪が積もっていた。
先日の雪の日に行った実験を再度行うチャンスだ。
またしても後ろ向きに歩いてみた。
今度は一旦前方に体重をかけ、つま先を最後に抜くようにして後ろに進んでみた。
できあがったのを観察した限りでは、割と自然な足跡になったと思う。
霙の混じった、あまり質のよくない雪だから、何ともいえないけど。

日曜日の午後遅く、外出すると、柴犬が三匹、散歩をしているのに行き会った。
雪の塊を見つけては駆け寄り、臭いを嗅ぎ、また次の塊へと突進する。
なにこれなにこれなにこれ、と、言っているのが聞こえてきそうだ。
よく分からないが、雪を見たら突進するよう、何かの回路が仕込まれているらしい。
雪を見たらとりあえず足跡トリックを考える人間と、本質的には変わりがない。
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2014/2/17  22:07 | 投稿者: 時鳥

「Kawaii 日本美術」展で見た数点の作品について、つらつらと。

伊藤若冲「樹花鳥獣図屏風」
若冲の最も有名な作品のひとつ。
方眼紙を貼り付けたように、屏風全体が小さな正方形に区切られ、その上を象や鳳凰をはじめとする鳥獣が極彩色に群れ集う。
一度目にしたら一生忘れられないインパクトのある作品だが、個人的には、これは若冲の最高傑作ではないと思っている。
この屏風、確かに目を引くのだけど、若冲にしては動物が生き生きとしていない。
若冲の画業のひとつの極であることは認めるし、実験として面白いけれど、若冲が本領を発揮するのはこういう大掛かりな作品よりも、墨だけでするするっと描いた鶴とか、うちの庭の鶏や身近にある人形を観察しつくして描いた掛け軸とかだと思う。
同じ画法で描かれた絵はたくさんあるのに、見てすぐに若冲だとわかり、訳もなく楽しくなる。
見た人を機嫌よくさせるって、本当に凄いことなんだけど、個人的な体験すぎるのか、なかなか一般に評価はされない。

伊藤若冲「伏見人形図」
若冲の伏見人形の絵は、文句なしにかわいい。
ふくふくした顔、たぷたぷの体、おちょぼ口。服の輪郭線はあるけど肌の輪郭線はなく、隙間を白く残すことで首とあごの境界を描き出している。膨張する色白の肌に海老茶や緑の衣をまとったお坊様。
体全体から、おおらかで円満なパワーを放出している。
この掛け軸なら、一年中飾っておきたい。
ほとんどデトックス効果に近いものがある。

熊谷守一「ほたるぶくろ」
カクカクした輪郭線は一筆で描かれ、書き足し、書き直しは一切ない。
ホタルブクロは濃淡のない薄紫一色、背景は薄緑一色にべったりと塗りこめられ、胴が黄色く羽が茶色くほかは黒いハチが一匹、ホタルブクロに止まっている。
至極単純な絵である。もっと細密にホタルブクロを描いた絵はたくさんあるに違いない。
しかし、見ていると、この線はこれ以外にありえないような気がしてくる。
生きたホタルブクロは開いたりつぼんだり、風に揺れたりして、その輪郭はゆらゆらと揺れ動く。揺れ動く様を長く長く見つめて、これが本質、という一本を探す。
削れない最後の一本までそぎ落とすと、こういう絵になるんじゃないかと思う。ほとんど抽象画の領域に足を踏み入れている。

結城素明「巴里風俗」から「サンタル門外所見」、「街頭所見(街路樹)」
大正12年から14年にかけて、画家は文部省留学生として渡欧した。
日本画で既に名を成した画家は、40代後半。
初めて観るヨーロッパをまっさらな目で捉え、いきいきと描く。
爽やかで軽やかで、浮き立つような気分が伝わってくる。

山口華楊「生」
生まれたばかりの子牛が、牛小屋の隅にうずくまっている。
小屋の窓から朝の光が差し込む。光は淡い緑を帯びて、しっとりと輝いている。
うずくまった子牛は、首を起こして、こちらを見つめている。
何も知らないのに、全部知っているような子牛の目。透き通った目。
かわいいより、美しいより先に、神々しい。

竹内栖鳳「鴨雛」
ぶっさいくだなあ。
苦笑をかみ殺しながら思う。
ぼさぼさの羽毛を生やした鴨の雛がずるぺたと餌場に群がっている。
無防備に伸びた足、バランスの崩れた体勢。
ちっとも美しくないのだけど、ブサかわいい。

川端龍子「百子図」
キャプションを読まずに、絵の前にしばらく立ってみた。
夢の絵だ、と思った。
絵の中心にいる象は、額や胴を華やかに飾りつけられている。
象の周りに、たくさんの子供が群がっている。
象に乗っている子供、象の絵を描く子供、象の鼻に手を伸ばす子供、象の周りで踊る子供。誰も彼もが熱のこもった視線を象に注いでいる。
現実にこういう場面を見て描いたのではなく、こうあって欲しいと誰かが望んでいる。
それは画家かもしれないし、子供達かもしれない。
キャプションを見て、納得した。昭和24年、インドから日本の動物園に象が贈られた頃の絵だった。
子供向け雑誌の表紙のように優しく、夢にあふれた絵だ。
象を見たがったのは子供達だったけど、象を見ている子供達を、画家はきっと見たかったのだ。
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2014/2/16  21:12 | 投稿者: 時鳥

山種美術館の「Kawaii 日本美術」展で、雀の小籐太絵巻というものを観る。
御伽草子の1エピソードを絵巻にしたもので、解説パネルによると、こんな物語らしい。
雀の小籐太とその妻が餌を取るため留守にしている間、蛇が巣を襲撃し、雀の子を食べてしまう。嘆き悲しむ小籐太たちを、13種類の鳥が弔問に訪れ、その後、妻は出家、小籐太は諸国行脚をし、子の菩提を弔った。
粗筋を読んで、コマドリ殺しのマザーグースを思い出したのは、多分、私だけじゃないと思う。
ちゃんと読んだわけではないから分からないけど、きっと弔問客の鳥にちなんだ和歌のやり取りか何かしているのだろう。
音を合わせて韻を踏むことに、興味がなかったとは言わないけど、それ以上にイメージを重ねたりずらしたりすることに興味を持つ人たちだったから。


ちなみに、雀の小籐太絵巻ではスズメが被害者だけど、
"Who killed Cock Robin?"ではスズメは加害者。
第一連で自白するから、倒叙物かと思いきや、理由や経緯については何の説明もなく、そのまま話は葬式の手順についてだけに集約していく。
過去は気にならないのかしら。あっちの鳥は。
来世にいきなり思いを馳せる日本の鳥もどうかと思うけど。
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2014/2/16  14:10 | 投稿者: 時鳥

「指」の語源は「及び」である、という説があるのだそうだ。
そんなことが「指を置く」展のパネルに書いてあった。
腑に落ちるものがあった。
指で触れたり、指さしたりすると、そのものに何かが及ぶ。
指さしたものと指されたものの間に、関わりみたいなものが出来てしまう。
普段からこんなお呪いみたいなことを考えて指を使っているわけではないけど、底の方ではおぼろげに気付いていた気がする。

なお、「指」の語源については、「結ふ」の連用形説もあって(『日本語源広辞典』)、こちらはこちらで納得が出来る。
指きりは、結んだものを切ることで発効するお呪い。
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2014/2/15  22:46 | 投稿者: 時鳥

佐藤雅彦+齋藤達也による企画展「指を置く」を観に、ギンザ・グラフィック・ギャラリーに行く。
普通の展覧会では展示作品に触れるのは厳禁だけど、この展覧会ではすべての作品に触れることが出来る。何しろ入り口を入ってすぐのところにウェットティッシュが用意されていて、指を拭くよう、指示されるのだ。まるで『注文の多い料理店』みたいに。
展示は1階と地下1階の2フロアで、作品はほとんどが紙に印刷された平面作品、地下の一角にだけ体験型のインスタレーションが設置されている。
各作品には、指を置く場所と指の種類がしっかり指示されていて、鑑賞者はその通りに指を置けばいい。
紙の作品に指を置いて何が起きるかといえば、何も起きない。いきなり何かが飛び出したり、光ったり、うなったりはしない。つまり、外側では何も起きない。何かが起きるのは、鑑賞者の中で、だ。
例えば、ある作品では、扇風機とその前に置かれた紙の束が描かれている。風に吹かれて紙が宙に舞い上がる中、一枚だけ、飛ばされない紙がある。その紙の上に右手の人差し指を置くよう、マークで指示がされている。置いてみると、何だか、自分が押さえているから、紙が飛ばないように思えてくる。
そう思えるだけで、実際には何も起こっていない。ただの気のせい。その通りだ。でも、そう考えるように、感じるように、人間は出来ているのだ。人間の世界の捉え方が、もうそうなっている。それに、現実世界において扇風機で飛ばされそうになっている紙を押さえるのだって、本当に押さえているから飛ばないのか分かったもんじゃない。「押さえ付ける力があるから紙は飛ばない」は、人間が理屈付けている学問とか五感の認識の範囲とかでは破綻がなく、正しいと思われているけど、ひょっとしてひょっとしたら、ヤモリにはちがう風に見えているかもしれない。何しろ彼ら、接着剤なしに壁にくっつける生き物なわけだから、自分達以外の生物や無生物が壁にくっつけないのを馬鹿にしているかもしれないし、床にあるくせに風ごときに飛ばされる紙が逆に理解できないかもしれないではないか。
ヤモリの話がしたかったわけではなかった。作品の話に戻る。

さて、会場では例示したような、指を置くと意味合いが変わって見える作品が数十点、展示されていた。片っ端から指を置きながら、図形問題の補助線によく似ている、と思った。
図形問題は、補助線を一本引くだけで、図形の意味がまるっきり違って見えた。同じように、作品は変わっていないのに、指先ひとつで見え方が変わってしまう。
指がなくても、目がなくても、こんなことは起きない。指の代わりに文鎮とか鈎針とか割り箸とかを使っても同じ事は起こせるけど、手で使う道具っていうのは拡張された手だから。
どうやら、目と指の組み合わせには、まだまだ潜在能力が隠されているらしい。


開催情報:
「指を置く 佐藤雅彦+齋藤達也」
ギンザ・グラフィック・ギャラリー(銀座)
期:2/6〜2/28 11時〜19時 土〜18時(日祝休み)無料
※中央区銀座7-7-2 DNP銀座ビル1F
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2014/2/14  23:41 | 投稿者: 時鳥

シュメールの印章を捺したクッキーを作った人がいるのだそうだ。
古代オリエント関係の博物館に行くと、ミュージアムショップで印章を売っていることは結構あるから、特に難しいことではない。

ずっと思っていたんだけど、メソポタミアの楔形文字粘土板文書は大きさといい色合いといい、キャラメルによく似ている。
楔形文字を刻んだキャラメルをミュージアムグッズとして売り出したらどうだろう。
「ありがとう」とか「ごめんなさい」とか、メッセージカードによくありそうな言葉を刻んで、送り先にメッセージを伝えるとか。
この世のほとんどの人は楔形文字を読めないから、包み紙かどこかに読める文字で書いておく必要があるけど。メッセージを伝えたいなら。
もっとも、意味を明確にするより、楔形文字粘土板文書の雰囲気が大事だという向きもあるだろうから、別に「死亡した羊とクマの引渡しに関する家畜管理文書」みたいなのをそのまま使ってもいいのかもしれない。
個人的には、おみやげっぽく、「メソポタミアに行きました」みたいなことを書いてほしい。どうでもいいことでも楔形文字で書くともっともらしくなる例。

参考:
楔形文字粘土板文書ガラスビュー
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