2014/5/31  23:04 | 投稿者: 時鳥

(承前)
ジャック・カロは1592年に紋章官の息子としてロレーヌ地方に生まれ、1635年にナンシーで没している。およそ43年の生涯は若死にと言ってもいいかもしれないが、正直なところ、若死にを悔やむ気持ちは、どうもあまり呼び起こされない。
この人の人生が最も輝かしかったのは20代で、その先は徐々に減衰していっているように見える。
20代の初めにローマで発表した版画の連作が注目されて、メディチ家のお抱えの版画家になった。しかし、1621年に当主のコジモ・ディ・メディチ2世が没すると帰郷し、その後はロレーヌの宮廷に仕えて、仕事を請けていたらしい。
フィレンツェ時代の作品は、豪華な宴や賑やかな祝祭の様子を豊かな想像も交えて写し取っていて、デフォルメを交えた情景を隅から隅まで、過剰なまでに細かくしつこく描写する作風が主題と濃く結びついて、異様な迫力があった。
貴族趣味と庶民生活の猥雑さとが活気に満ちてからまりあう大都会、ありのままを描いたって過熱気味のフィレンツェに、カロが更なる熱をぶちこむものだから、エントロピーの増大が止まらない。
ロレーヌに戻ってからの作品が駄目なわけではないのだけど、あの時期を得た者の勢いを先に見てしまうと、その後がどうしてもくすんで見えてしまう。
絞首刑の絵が含まれる連作「戦争の悲惨」とか、お城で開かれた槍試合の様子を描いたはずなのに、何故か怪魚がどんぶらこと泳いでいる連作「槍試合」とか、晩年の大作「聖アントニウスの誘惑」とか、いい作品はあるんだけど、何と言うか、熱量が落ちているような印象を受ける。守りに入っている、というか。
この人が80歳まで生きたら、きっと悪くない作品をたくさん残したと思う。元々、多作な人で、1400点以上の作品を残しているのだ。
歴史の教科書に載る作品をほかにも描いたかもしれないし、技術を磨き上げて後世の版画家に影響を与えたかもしれない。でも、初期の作品にあった荒唐無稽な引力は、もう戻らなかったんじゃないだろうか。根拠はないけど、そんな気がする。
2

2014/5/29  23:32 | 投稿者: 時鳥

大木の枝に、数十人の人間が首をくくって吊られている。幹には梯子がかけられて、この瞬間にも、次の人間が吊られようとしている。
そんな絵が歴史の教科書に載っていたことを、今でも覚えている。
三十年戦争のページにしばしば登場するこの版画を描いたのは、ロレーヌ地方出身の版画家ジャック・カロだ。
現在、上野の国立西洋美術館では「ジャック・カロ リアリズムと奇想の劇場」という企画展を開催していて、約200点の作品を年代と主題で7つに分類して展示している。
それを観に行った。

「絞首刑」と題された冒頭の作品の印象があまりに強かったものだから、グロテスクな作品を好んで描いた人なんだろう、と決め込んでいたが、集められた作品を観ると、特にグロテスクなものを好んでいるようには見えない。
というか、この人、描く題材にはあまりこだわりがなかったんじゃないだろうか。
画家の中には、あるモチーフに延々とこだわり続けて、ほとんどそれしか描かない人がよくいるけれど、ジャック・カロはそういう絵描きではなく、依頼主の希望に合わせて作品を描けた人だったと思う。
だからといって、こだわりがないわけではない。技法にはこだわっていたし、自分の技術にはきっと、絶対の自信を持っていた。
自分の技術が活かせる題材であれば、それが美しいかろうと醜悪だろうと、現実だろうと夢想だろうと、虚実どちらであろうと、どうでもいい。権力者の気をひくために、美化した肖像画を描くぐらいは平気でやってのける。芸術家であると同時に、世渡りを考えて売り込みができて、高い技術も持っている。
美しいものより醜いものを面白がって見ているふしがあって、少々変わった好みをしているのだけど、それを世間で受け入れられるよう、上手くバランスをとって作品にしている。
冒頭の作品だけ見て想像していたよりも、ずっとバランスのとれた、いい意味で計算の出来る、理性的な人だった。

(続く)
1

2014/5/27  23:33 | 投稿者: 時鳥

「小さな道化たち」という題の付いた版画の連作を見た。
作者はジャック・カロ。17世紀前半にフィレンツェとロレーヌで活動した版画家だ。
約20枚の連作では、ゴッボと呼ばれる小人達が楽器を奏でたり剣を抜いたり酒を飲んだりしている様子が描かれていた。ゴッボの元々の意味は「こぶ」。つまりこれは、昔風に言うなら「せむしの道化」を描いた作品だ。
現在では、障害者を笑いの対象にするってことが許されなくなっているけれど、こうして絵を見ると、小さな人たちを面白がってしまう気持ちがわかるような気がする。
芸人が面白い表情をしたり、間抜けなことを言ったりしたら笑うのと同じで、丸っこい体つきの小人が面白い身振りをしたら、見物人から笑いが起きたと、基本は本当にそれだけだったんじゃないだろうか。あと、体の大きなレスラーに驚くのと同様に、体の小さいゴッボにもびっくりしていたんだと思う。
絵を見ただけの、全くの想像にすぎないけど。
でも、この連作で見る限り、確かにこの人たちのたたずまいには独特のおかしみがあって、正直なところ私は、この人たちが広場で大道芸をしていたら、見物の人だかりに加わると思う。
差別や蔑視の意図が全くなかったとは言わない。けれど当時の見物客は、蔑視したいから見ていたと言うよりは、面白いから見ていたのだろう。多分。

楽器を奏でる小人の絵を見ながら、ふと不思議に思った。
小人と楽器の大きさのバランスが取れている。
小人用に小さい楽器を用意していたのだろうか。
わざわざ特注の楽器を用意するのって、富裕でない人にとっては難しそうだけど。
それに、普通の大きさの楽器を小さな体で一生懸命演奏しているのって、視覚的インパクトが強そうだし。むしろ、普通より大きな楽器を用意して、効果をねらったっていいくらいだ。
それとも、この人たちはいずれも超絶技巧の持ち主で、小さな身体で小さな楽器を自由自在に操るってことが売りだったのか。
想像が膨らむ。
2

2014/5/26  23:32 | 投稿者: 時鳥

毎日通る道の傍ら、ガラスのドアの向こうに胡蝶蘭が20鉢ほど並んでいる。
新規オープンしたらしい。
植物とは何の縁もなさそうな業種の、乾燥した室内。蛍光灯の白い光の下に胡蝶蘭の花が重く垂れる。
美しい花が日を追うごとに少しずつ瑞々しさを失い、しおれていく様を見せられるのが、正直、つらい。大事に育てた美しい娘たちが街娼にされて、慣れない環境と過酷な仕事に蝕まれて、病み衰えていくところを見せ付けられている気分にさえなる。
植物とは無関係の企業に、こんなに沢山の胡蝶蘭をケアできるわけはないのだが。

半分くらいマスクメロンにしてくれれば、従業員も喜んだろうになあ。
西瓜でも、晩白柚でも、見栄えがして、そこそこ高価な果物なら何でもいい。
数日間飾って、あとは従業員で美味しくいただける。
世話に苦労することもなく、枯れた花を始末する必要もない。
値段と大きさとインパクトという観点では、ドリアンも有力候補なんだけど、お祝いにドリアンを贈るほど思い切りのいい贈り手も、ドリアンを受け取って喜ぶほど度量の広い受け取り手も、現代日本にはあまりいない。
個人的には面白いと思うけど。
事件が起きたとしても、それはそれで笑い話になって、語り草になる。
3

2014/5/25  23:00 | 投稿者: 時鳥

「大きな樹の下で」と題された版画展を見た。
渋谷のBunkamuraにある小さなギャラリーでのことだ。
笠井正博さんと言う作家の個展で、淡い色彩のリトグラフや水性セリグラフが部屋中の壁にちりばめられていた。

テーマは「木漏れ日」。
といっても、木々を見上げた時に見える光と影そのものではなく、木漏れ日が地面に落とした光を描いたもののように見えた。
その地面は土と言うより草地と言うより、舗道。だからこれは、街路樹や近くの庭から落ちる光なんだと思う。
画面全体の色調は淡く瑞々しく、歪んだ輪がリズミカルに踊る。そう、木漏れ日ってこんなのだ。
濃く淡く、影が揺らめく。光が重なり、影が重なり、複雑優美な模様を作る。風が吹くたび、模様が変わる。
秋の木漏れ日、冬の木漏れ日。タイトルにはないが、見れば何となくわかる。
特に目を引くのは夏の木漏れ日。今が初夏だからかもしれないけれど、夏の木漏れ日の涼やかさには、他の季節にはない引力がある。
冬の木漏れ日を見る時は光を探しているのだけど、夏の木漏れ日を見る時は、影の濃さを探し求めている。

五月闇、という季語がある。
旧暦の5月は梅雨の時分で、分厚い雨雲が辺りを暗くしている。
そんな時期の暗さをいう言葉だけど、新暦になってからはその感覚は薄れた。
今の5月は、日に日に光が強くなり、新緑が着々と色彩を深めていく時期だ。
この時期、日向からいきなり木陰に入ると、暗さに驚くことがある。
日向と日陰のコントラストが最も強くなるのは真夏、でも、毎年、コントラストの不意打ちを食らうのは、初夏のこの時期だ。
夏になるともう、コントラストを無意識のうちに予測して行動しているのだけど、初夏はまだ予測が出来ていない。だから、いきなりの暗さに目が慣れず、戸惑う。
「五月闇」はもう、そういう状態を言い表す言葉にしてしまってもいいんじゃないだろうか。

絵を見るうち、これまで見た木漏れ日と、その周辺の空気のことを思い出した。
この絵があれば、季節を問わず、あの木漏れ日の下に行ける。
もしも私が宇宙船とか潜水艦とか、窓のない空間に閉じ込められてしばらく過ごさなければならないとしたら、こういう絵がきっとどこかに欲しくなる。
集会場でも私室でもなく、廊下の突き当たりなんかのあまり人の立ち止まらないところにあるといい。気が向いたときにふらっと足を運んで、何となく見ていられて、そうでない時はほとんど目に入らない。
頻繁に見たいわけではなく、困った時とか手詰まりの時にふと思い出してみたくなる、そういう絵だ。
2

2014/5/23  22:36 | 投稿者: 時鳥

アンケートの結果が載っていた。
どうも、実施する前から結果の予測がついていたように見えた。
発表したい結果があって、そうなるようにアンケート項目や順序や、実施タイミングを練り上げたような。
ただの邪推でしょうね。きっと。

しかしこういうのって、もしも結果が期待はずれだったらどうするんだろう。
何とか統計を操作して、期待に近い形に加工するのだろうか。
それとも、結果発表の範囲を縮小したり、発表をやめたりするのだろうか。
生活しているとあちこちでアンケートへの回答を要求されて、そのたびに答えたり答えなかったりしているけど、それらのアンケートの結果報告を目にすることって、あんまりない。
どっかで集計されているんだろうな、くらいのおぼろげな感覚しかなくて、結果が自分の目に触れなくても、ぜんぜん気にならない。
よほど奇妙なアンケートなら他の人の回答が知りたくなるかもしれないけど。
多分、大多数の人にとってはそうだろう。
となると、主催者側にとってアンケートの結果が不本意な場合、それを握りつぶしたところで気づく人はほとんどいない。
「無作為に抽出した五千人の回答結果」でも、同じアンケートを違う五千人に対して3回行って、主催者の期待に一番近い結果が発表されているかもしれないし、発表されないアンケート結果が裏に何本かあるかもしれない。
数千人のアンケート結果は、みんなの一般的な意見のように見えるけど、実は、そうとは限らない。
唯一、確かなのは、大多数の公平な意見だと思わせたい人がどこかにいるということ。
それくらいなんじゃないかと思う。
2

2014/5/23  0:02 | 投稿者: 時鳥

3Dプリンターを利用して作られた義足を見た。
義足そのものがプリンターから出てくるのではない。3Dプリンターから出てくるものには、人間の体重を支えられるほどの強度はない。そうではなく、プリントアウトされたものを原型に型取りして、その型に義足に適した素材を流し込んで、義足を作る。
これまで義足は、原型を手作業で作っていた。それがプリンターを使ってそこそこ簡単に作れるようになったため、コストがぐっと下がったそうだ。
安く早く作れる義足として、途上国ではもう実用化しているとか。

実物をしげしげと観察する。
腿の途中まで足がある人のための義足で、義足の腿の部分に開いた空洞に自前の腿の先を差し込んで、バンドで留める形式を取っている。
足首の関節はなかったので、指の先まで自前の足で歩いている人ほど滑らかには歩けないだろうが、その代わりに、膝の関節は360度回転した。
いいなあ。
場違いかもしれない。罰当たりかもしれない。
でも、それを発見した瞬間、羨んだ。

人間の膝関節は、内側にも外側にも45度ずつしか回転しない。だから、足の裏を地面につけたまま、真後ろを向くことが出来ないし、真横を向くことすら難しい。
しかし、この義足をつけた人には、それが出来るのだ。
人間の足を忠実に再現するなら、45度しか曲がらないようにすべきだけど、それが動きの制約にしかならないなら、再現するには及ばない。
おかげでこの義足を付ける人は、自前の足の人にはできない動きが出来るようになった。
近い将来、義手や義足のための舞踊作品が生まれるかもしれない。自前の手足には出来ない動きに魅力を感じる振付家がいたって、全然おかしくない。だって、新しい動きを、身体表現を、いつも模索しているのが振付家なのだから。

多くの人には出来ない動きが出来る。多くの人にはない能力がある。
劣った能力しか持たないとみなされていた人が、並み以上に優れた能力を持つ。
それは、マイナス符号がプラス符号に変わったような、大逆転だ。
しかし、能力的にはプラスに転じたとしても、やっぱり彼らが少数派であることに変わりはなく、ハンディキャップは依然としてあるのかもしれない。

例として、色覚で考えてみる。
世の中の多数の人間は3色の色覚を持っていて、信号でも標識でもファッションでも、人間世界のありとあらゆるものが、3色の色覚を前提に作られている。
こういう世界では、2色の色覚を持った人は、大事なものが見えなかったり区別が付かなかったりして、不利益をこうむったり、危険な目に合ったりすることがある。
では仮にここに、4色の色覚を持った人と言うのがいたら、どうなるだろう。
多くの人には同じに見えるものが、この人には違うものに見える。この標識とあの標識がまるで違うものに見えたり、これとそれの取り合わせがひどくアンバランスに見えて、やっぱり不利益をこうむったり、危険な目に合ったり、不愉快な思いをするかもしれない。
膝が回る人も同じことで、45度しか膝が回らない人ならこれくらいの安全ベルトがあれば済んでいたものが、360度膝が回る人には特別な安全ベルトが必要で、それがないと危険なケースがあるかもしれない。
ここまで来ると気付く。
問題は、能力が多いか少ないかではないのだ。
多数派と違っている。それだけでもう、不利な条件となりうる。

45度しか動かない膝は制約であると同時に安全装置で、既存の人間社会で生きるなら、多数の人間と同じ動きしか出来ないほうが軋轢は少なくて済む。
ただし、メリットがとても大きいのなら、多少の軋轢は承知の上で、360度動く膝を選ぶ選択肢だって、もちろんありだ。
そして、360度の膝しか与えられないなら、それを45度しか動かさないように努力するのではなく、動かせることのメリットを追及したほうがいい。個人的にはそう思う。
2

2014/5/21  22:00 | 投稿者: 時鳥

最近のエントリを書いたあとで考えたこと2つ。

1.木目ストッキング
女性はストッキングとして、男性はどうしよう?と考えた。
男性用ストッキングを売り出す、という説も浮かんだが、結局、ズボンが木目の模様になっていればいいことに気付いた。
杉綾、という織物もこの世にはあることだし。
意外に、木の幹に似たズボンって多いんじゃないだろうか。

2.展示室の貸し鉛筆
自分が持ってきたシャープペンシルを自分で使う場合は、何か起きたら100%自分の責任だと思うから注意深くなるけど、他人から借りた鉛筆を使う場合にはそこまでの責任感はなくなってしまう。
館が貸してくれて、正々堂々と許可しているのならなおのこと。
それはお前のモラルが低いからだ、と言われたら、すみません、と謝るしかないけど。
1

2014/5/19  22:14 | 投稿者: 時鳥

朝の通路は今日も混んでいた。
急ぎ足の中にも速い遅いがあって、微かな淀みのようなものがあちらにもこちらにも出来ている。
ふと思った。
高速道路やエスカレーターのように、追い越し車線を設定したら、よりスムーズになるかもしれない。
横2人しか歩けない通路なんてあんまりないから、4車線ぐらいにして、特急、急行、快速、鈍行みたいにするとか。
4車線、それぞれのペースを保つのは大変だから、カウントが流れているといいかもしれない。
メトロノームの音を2秒に1回、1分間に30回鳴るように流して、特急は1拍6歩、急行は5歩、快速は4歩、鈍行は3歩歩くようにルール設定してみるとか。
規律正しき朝の通勤風景。
想像したら、たいへんに囚人の群れっぽかった。
殺伐としている。

ここは逆に、朝からサンバかマンボを流して、歩行者がさくさく歩きながらも踊らずにはいられなくなる歩道を目指すべきなのかもしれない。
2

2014/5/17  23:00 | 投稿者: 時鳥

展覧会情報を18件追加しました。
右の「展覧会情報」リンクよりお入りください。
追加した情報は以下の通りです。


「笠井正博版画展 大きな樹の下で」
Bunkamura Box Gallery(渋谷)
期:5/17〜5/25 10時〜19時(無休)無料
※Bunkamura1fメインロビーフロア

「竹尾ペーパーショウ「SUBTLE」(サトル|かすかな、ほんのわずかの)」
トロット/ヒューリスティック東雲(東雲)
期:5/25〜6/1 11時〜20時(無休)無料
※江東区東雲2-9-13 2F
☆ファインペーパーの新製品、15人のクリエイターによるテーマ展示、上田義彦氏の写真など
http://www.takeopapershow.com/

「明和電機 EDELWEISS」
市川市芳澤ガーデンギャラリー(市川真間)
期:4/19〜6/1 9時半〜16時半(月休み)500円
※市川市真間5-1-18
☆毎日11時、13時、15時から自動演奏あり

「ハンス・ライヒェル×内橋和久 Listen to the Daxophone」
横浜市民ギャラリーあざみ野(あざみ野)
期:5/31〜6/15 10時〜18時(無休)無料
※横浜市青葉区あざみ野南1-17-3
☆謎の楽器ダクソフォン。見たことのない形、聴いたことのない音。

「熊谷守一美術館29周年」
豊島区立熊谷守一美術館(椎名町)
期:5/16〜6/22 10時半〜17時半 金〜20時(月休み)700円
※豊島区千早2-27-6
☆熊谷守一作品約100点

「見晴らす 日本のけしきを彫る人 田中圭介」
ポーラミュージアムアネックス(銀座)
期:5/30〜6/22 11時〜20時(無休)無料
※中央区銀座1-7-7 3F
☆彫刻家田中圭介の初の大型個展。角材から噴出する、小さな木彫の森。

「近代の日本画」
五島美術館(上野毛)
期:5/17〜6/22 10時〜17時(月休み)1000円
※世田谷区上野毛3-9-25
☆館蔵作品の展示

「われわれは〈リアル〉である 1920s-1950s」
武蔵野市立吉祥寺美術館(吉祥寺)
期:5/17〜6/29 10時〜19時半(5/28、6/25休み)100円
※コピス吉祥寺A館7F☆絵画・版画約50点と漫画・雑誌・資料類約80点。
58年の記録映画『佐久間ダム(総集編)』の上映あり

「ニコラ ビュフ:ポルフィーロの夢」
原美術館(品川)
期:4/19〜6/29 11時〜17時 水〜20時(月休み)1100円
※品川区北品川4-7-25
☆ヨーロッパの古典と和製ロールプレイングゲームの世界観を持ち込んで、
美術館全体をファンタジーの世界に変える試み。
http://www.haramuseum.or.jp/

「佐藤時啓 光―呼吸 そこにいる、そこにいない」
東京都写真美術館2階展示室(恵比須)
期:5/13〜7/13 10時〜18時 木金〜20時(月休み)700円
※恵比須ガーデンプレイス
☆光の残像、軌跡。人間には見えなくても、カメラには見えているもの。

「美しいファンシーエッグ」
アクセサリーミュージアム(祐天寺)
期:5/8〜7/30 10時〜17時(月、第4・5日休み)1000円
※目黒区上目黒4-33-12☆

「日本の衣 原始布や野良着の美しさ」
岩立フォークテキスタイルミュージアム(自由が丘)
期:5/8〜8/16 10時〜17時(木〜土のみ開館)300円
※目黒区自由が丘1ー25ー13 岩立ビル3F

「背守り 子どもの魔よけ」
LIXILギャラリー1(銀座)
期:6/5〜8/23 10時〜18時(水、8/14〜17休み)無料
※中央区京橋3-6-18 2F
☆背守り、百徳着物、迷い札、守り袋など、子供の無事を願う造形と関連資料約110点

「石内都 幼き衣へ」
LIXILギャラリー2(銀座)
期:6/5〜8/23 10時〜18時(水、8/14〜17休み)無料
※中央区京橋3-6-18 2F
☆「背守り」展の展示品である「背守り」や「百徳着物」を撮影した新作19点

「板谷波山 光を包む美しきやきもの」
泉屋博古館分館(六本木一丁目)
期:6/14〜8/24 10時〜16時半(月休み)800円
※港区六本木1-5-1
☆没後50年回顧展。代表作約160点と資料約50点。

「ゴー・ビトゥイーンズ こどもを通して見る世界」
森美術館(六本木)
期:5/31〜8/31 10時〜22時 火〜17時(無休)1500円
※六本木ヒルズ森タワー53F
☆世界各国の26作家の作品に表れる子どものイメージ。境界の生き物。

「魅惑のコスチューム:バレエ・リュス」
国立新美術館(六本木)
期:6/18〜9/1 10時〜18時 金〜20時(火休み)1500円
※港区六本木7-22-2
☆オーストラリア国立美術館所蔵の衣装約140点。今見ても、目が覚めるほど新鮮。

「世界のビーズ」
文化学園服飾博物館(新宿)
期:6/18〜9/13 10時〜16時半(日祝休み)500円
※渋谷区代々木3-22-7


楽しみで仕方がないのが、横浜市民ギャラリーあざみ野の「ハンス・ライヒェル×内橋和久 Listen to the Daxophone」。
ダクソフォンという、見たことも聞いたこともない楽器を大々的に取り上げる。
ネット検索すれば演奏動画のひとつやふたつ、簡単に見つかりそうだけど、あえて調べない。
実物を生で見て聞いて、驚きたい。
だから、楽器単体の写真を見るだけにして、妄想を膨らませることにする。

国立新美術館のバレエ・リュス展は、去年から予告が出ていた展覧会。
20世紀初めのパリで旋風を巻き起こしたロシアバレエの衣装がわんさかと。
今見ても斬新で鮮やかで、はっとする。

「背守り」はもう、LIXILギャラリーらしさが炸裂。
面白いことは間違いないけど、行くまで何が出てきてどう感じるか、想像がつかない。
「ゴー・ビトゥイーンズ」も予想外のものが見られそうな気がする。

写真美術館の佐藤時啓展は、神秘的できれいなものの気配がする。
ポーラミュージアムアネックスの田中圭介展は、もやもやした得体の知れないものの気配がする。
どちらも知らない作家さんだけど、気になるから見に行く。
0

2014/5/17  16:02 | 投稿者: 時鳥

帰ってくると、階段の隅っこに蛇がうずくまっていた。
太さは人差し指くらい、長さは30〜40cmくらいで、体の表面にはきれいな模様がついている。
いかにもペットショップで売っていそうで、どう見ても野生のものには見えない。
近くの部屋から脱走してきたらしい。

この大きさなら大して怖くはないが、毒蛇の可能性がないとは言い切れない。
毒なんて持っていそうに見えないけど、専門家ではないのだ。こちらは。
あとで調べるため、携帯で写真を撮ろうとすると、光が嫌だったらしく、階段を上って逃げようとする。
一段は何とか昇ったものの、二段目を上りかけて力尽き、へにょんと落ちてくる。
可愛い。
脱走犯というより、迷子だ。これ。
人間のお父さんかお母さんを探してあげたいけど、近くの部屋を手当たり次第に尋ねて回るには時間が遅いし、薮蛇になる可能性がある。
隣人に隠れて、こっそり飼っているのかもしれない。
野生化したり、私の部屋の郵便受けから室内に忍び込まれたりすると困るので、どこかに落ち着かせたいんだけど、迷い蛇を見つけた場合って、どうしたらいいんだろう。
流石に、室内に現れて素足の上を這われたら、パニックにならない自信はないのだが。

15分ぐらいしてから、ティッシュの空き箱を持って何となく現場に戻ってみたら、いなくなっていた。
誰かが迎えに来た、と、思うことにした。
3

2014/5/15  21:41 | 投稿者: 時鳥

ストッキングを履いた女性が前を歩いていた。
光の加減か目の錯覚か、そのふくらはぎのあたりに、モアレが見えた気がした。
濃い色のストッキングにモアレが浮かんだ様子は、木目の模様に本当によく似ている。

木目模様を前面に打ち出したストッキングを売り出したらどうだろう。
「桜」とか「楠」とか「胡桃」とか「楓」とか「マホガニー」とか。
消臭効果として、木の香りがついているとなお良い。
ストッキングを履かない人にはあまり関係がなさそうだけど、ちょっと想像して欲しい。
人ごみの足元、多数の脚が立ち並ぶ林の中に、樹木のストッキングをはいた女性が混じっていて、ほんのりと樹木の香りがする。
それは、想像するだけで何となく楽しくならないだろうか。
このストッキングは、光の加減や動きによって色や模様がくるくる変わる。
それってとても色っぽいし、見ず知らずの人の足についつい見入ってしまいそうではないだろうか。男性がやったら、軽く不審者扱いされるかもしれないくらいに。
変なことを考えているつもりはないんだけど、そんなこと考えるの、私だけだろうか。
もうあるのかな?ひょっとして。
3

2014/5/14  22:36 | 投稿者: 時鳥

国立公文書館で特別展「高度成長の時代へ 1951-1972」を見た。
展示品の中に、「石炭政策大綱について」という昭和37年に発行された文書があった。
当時の石炭業は石油や原子力などの新エネルギーに圧迫されて斜陽産業となっていた。
そんな石炭業を救うために、政府は「石炭需要の政策的確保」などの対策を打ち出した。
そのことを記したのがこの文書である。

今になって読むと、変なことに税金をかけたなあ、と、思う。
時代の流れは止まらない。
斜陽産業を無理やり延命させようとしても、かけた金額の割りに効果は上がらないし、延命できたとしてもほんの数年だ。事実、現在の日本ではもう、石炭で生きている人はほとんどいない。
そんなことをするくらいなら、上り坂の産業に乗り換えて、そちらに力を入れたほうが効果は高かったに決まっている。

理性的に計算を働かせるなら、その通りだ。
しかし、当時、炭坑で働き口が減って食い詰めた人間が、生きて、そこにいて、声を上げていたのだ。
それを「この産業はもう終わりだから、今すぐ別の産業に行きなさい」とは言えなかっただろう。
後から振り返れば不合理で間違っていても、当時はそれが正しかったのだ。

そういうことはいつの時代にもある。
現在進行中の各種社会問題と対応策についてもきっと同様で、未来の人が見たら、「何でこんな不合理なことをしているの?」と首を傾げることがとてもたくさんあるに違いない。
何しろ、今生きている私にすら、奇妙に思える社会モデルがあちこちにあるから。
日本人が永遠に増え続け、世界経済が永遠に成長し続けることを前提とした仕組みって、明らかにおかしいよねえ?
「自分が生きている間だけもてばいいや」って思ったんだろうか。仕組みを作った人。
1

2014/5/13  23:28 | 投稿者: 時鳥

3Dプリンターについての展示を見る。
誰もが、自分の思い描いた形を実体化できるのは素晴らしいことだけど、やってはいけないデザインをしてしまう危険も増えるような気がした。
例えば、タブレットのケースには、ここをこれだけ開けて放熱するって基準があるはずで、専門家なら常識のように知っているし、製品化の前に何重にもチェックがかかるけど、いきなりデザインをした素人はそんなことを知らず、誰もチェックしないまま実体化させて、事故を起こすってことがこれから起きるんじゃないだろうか。
杞憂だといいけど。
2

2014/5/11  22:31 | 投稿者: 時鳥

美術館や博物館の中には、鉛筆以外の筆記用具の使用を禁止しているところが結構あって、そういうところの展示室でシャープペンシルをかちかちやっていると、監視員が飛んできて鉛筆を貸してくれる。

しかし、鉛筆は手が汚れやすい。
手帳についているシャープペンシルやボールペンは、使わない時には手帳と一緒にポケットに入れられるし、そうでなくても芯がしまえるけど、長い鉛筆はポケットに入らないし、たとえ入ったとしてもポケットが汚れるから入れたくない。
仕方なく、手に持って見ているけれど、邪魔臭いことこの上なく、しばしば指先を汚したり、パンフレットにいらない線を残したりする。
展示物を汚したことはまだないけれど、遠くない未来、解説パネルか展示室の壁を汚すくらいのことはやってしまいそうな気がする。

あれ、どういう理屈で鉛筆なんだろう。
「消せるもので汚すなら汚してもいい」ってことなんだろうか。
使い慣れた筆記用具を禁止して、普段使っていない鉛筆を強制して、不愉快にさせて、それで汚されていれば世話はないと思うんだけど。
使い慣れていれば待ち針だって凶器になるし、幼稚園児でも使える鉛筆でだって、事故は起き得る。
最初は汚さないための規則だったのが、途中から規則が一人歩きして、本来の目的が見失われてしまったように見える。
写真がどうだ、筆記用具がどうだ、話すな、寝るな、吸うな、食うなと規則がさまざまあるけれど、もっと根本の、目的の部分を前面に出したほうがいいのかもしれない。そろそろ。
「館と展示物に危害を加えるな」と「他の客に迷惑をかけるな」。
ほとんどの規則はこの2点に集約され、あとは館毎に危害や迷惑の範囲設定が違っているだけだ。
2




AutoPage最新お知らせ