2014/7/31  23:45 | 投稿者: 時鳥

パプアニューギニアの様々な民族が作った焼き物を見た。
精霊を模した仮面土器や、神話や伝説の登場人物を土器にしたような塑像を見ていると、世界の見え方が現代日本人とは根本的に異なっているように思えてならない。
想像の産物ではなく、本当にこういうのがいると考えているのが分かるし、何かのものやことの背後にこれらの生き物が見え隠れしているんだと思う。
彼らにとっては。
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2014/7/30  23:33 | 投稿者: 時鳥

冷たいうどんと一緒にピーマンのおひたしを食べる。
薬味のようで、そんなに違和感がない。
そういえば、ピーマンって唐辛子の一種じゃなかったっけ。
食べながらぱらぱらと文献をめくる。

唐辛子を品種改良して辛味をなくし、大型にしたもの。
別名、甘唐辛子、おたふく唐辛子。

そんな説明が見つかった。
明治期にアメリカから導入され、第二次大戦後に需要が広がったとのこと。
野菜じゃなくて、甘い唐辛子だって言い張っていれば、こんなにピーマン嫌いの子供を作ることもなかったかもしれないのにねえ。
おたふく唐辛子って言い回し、かわいいし、子供でも食べられる唐辛子ってことにして、少しずつ慣らしていけばよかったのに。
唐辛子と比べれば、はるかに食べやすいのは事実なんだから。

これまでずっと、ピーマンは英語だと信じていたけど、このたびフランス語であることが判明。
英語はgreen pepperあるいはsweet pepper。
英語やフランス語の辞書をいくつか覗いているんだけど、どうも、ピーマンと唐辛子の間の差が、日本語ほどはないような印象を受けている。
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2014/7/28  22:02 | 投稿者: 時鳥

19世紀半ばから1950年代のヨーロッパを荒らしまわった怪人物、12人の肖像。
詐欺師と呼べなくはないが、その一言で済ますにはあまりにも活動の種類が多すぎて、また、一人が複数の顔を持っているものだから、どんな肩書きを付けるのが適当かわからなくなってしまう。怪人物、くらいにあいまいにしておいたほうが間違いがない。
博覧強記の種村季弘が彼らの行状を要領よくまとめてくれているのだが、読んでいるそばから、読者の私か種村季弘か、どっちかかどっちもかが騙されているんじゃないかと疑ってしまう。
何がこの人たちにこうさせるのやら。
末路は大抵悲惨なんだけど、全盛期の華は圧倒的で、活字越しでも魔術を見せられているような気分になる。本人を前にしたら、そりゃあ、騙されるよりほかなかったことだろう。
システムの中に入り込んで、構成員の振りをしているけれど、本当は部外者。システムを知りぬいた上で、その中にとらわれている人間をカモにする。
桁外れなことを飄々と、あっけらかんとやってのけ、壮大なイリュージョンで世間様を欺く。中には、イリュージョンを紡いでいるという意識がなかったんじゃないかと思われる人までいる。本人そのものがイリュージョンと同化して、不可分になってしまっているというか。
しばしば極悪非道なものだから、恨み骨髄の被害者は唸るほどいただろうが、その一方で、騙されたと知りつつ、大して恨んでいない人も相当にいたと思う。
いずれも、人間のちょっとした気の迷いにつけ込んで、それを膨らませる名人たちである。種子は騙される側に、仕掛けは詐欺師の側にある。騙された側としては、願望が現実になって、後にそれが悪い夢であることに気づかされたという、そんな具合だったんじゃないだろうか。
絢爛たる幻を引っさげて、暗がりから胡散臭い男たちが次々と現れる。彼らは欧州世界を跳梁跋扈して華やかな軌跡を残し、呆気なく消え失せる。
彼らが詐欺師呼ばわりされるのは、この時代にこの立場でこれをしたから。時と場所が違えば、国のひとつやふたつ手に入れて、名君だの救国の英雄だの名宰相だの呼ばれていてもおかしくない。
この本に出てくる誰も彼も、それ程の才覚の持ち主たちだ。


以下、各章の題と副題。
紹介された人物の名前と、分かる範囲の生没年。
Wikipediaとか調べればもっとわかりそうなんだけど、それが事実かどうか、私にはもう判定ができない。
ここは種村さんの言うとおりに書いてみる。


「はじめに 表層の人」

「贋エチオピア皇帝の訪れ 英国艦隊をコケにした悪漢ヴェア・コール」
ホレース・ド・ヴェア・コール(〜1936)

「バルムベックの王様 大盗賊団長アドルフ・ペーターセン」
アドルフ・ペーターセン(1882〜1933)

「ルーマニアの泥棒英雄 貴婦人総ナメのゲオルグ・マノレスコ」
ゲオルグ・マノレスコ(1871〜1911)

「モナ・リザ泥棒 無頼の王様アポリネール」
ギヨーム・アポリネール(1880〜1918)
ジェリ・ピエレ

「詐欺師の哲学 薔薇十字団大幹部カザノヴァ」
カザノヴァ・サンガール

「華やかな鉄仮面 女装の騎士デオン・ド・ボーモン」
デオン・ド・ボーモン(1728〜1810)

「大革命の時計師 国家陰謀の技師ボーマルシェ」
ピエール・オーギュスタン・カロン・ド・ボーマルシェ(1732〜1799)

「夢の機械魔術師 史上最大の魔術師ロベール-ウーダン」
ジャン-ウジェーヌ・ロベール(1805〜1871)

「悪魔博士の正体 オカルト怪人シュレンク=ノッチング」
アルベルト・フライヘル・フォン・シュレンク=ノッチング

「二十世紀に蘇る救世主 奇蹟かペテンか ブルーノ・グレーニング」
ブルーノ・グレーンコフスキー(1906〜1959)

「顔のない男 詐術と煽動のスーパー・カメレオン」
イグナツ・トレビッチ(1879〜1943)

「史上最大の贋金造り ポルトガル乗っ取りのアルヴェス・レイス」
アルヴェス・レイス(1896〜1955)

「詐欺師の楽園 トリックスターたちの肖像」

『詐欺師の楽園』種村季弘 白水社 1979年
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2014/7/27  9:55 | 投稿者: 時鳥

心底いい人だったんだろうなあ。
しみじみと思う。

渋谷区立松濤美術館で「藤井達吉の全貌」展を見た。
チラシには、「近代工芸の先駆者」とある。
明治時代の輸出を目的とした工芸から脱却し、新しい工芸を生み出そうとする動きが大正の初めに興った。富本憲吉やバーナード・リーチと共に、その流れの中にいたのが藤井達吉だったらしい。この人のことは、この展覧会で始めて知った。

会場には、大正初期から昭和20年代までの作品が展示されていた。
いい意味で素人臭い作品だ。
少し前に別の展覧会で明治時代の工芸品を見たけれど、あの超人的な職人芸に比べるとこの人の作品はちょっと手先の器用な人なら作れそうな感じがあるし、また、購入する客の側もお大尽や通人の類ではなく、市井の人が日常の中でちょっとだけ豊かな気持ちになりたくて買い求めていくもののように見える。
美術品として作品単体で末永く珍重されるような、いわゆる不朽の名作ではないけれど、時代の文脈や生育環境の中に置くとぴったり来る。
こういう文脈に頼るところの大きいものは、底流となる文脈が廃れたときに一旦その地位を失う。文脈の中にいる時、人は文脈を客観的に見ることは出来ない。その文脈を離れてしばらく経つと、ようやく人は客観的に見ることが出来るようになって、文脈を擬似的に再構成して、廃れたものたちをその中に置いて、再評価できるようになる。再構成と再評価が行われるまでの間、そのものたちは単なる「時代遅れの古臭いもの」で、最盛期にはもてはやされて大量生産されたものも、再評価までの間に多くが失われてしまう。
藤井達吉の作品と言うのはまさにそういうタイプの作品で、お盆ひとつからも大正の香りが生き生きと匂い立っている。
文脈の中で最も生気を得るけれど、単独で存在しても、全体の文脈を背後にうかがわせる。
大正の空間を再現したい人には宝物、しかし、それ以外の時代を再現したい人には邪魔者。だから、おそらく、ある時期には忘れられていたのではないかと思う。アメリカ最高、と老いも若きも叫んでいた時代には、こんなのは遺物で異物だったはずだ。

素人臭さがあるのは、この人が正式な美術教育を受けなかったからだろう。本人は美術学校に行きたかったのだけど、親の反対にあって果たせなかった。日本画、油彩画、彫刻、七宝、刺繍、染色、金工、陶芸などの作品が残っているが、基本的には独学である。
独学でこれだけ出来るってことは、相当に器用な人だったのだろう。手先を動かす分野なら、何をしても人並み以上に出来る。その代わり、突出して得意なものもないように見える。
美術学校で正規の教育を受けていたら、もしかしたら画家になっていたかもしれない。が、つまらない人になっていたんじゃないかとも思う。
作品や写真の印象からすると、根本的に素直で真面目で、人の期待に応えようと努力する人なんだろう。自分はあまり好きじゃない作品でも、人から請われれば再生産してしまう。自分の衝動で作品を生み出すのではなく、世のため人のために作っていた節が見受けられる。だから、学校では、先生の言うとおりに「ちゃんとした」絵を描きそうだ。野獣派とかキュービズムとか前衛とかには、絶対に走らない。
時代に即した清新さがありながら、抑制が効いていて狂気を持たない。
だから安心して自宅の居間に飾っておける。
隙があって素朴で、ありふれた美しいものを見つけて、その美しさを率直に写し取る。
誰にでも作れそうなところを馬鹿にして、真似しようとする人は何人もいただろうが、多分、成功した人はあんまりいない。
功利を離れた無欲さが味わいになっているから、下手に色気を出すと目も当てられないことになるのだ。
難しくないだけに、ごまかしが効かない。

渋谷区立松濤美術館(神泉)
「藤井達吉の全貌 野に咲く工芸 宙を見る絵画」
期:6/10〜7/27
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2014/7/26  8:04 | 投稿者: 時鳥

読んでいたアンソロジーに、中島敦の「文字禍」が収録されていた。久しぶりに読み直す。

舞台は古代オリエントのアッシリア帝国。
主人公の老博士は王命によって、文字の精霊についての研究を行っている。
博士は、最近に文字を覚えた人々を対象に聞き取り調査をするが、その結果は不思議なものだった。
文字を覚えてからというもの、人々の目は悪くなり、体調を崩す者が増えた。職人の腕は落ち、戦士は臆病に、そして何より、誰も彼もがすっかり物覚えが悪くなった。

文字の無かった昔、ピル・ナピシュチムの洪水以前には、歓びも智慧もみんな直接に人間の中にはいって来た。今は文字の薄被(ヴェイル)をかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない。近頃人々は物憶えが悪くなった。これも文字の精の悪戯である。人々は、もはや、書きとめておかなければ、何一つ憶えることが出来ない。着物を着るようになって、人間の皮膚が弱く醜くなった。乗物が発明されて、人々の脚が弱く醜くなった。文字が普及して、人々の頭は、もはや、働かなくなったのである。

この文章を読んだ時、携帯端末から片時も目を離さない現代人の姿が頭に浮かんだ。以前読んだ時には浮かばなかった連想である。
今では誰もが文字を読めるから、読み書きの習得と記憶力の関係についてはもうぴんと来ない。
ただし、近年で急激に普及したインターネットや携帯端末については、それ以前の時代をまだ覚えている。
それが出来る以前は、なくても普通に出来たことが、今ではそれなしでは出来なくなっている。
手帳を持たないで過ごしていた頃は日々の予定が頭に入っていたのに、持つようになってからは手帳なしでは今日どこで何をするのかもわからない。そして、手帳に書かなかった予定はないことになってしまう。
手帳を持つようになったおかげで、たくさんの予定をこなせるようになったという面はもちろんある。予定の量は確かに増えているが、それ以上に記憶力の減退が著しい。予定の記憶に使っていた部分を外の記憶に回しているのならいいのだけど、どうも、自分も他人も含めて、そうではないような気がする。外部委託して、使っているはずが、依存して、使われているような。
文字が普及した時にも、そう考える人はきっといたんだろう。

先に引用した文章に続いて、筋金入りの文字中毒者の様子が描写される。粘土板に手書きの時代だから、活字中毒ではない。
背中が曲がり、近眼で、鼻の先にはたこができ、日常生活には全く疎く、でも至極幸福そうに書物を読んでいる老人の姿だ。
町のあちこちで人々は、端末越しにこの世を眺めている。ホームの端にも、通行人にも気付かぬ風情で、熱心に。

また、別の部分では、若い歴史家が老博士にこんなことを尋ねている。
歴史とは、昔あった事柄をいうのであろうか、それとも、粘土板の文字をいうのであろうか、と。
博士は答える。
昔あった事柄で粘土板に記されたもののが歴史であり、この2つは同じことである、と。
書き漏らしを心配する歴史家を、博士はばっさりと切り捨てる。
書かれなかった事は無かった事なのだ、と。

文字の精共が、一度ある事柄を捉えて、これを己の姿で現すとなると、その事柄はもはや、不滅の生命を得るのじゃ。反対に、文字の精の力ある手に触れなかったものは、いかなるものも、その存在を失わねばならぬ。

思い切りのいい断定にあっけに取られるが、同時に納得する。
そう、文字は怖い。言葉がそもそも怖いけど、話し言葉はその場でほとんど消滅するからさほど怖くはない。しかし文字は、随分長いこと残り続ける。
インターネットに吐き出した言葉が検索エンジンに拾われた日には、世界規模で半永久的に残りかねない。

しばらく前に、忘れられる権利を求めて、Googleを相手に訴訟を起こした人がいた。
若気の至りの過ちが検索結果に表示されないよう要求して、勝訴となった。
その後、Googleには削除依頼が殺到したという話をニュースで読んだ。

そう考えると現代では、インターネットの検索エンジンこそが文字の精霊の元締めの一人、最も勢いのある親分なのかもしれない。
何かを知りたい人は、検索バーにキーワードを打ち込んで、ぽちっとボタンを押す。そうして出てきたものが実際に起きたこと、起きたかもしれないこと。その結果は膨大で、検索されなかったことは起きなかったことなのではないかと、錯覚してしまいそうになる。
この親分はリアルタイムで動いていることに強く、遠い過去の記録には弱い。
かの者の弱い方面では、長い歴史を持つ別の元締めが、大物小物含めてたくさんいて、それぞれの「起きたこと」を主張している。

この話は昭和17年に「山月記」と共に雑誌「文学界」に掲載された。
今回この話を読んだのは、『おろか者たち』というタイトルのアンソロジーにおいてだった。
愚かなのは、結局、誰だったのだろう。

『おろか者たち』松田哲夫・編 あすなろ書房 中学生までに読んでおきたい哲学4 2012年
「文字禍」中島敦
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2014/7/24  23:31 | 投稿者: 時鳥

手元にあるのは、冬白と玄。青ざめた冬の薄曇と、灰まじりの消し炭。
肉眼ではほとんど見えないが、ルーペで拡大すると胡椒の粉末ほどの小さな粒が所々に混じっているのが見て取れる。
雑誌古紙を使っているのだそうだ。
白、黒、茶を中心に、青、赤、緑、オリーブ、金、銀、紫。丹念に探せばたくさんの色が見つかる。
冬白では、黒っぽいのや茶色っぽいのが目立つ。玄で目立つのはもちろん、白っぽい粒だ。

玄は黒。黒は黒でも、この紙のそれはやや白けていて、黒い木綿のシャツを20回くらい洗濯した後の色に似ている。色あせて、くたびれて、着やすい。
褪せた黒の中に、かすかな白い粒がひっそりと紛れている。
染め残しのような粒子は、しかし、一旦、目に留めてしまえば、ひとつ、またひとつと見つかる。
目を凝らすほどにあらわれ、紙全体に星のように散りばめられていることに、いつしか気付く。
まるで都会の天体観測。
都会の夜空は地上の光で明るんで、星なんて見えないように思えるけど、ちゃんと見る気になって探せば案外と見つかるものだ。そりゃあ、絶海の孤島で見上げる満点の星空にはかなわないけれど、最初から諦めたり、絶望するには及ばない。

表と裏の手触りに大きな差はないが、裏の方が心持ち滑らかに感じられる。
特別に手触りのよい紙ではないけれど、健やかで気取りがなくてしっかりしていて、多少荒く扱っても大丈夫という安心感がある。
外側に出せるくらいしっかりしていて、一見無地に見えるくらい地味で、でもよく見ると味がある。

冬白は、うっすらと青灰色を帯びた白で、いつか映画で見た冬の霧を連想させる。
ヨーロッパの冬の街角を包む灰色だ。
空気は冷たくて、光は霧にばらばらにされて、どこから来ているのか一向にわからない。
薄明るい目隠しの向こうから、時々、建物だとか風景だとか、あるいは誰かだとかが不意打ちで現れる。
フィルムの微細な傷が、スクリーンの霧の中を絶え間なく浮遊する。羽虫のような影となって。

「グラフィーエコカラー」王子エフテックス|特殊紙|プレーン(色物・模様)|冬白、玄
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2014/7/23  21:41 | 投稿者: 時鳥

大量の紙見本に惹かれて、『デザインのひきだし22』を買う。
「プロなら知っておきたいデザイン・印刷・紙・加工の実践情報誌」だそうだ。
今号の特集は「紙」で、100枚以上の紙見本が綴じこまれている。
プロでもアマチュアでもないのだが、紙を眺めて撫でさすりしていると、そこはかとなく楽しい。

情報誌である以上、もちろん、紙に関する記事も沢山載っている。
その中に、製紙会社の人間や出版社の人間やグラフィックデザイナーによる座談会のページがあった。
書籍の本文用紙について、それぞれの立場から意見を述べていて、最近の直木賞、芥川賞、本屋大賞の候補作と受賞作とそこで使われている本文用紙のリストも掲載されている。
司会の人は、どの紙を使った本が賞を取るか毎回予測しているのだそうだ。で、その話を振られた出席者が当たり前のように答えて、座談会が進んでいく。
その視点はなかった。ある人にはあるのか。

本文用紙にも流行り廃りが結構あって、この10年くらいですっかり入れ替わったとのこと、同じ厚さでもずいぶん軽くなっているとのこと。
でも、長く続いているシリーズでは途中で紙を変えられず、ほとんどそこでしか使われない紙なんてのも出てくる。
「ソフト書籍」は、もう『しゃばけ』シリーズくらいでしか使っていないし、『海辺のカフカ』に使われた「MSレイド」も今はない紙なのだそうだ。

別のページには、2013年から2014年の4月にかけての廃銘柄・廃規格・廃色リストが載っていた。
廃銘柄の中に王子エフテックスの「アイリスボンド」を見つける。
あ、これ、『空の名前』の中表紙から目次にかけて使われている紙だ。
「IRIS BOND」って透かしが入っているのに最近気づいて、何だろう、と不思議に思っていたところだった。紙の名前だったのか。
まだあったのか。そして、なくなるのか。

光琳社出版の『空の名前』をお持ちの方がいらしたら、ちょっと透かしてみてください。
空に浮かぶ「IRIS BOND COTTON CONTENT」。
ちょっとびっくりするかもしれません。
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2014/7/21  22:55 | 投稿者: 時鳥

町を歩いていたら、ダイオウグソクムシと出くわした。
本物の生きたダイオウグソクムシである。
人生には、そういうことが時々起こる。

土曜日は朝から新宿近辺の博物館や美術館をはしごしていた。
その合間、少し時間の余裕があったので、コニカミノルタプラザにふらりと立ち寄った。
催しの内容を全く知らずにエレベーターを降りると、「超・深海展2014」の最中だった。
入り口で懐中電灯を借りて、ギャラリーに入る。
暗くした室内に曲がりくねった通路が設けられていて、深海の生き物の写真がそこかしこに展示されている。
深海の世界を写した写真を懐中電灯片手に見ると、深海ムードがいっそう高まる。
懐中電灯を返した先に水槽があって、その隅っこにうずくまっていたのがダイオウグソクムシだった。
あなたが、あの高名な。こんな街中にいらっしゃるとは思いもしませなんだ。
何となく、変な敬語になる。
ダイオウグソクムシは深海生物で、体長30cmくらいの節足動物。
巨大なダンゴムシっぽいものを想像すれば、まあ、外れてはいない。
台所にこれが出てきたら絶叫するが、水槽の中にいるのを見る分にはかわいいと言えない事もない。
しかし、これ、広く人気を獲得するような造形ではないよなあ。
世の中、何が人気になるかわからんものだ。
変な生き物を見慣れているから、個人的には全然平気だけど。
ぬいぐるみはかわいいし、じっくり見ていると得体の知れない謎に直面している感覚を覚えるけど。

チラシをもらうと、表面に大きくダイオウグソクムシの写真が載っていて、「ダイオウグソクムシにあえる!!!」という惹句が踊っていた。
感嘆符を3つも付けることなのか、やはり。

3つあるギャラリーのうち、2つが「超・深海」展、残りひとつは「月の神秘」展。
林完次さんの写真が美しい。

コニカミノルタプラザ(新宿)
ギャラリーA「月の神秘」
ギャラリーB・C「超・深海2014」
期:7/15〜8/10 10時半〜19時(無休)無料
※新宿区新宿3-26-11 新宿高野ビル4F
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2014/7/21  14:01 | 投稿者: 時鳥

『23分間の奇跡』を読んでいる間中、頭の中でツェルビネッタのアリアが流れていた。
全然違うのだけど、どうも同じことを言っている気がする。

『23分間の奇跡』は、ジェームズ・クラベルの書いた短いお話だ。
戦争に負けたらしい国があって、そこの小学校にある朝、新しい先生がやってくる。
子供たちは最初は元の先生を慕って、新しい先生を警戒していたが、最初の授業が終わる頃には、みんな新しい先生が大好きになって、いい子になろうと心に決める。
若くて優しい先生の最初の授業は23分間。

ツェルビネッタのアリアは、リヒャルト・シュトラウスの『ナクソス島のアリアドネ』というオペラに出てくる曲で、どうしても題を呼ばないといけない時は「偉大なる王女さま」とかで呼ぶけれど、大抵は「ツェルビネッタのあれ」で話が通る。
浮気な小娘のツェルビネッタが、婚約者に捨てられて孤島に置き去りにされた王女アリアドネを慰めるというか、揶揄するというか、ざんげするというか、自慢するというか、まあ、要するに、真実を教えてやる歌だ。
コロラトゥーラ・ソプラノの超絶技巧を要する難曲として名高い。

ツェルビネッタはこんなことを口にする。

まるで一人の神のようにどの男もやって来る。
その足音が私をだまらせる。
彼が私の額や頬に接吻すれば、私は神にとらえられ、全く変わってしまうのです。
まるで一人の神のようにどの男もやって来る、彼は私を全く変えてしまう、彼が私の額や頬に接吻すれば、それで私はだまってしまう!
新しい神がやってくると、それで私はだまってしまうのだった。

もちろん、彼女は男の人の話をしている。
でもこれ、23分間の授業を受けた子供たちに置き換えることが可能だと思う。
「男」を「体制」に変えるだけでいい。

ついでに、同じ曲の中でこんなことも言っている。

王女さま、おきき下さい。あなただけではありません。
私たち誰もが 女の心を凍らせるもの。
なやまなかった女が世にありましょうか。
すてられ、絶望し、置き去りにされる!
ああ、このような荒れた島は無数にあります。人間たちの間にも!
私自身もこのような島に何回も住んだことがあります。
でも男達を呪う気にはなれませんでした。

彼らはまことのない者です。
全く、ひどい!
短い一夜、あわただしい一日、空気の一揺れ、一寸した一瞥、こんなものが彼らの心を変えてしまうのです。
でも私たちはこのような残酷で、魅惑的で、予測できない変化に対して不死身ではないかしら?
まだ自分は一人の人のものだと思い、まだ自分の愛を確信しているのに、心の中にはしびれるように未知の自由がまじって来る。
ひそやかな新しい愛があつかましい感情をもって、しのび寄って来る。

私は真実であり、またいつわりでもある。
貞節であり、もう悪い女となる。
いつわりの目方ですべてが測られ、私は半分承知で、半分夢の中に彼を遂には裏切ってしまう。
彼を裏切りつつも彼を尚も愛している。

なんかもう、ここまで来るとどっちもどっちで、どっちを自分とみなすか、何を相手とみなすか、微妙なところなんだけど、彼女が一方的に被害者でないことだけはわかる。
最初に挙げた部分も、神が入れ代わり立ち代りで来る、とするか、ツェルビネッタがとっかえひっかえしている、とするかで見え方が変わる。
23分間も、同じなんだよ、多分。

『ナクソス島のアリアドネ』「偉大なる王女さま」
台本:フーゴ・フォン・ホフマンスタール 訳:渡辺護

『23分間の奇跡』ジェームズ・クラベル 集英社
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2014/7/20  23:13 | 投稿者: 時鳥

店の床に、赤いテープで「夫」と書いてあった。

なんだっけ、それ。
一瞬考え込む。

「¥」だった。

「夫」の反対が「¥」になるとは、なにやら趣き深い。
そうすると、「¥」と「羊」と「半」と「平」は仲間なのだな。きっと。
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2014/7/19  23:20 | 投稿者: 時鳥

羽化したばかりのセミに会った。
夜道を歩いていると、古いブロック塀の向こうから張り出した木の枝に、なにやら白いものが付いているのに気付いた。
よく見ると、セミだった。
茶褐色の幼虫の抜け殻に真っ白な成虫がつかまっている。風に吹かれて木の枝が揺れる。時々、足が動いてつかまりなおす。
淡い身体はどこかアンバランスだ。まだどこかが伸びきっていないのかもしれない。
両手に荷物を下げたまま、首が痛くなるまで見上げる。
いいものを見た。

セミやチョウのように、幼虫の期間に比べて成虫でいる期間が極端に短い生き物を見ると、人間は「かわいそうだ」と思う癖がある。若くして早死にするイメージを重ね合わせてしまいがちだ。
けれど、それは正しいんだろうか。
ひょっとしたら、セミやチョウにとっては、幼虫でいる間がコアタイムで、成虫になってからは余生かもしれない。

人間の場合、最も盛んに行動できる年代と繁殖を行える年代は大体一致している。大人になったばかり、一生で言うなら最初の3分の1か4分の1を過ぎた頃、まだ若者の時代だ。
だから、人間がその年代に達すると、「人生が本格的に始まった」と感じる。
セミやチョウの場合、繁殖行為を行えるのは成虫になってからだけど、それは一生の中で最晩年に相当する。
「あとは子供を残して死ぬだけだ」と感じるんじゃないだろうか。そうなると。
することはもう全部してしまって、後は死ぬしかない。その前に子孫を残そうとする。
セミとかチョウが羽化するのって、華やかな青春時代を迎えているんじゃなくて、死ぬ前に最後の一旗を揚げようとしているように、私には見える。

あるいは、1本の芝居を上演するまでの様子と結び付けてもいい。
たった1回の上演のために、少なくとも数ヶ月の準備期間が必要となる。
脚本を書いて、役者とスタッフを集めて、稽古をつけて、道具や背景を作って場所を借りて広告を打ってチケットを売って、その他もろもろの重要な事項、瑣末な事項をクリアして、数時間、舞台の上で芝居を、その場で消えてしまうものを上演する。
それは儚いものには違いないけど、でもそれを外から「かわいそう」とかのたまう事が許されるかと言ったら、そんなことは断じてない。
セミの成虫の1週間だって、そういうものなんじゃないだろうか。

1本の芝居を作る数ヶ月か数年の時間の中で、最大のハイライトとなるのはもちろん、本番の舞台を上演している数時間だろう。
しかし、本番以外の時間がすべて灰色で、苦しくて、何の楽しみもない時間だったということはないだろう。
分かったり、突き抜けたり、つながったり、世界が変わったりした瞬間があったはずで、それはそれで、本番とは違う意味でハイライトだったはずだ。
本番はどの芝居でもハイライトだけど、それ以外のハイライトの瞬間は、毎回毎回、準備のたびに違ってくる。
人生もきっと同じことで、多くの人が共通して迎えるハイライトは青春時代の頃にあるんだろうけど、それ以外に個別のハイライトがある。
若い頃に来る人もいれば、死ぬ一年前に来る人もいる。
早い人が偉いわけでも、遅い人が気の毒なわけでもない。
それはただ、違う。それだけのことだ。
また、類を見ないほど輝かしいハイライトを迎える人もいれば、そうでもない人もいる。
それだって、ただ違うという、本当にそれだけのことなのだ。
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2014/7/18  23:35 | 投稿者: 時鳥

悪いことがないのが当たり前だから、悪いことが起きると事件になる。
逆に言うと、美談が報じられるのは、それが普通は起きないからだ。
日々起きる無数の出来事の中から、珍しいものだけが事件になり、ニュースになる。
そう考えると、小さな悪いニュースが報じられるのは、よいニュースばかりが報じられるよりも随分ましなことなのかもしれない。
もちろん、被害に遭った側にはそんなこと、慰めにも何にもならないけど。
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2014/7/16  23:32 | 投稿者: 時鳥

降水確率の低い日が続いたので、掛け布団のカバーを洗濯した。
翌日の夜に取り込んで、元通り、カバーをかけなおそうとして気付いた。

これ、中身要らないような気がする。

布団の代わりに、掛け布団カバーを折り畳んだものをかけて寝てみた。
特に問題はなかった。
まだタオルケットを出していないのだが、タオルケットより薄くて涼しいし、すぐ洗えるしで、別にこのまま夏を越しても悪くない気がしてきた。

しかしこうなると、掛け布団と掛け布団カバーとの力関係が微妙なものとなる。
これまで、掛け布団が主でカバーは付属品だったのが、夏に限ってはカバーが主、布団が不用品となってしまう。カバーだけでは肌寒い季節になると、今度はカバーを補強するための付属品として、羽毛布団が再登場するのだ。
これまで自分の引き立て役だと思っていた相手に主役の座を奪われた羽毛布団の心中たるや、穏やかなものではないだろう。

間にタオルケットを挟んで、三つ巴を演じさせてもいい。
そうすると、気温が下がるにつれて、カバー、タオルケット、タオルケット+カバー、カバー+羽毛布団、カバー+羽毛布団+タオルケットと推移していくわけだ。
盛者必衰の理は、布団にすらある。
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2014/7/15  23:32 | 投稿者: 時鳥

空全体に雲が広がっている。
薄くはないが、厚くもない。言ってみれば春秋服の厚さだ。
鯖雲が厚くなって、一匹一匹の見分けがつきにくくなったような状態。
雲の厚さにむらがあり、薄くなった部分の向こうに青空が透けて見える。
雲の向こうから柔らかな光がさしていて、明るい。
くもりと言うには明るく軽やかで、晴れと言うには雲が多すぎてソフトフォーカス。
そんな空模様を写し取ったような紙だ。

表と裏でわずかに手触りが違う。
裏の方が平滑で、表の方はよく見ると自然な凹凸がある。字を書いたら良い感じにペン先が引っかかりそうだ。インクの乗りも良いことだろう。
漆喰の壁が真っ白で真っ平で、でも明るいところで見ると細かなざらつきがあって、陰影があって、清潔で無機質だけど圧迫感がない。
そんな感じのでこぼこだ。

連想するのは空と雲。
アトモスは全部で9色あるが、他の色ならともかく、このホワイトではほとんどそれ以外、連想できないくらいに雲との結びつきが強い。
アトモスとは、ギリシャ語で水蒸気のことを指す。
そう言われるとこの手触りには、ギリシャの白い石造りの建物らしき趣があるように思えなくもない、が、多分、それは、想像のしすぎと言うものだろう。
そんなに珍しい手触りでもない。

「アトモス」王子エフテックス|特殊紙|プレーン(色物・模様)|ホワイト
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2014/7/14  7:25 | 投稿者: 時鳥

夏休みの企画展がどさっと出る時期。

ICCの「ひらめきとはてなの工場」と東京都現代美術館の「ワンダフル・ワールド」は
両方似たような感じで、どちらも遊びにいく感覚で見られるはず。

「ミクロ・イヴェント 谷内恒子」は、サプライズ系パフォーマンス・アートみたい。
作家が毎日夕方に登場して、ウェイトレスや忍者やガングロを演じるのだそうな。
あのガラス作りのスタイリッシュな空間でやるんだ、それ。

国立公文書館は、今度は戦時中のグラフ誌で来た。
明るい生活を演出している雑誌だと思うから、それをこの館がどう切り出してくるか、とても楽しみ。

「戦後日本住宅伝説」は、建築の中でも戦後日本の住宅に特化。
建築家や時代による住宅観の違いを考えさせられるんじゃなかろうか。

「日本SF展・SFの国」は、去年からちらほらと見え隠れしていた展覧会。
監修者や協力者に錚々たる面子が並ぶ。
イベントも多数。ミュージアムグッズの豆本はちょっと見たい。

国立西洋美術館の「指輪」は、美しさ保証つき。
Bunkamuraザ・ミュージアムの「進化するだまし絵」もハズレはないだろう。
予想がつきすぎるのがつまんないと言えばつまんないけど。
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