2014/9/30  7:51 | 投稿者: 時鳥

ルールとは、何かを簡単にするためのもの。

ついさっき、頭に浮かんだ言葉。
このルールで何が単純になるのか、できれば、考えること。
誰にとって、何にとって、役に立つものなのか。
規則、規制、規定、決まり、掟、心得、律、規律、制度についても同様。
1

2014/9/29  22:41 | 投稿者: 時鳥

江戸時代の誰やらが書いた百人一首を見た。
冊子形式になっていて、1ページにつき6、7人の歌と作者名が手書きされている。
途中のページが見開きで展示されているのを眺める。

この人、馬鹿なのかしら。それともやる気がないのかしら。

そんな身も蓋もない感想が頭に浮かんだ。
1首を1行で書いて、横に作者名を添えているのだが、和歌を1行で収めるにはややスペースが足りないらしく、どの歌でも下の句は詰まり気味になっている。
展示されているからには字の下手な人ではないのだろう。しかし、だとしたら、素人目にも分かるこのバランスの悪さは何なのだろう。
それも、天智天皇や持統天皇や僧正遍照あたりならともかく、大弐三位でそのバランスなのだ。
これまで50首以上書いて来ているはずなのに、まだバランスがつかめないのだろうか。解せない。
現代日本の常識だと、それだけ書けば普通はそこそこのバランスで収まるようになる。
そういう常識がない時代だったのか、それともこの人個人に能力かやる気が欠如していたのか。
隣にあった別の人の百人一首は、1首2行でバランスが取れていたのに。
2

2014/9/28  23:28 | 投稿者: 時鳥

文化庁の実施した国語世論調査の結果についての記事を目にする。
造語の動詞についても調査していて、10個の動詞について聞いたこと、使ったことがあるかないかを尋ねていた。
調査対象は以下の10語。

お茶する
チンする
タクる
サボる
告る
ディスる
事故る
愚痴る
きょどる
パニクる

私自身は、どれも聞いたこと、読んだことはある。
使ったことがなさそうなのは「ディスる」くらいで、あとは使ったことがあると思う。
使ったことがある、と一言で言っても、単語によって温度差はかなりある。たとえば、「お茶する」と「タクる」では使用頻度が全然違う。「お茶する」は日常的に使うが、「タクる」はよほどの文脈がないと使わない。
この違いはどの辺りにあるのか。
境界線となるシチュエーションをいくつか考え出して、都度、どれを使ってどれを使わないかを考えてみた。

境界線1:自分の言動を話すときに使うか?
使う・・・お茶する、チンする、サボる、事故る、愚痴る、きょどる
使わない・・・タクる、告る、パニクる、ディスる
※「パニクる」は語彙として持っているけれど、むしろ「テンパる」の方が使う

境界線2:目上の人のいる場で、本人の言動を話す時に使うか?
使う・・・お茶する、チンする、愚痴る
使わない・・・サボる、タクる、告る、事故る、きょどる、パニクる、ディスる

境界線3:マーク付きの言葉という意識があるか?
ある・・・タクる、告る、きょどる、パニクる、ディスる
ない・・・お茶する、チンする、愚痴る
少しある・・・サボる、事故る

境界線3は、「特別なニュアンスをその言葉に感じるか?」ということ。
要するに、これが違いなんじゃないかと思う。
普通は「告白する」と言う所を「告る」にすると、含みが生まれる。
「告る」が似合う人なり、状況なりがそこにあることを予想させる。
「タクシーをつかまえる」と「タクる」も同様。
何かに間に合わせたくて必死になっている時、「タクシーをつかまえる」では悠長すぎる。
「タクっていいから、すぐ来い」と言われるからこそ、急ごうって気になるのだ。
あと、会話の相手や話の流れを見て、「愚痴をこぼす」より「愚痴る」の方が通じやすそうだって理由で短縮形のほうを選ぶ場合もある。
確かに、新しめの言葉で、あんまりフォーマルではない言葉たちだけど、それしか知らない訳ではなく、昔からあるフォーマルな言葉とは違う使い方をしている。
いわば、使い分けがされているのだから、使っていることを理由に「言葉の乱れ」とかに持ち込まれたら、それはそれでうっとうしいなあ、と思う。
古い言葉を守るばかりで新しい言葉を取り入れない事のほうが、言葉を衰退に導くと思うんだけど、そんなことないのだろうか。
新語・造語は言語を美しくするとは限らないけど、少なくとも豊かにはしている。

参考:
文化庁「国語に関する世論調査」(PDF)

1

2014/9/26  23:30 | 投稿者: 時鳥

六本木のAXISギャラリーで廣村正彰さんの個展を見た。
展示品の中に、時計があった。
時計と呼んでいいのかはわからないけど、とりあえず、そういうことにしておく。

百科事典くらいの大きな本が3冊、開かれた状態で、横一列に並べられている。
見開きには、右と左に数字が1つずつ書かれている。
よく見ると、本は紙ではなく樹脂でかたどられたもので、数字は見えないところに設けられたプロジェクターから投影されたものだった。
一番右の本は、ひっきりなしにページがめくられ続けていて、めくるたびに数字がプラス1されていく。59まで行くと0に戻る。同時に、真ん中の本のページが1つめくられる。
左の本が時、真ん中の本が分、右の本が秒を表しているのだ。

ページの隅に現れる人間の指先を、じっと見ていた。
眠れぬ夜の羊に似た催眠効果。
やがて、右側のページを右手でめくる時は、薬指を使っていることに気づいた。

帰宅してから、自分でも試してみた。
確かに、薬指でできるけど、中指でめくるほうが個人的には違和感がなかった。
がちがちの右利きだから、左側のページをめくる時は、右手の親指と人差し指を使う。
普段目立たない薬指が重要な役割を果たす場面をせっかく発見したと思ったのに、そうでもなかった。
本のページをめくるという簡単な動作でも、人によって微妙な違いがあるということがわかっただけでも収穫。
2

2014/9/26  0:47 | 投稿者: 時鳥

物心ついた時には、ピラミッド型の構造が世の中の大部分を占めていた。
けれど90年代以降、それが続々と崩れていって、フラットな、あるいは窪んだ構造が残された。

今になって、またピラミッドを目の前に示されて、ここまで登るとこんなご褒美がありますよ、と言われても、正直、ついて行くのは難しい。
もう、ご褒美がなくても何とかやっていけることに気づいてしまったし、そのピラミッドやご褒美がまた崩れない保証はない。

幻が滅びることを幻滅と言う。
窪んだ構造を幻と思う人は、ピラミッド型が戻るのを歓迎するのだろうが、ピラミッド構造こそが幻だったと思う人間にとっては、いまさら戻ってこられても困る。
窪んだ構造もピラミッド構造も、どちらも永久不変のものではなく、おそらくは、どちらも一過性の幻みたいなもので。人によってより実物らしいと感じる側が違う。
どっちも幻で、手がかりにも足がかりにもならないと考えるのは、真実かもしれない。が、しかし、あまりに身も蓋もなさすぎるから、とりあえず、どちらかを信じる振りをしている。
3

2014/9/25  7:37 | 投稿者: 時鳥

写真に撮ると、見た時とは違う風に写った。
ということはよくある。
一番多いのは、小さく見えるパターン。もっと大きく見えたのに、写真に撮ると意外に小さい。
くすんだり、薄っぺらくなったり、平坦になったりして、質感が変わってしまうのもよくあるし、動くものでは形が変わってしまったりもする。

眼が物を見る時、視野の中央にある物、注目した物は大きくはっきりと見せ、周辺にある物、注意を向けていないものは小さくぼかして見せる。足りない情報は補い、本当は見えていないものも見えたことにする。
視野の中央がどこにあって、何に注目するかは、ひとりひとりで違う。
だから同じ場所にいても、あの人とこの人とでは全然別のものが見えている。
同じ人でも、別の時には違うところに目が行くことがある。
だから同じものを見ても、新しい発見がある。

見えた通りに描きなさい、という指示を耳にしたこと、あるいは目にしたことがある。
発言者の意図は正確にはわからないが、もしこれが、写真のように描くことを求めているのだとしたら、それは指示として誤っている。
描き手は、見たいものを明瞭に大きく見て、見たくないものは見ない。
だから、指示した側には見えないものが画面に出てきたとしても、また、誰にでも見えるものが画面に出てこないとしても、全然違う色になったとしても、それは「見えた通り」なのだ。
もし、客観的で正確な絵を求めているのなら、「写真に撮ったみたいに描きなさい」と指示すべきだった。
写真みたいな絵を求めるのは別にいいが、求めるものを正確に指示していないのが問題。
1

2014/9/23  23:07 | 投稿者: 時鳥

東京藝術大学大学美術館で、鏡獅子の彫刻を見た。
作者は平櫛田中、モデルは六代目尾上菊五郎。
白い髪の獅子の精霊が見得を切った瞬間を、彩色木彫の像にしたものだ。
この像の本作は、半蔵門の国立劇場にある。高さ約2メートルの像は昭和33年に完成しているが、その時には菊五郎はこの世にない。完成までに22年かかっているのだ。
今回見たのは昭和15年に作られた試作で、高さ約60cm。本作をそのまま小さくしたような像で、衣装とかつらを身につけた菊五郎の像である。
会場には、試作品がもう1点展示されていた。こちらは昭和13年に作られたもので、褌一丁の菊五郎が同じポーズをとっている。
明治18(1885)年生まれの菊五郎は、当時50代初め。
中年期に入っているため、腹回りは多少重たげになっているものの、手足に浮き上がった筋肉の張りといい、隅々までみなぎる緊張感といい、実に素晴らしく、見惚れる。
加齢が成熟と結びつき、心身ともに充実した状態。何の予備知識なしに見ても、只者でないことが一目でわかる。
衣装をつけた像よりも、こちらの方がいい。
こんな迫力のある肢体を衣装で隠すのは惜しい。
見とれたまま、背面に回った。

あ。
気付いた。
この人、褌じゃない。これ、パンツだ。
そういう話をするためのものじゃないが、気付いちまったものは仕様がない。腹を括ってしっかり見る。
戦前に菊五郎が鏡獅子を踊るなら、下着は褌に決まっている、と、どこかで思い込んでいたようだ。
ブリーフ派だったらしい。
前開きがないタイプなので、お手水に行ったらちゃんと袴なりズボンなりを下ろさないと用を足せない。
下着の種類については、彫刻家が変えた可能性も一応、ある。
が、平櫛田中はそういうところで無駄な配慮はしなさそうだから、多分、本当にこれだったんだと思う。
褌のほうが筋肉がはっきり見えるから、もし褌だったなら平櫛田中はむしろ喜んで像にしたことだろう。
写生時に菊五郎が全裸だったら、流石に像にする時に下着を着せそうだけど、でも、その時は褌にするような気がする。

しかし、男の人が褌を締めていた時代って、お手洗いはどうしていたのだろう。
袴を脱いで、褌を解いてからおもむろに用を足して、逆の手順で身に付け直していたのだろうか。刀は外すと、どこかで読んだ覚えがあるが、それにしても手間がかかり過ぎではあるまいか。緊急事態もあろうものを。
それとも、横から簡単に引っ張り出せるものだったのだろうか。
なんかこう、深いところまで想像する意欲が今ひとつ湧かないので、あんまり追及しないことにするけど。
女の人の腰巻はその点、開くだけなので問題が少ない。
1

2014/9/22  23:35 | 投稿者: 時鳥

検索ウィンドウにぱっとキーワードを叩き込んで、ぱちっと検索して、検索結果の3件目から6件目くらいを開いて、いい感じの答えを見つける。
1件目は、広告や何やであんまり使えない情報であることが多い。

そうした検索は速くて便利で、その上、まあまあの確率で当たってもいる。全体的には決して悪くない。けれど、何となく不安が残る。
これは、情報の正しさに対する不安ではなくて、文脈が抜け落ちてしまったことに対する不安なんだと思う。
画像の中から、一番重要な数ピクセルだけを取り出して、残りを置いて来てしまったような。
お雑煮を研究するのに、餅と汁のことばかり調べているみたいな。
お雑煮で一番大事なのは確かに餅と汁で、餅の形や出汁の材料に比べれば、大根が青首か三浦か聖護院かとか、短冊切りかいちょう切りかとかは瑣末なことなんだけど、でも、価値がないわけじゃない。
2割の部分に8割の価値が集中していても、残り8割の部分が要らないことにはならない。
「検索機能」は大事なところをピンポイントで抜き出すけれど、でも、実際のものとか現象とかは、線だったり面だったり立体だったりする。
そうした周辺が抜け落ちて、いきなり真ん中に行ってしまうところに、いまだに慣れることができないでいる。

最初はおぼろげに見えているものが、掘り下げて、クローズアップすることで徐々に鮮明になる。
昔の調べ物は、そういうイメージだった。個人的には今も、その刷り込みから離れられていない。
しかし今の調べ物は、最初から鮮明に見えている。
その代わり、自分がどこに立っているのか、隣に何があるかはわからない。だから、分かるにつれてズームアウトしていく。
一番深いところに立つのは簡単で、むしろ、視点をぼやかすことの方が難しい。
地続きで踏み込んでいくのではなく、一足飛びで飛ばされて、急に見えすぎるから、しばしば戸惑ってうまく距離が取れない。
無論、これはこれでいいところも面白いところもあるのだけど。
3

2014/9/21  22:37 | 投稿者: 時鳥

歯を磨き損ねていたことに気付いた。
いつもいつも、磨き始めた途端、空腹を覚えるのだけど、一体、どんなメカニズムが働いているのだろう。
歯茎への刺激が何かの反応を起こすのだろうか。
あるいは、「磨いたら食べられない」という意識か無意識が、駆け込み需要のようなものを想起させるのか。
1

2014/9/20  23:42 | 投稿者: 時鳥

「スタッフ募集(中間でも可)」
床屋のガラス壁にそんな貼り紙があった。
「中間」ってなんだろう。
「仲間」の間違いか、チュウカン的な雇用形態が床屋業界にはあるのか。
まさか、チュウゲンってことはないと思うんだけど。
近世において武家に仕えた奉公人の一種で、主に雑役に従事した人たち。
見習いやアシスタントのことをチュウゲンと呼ぶ文化が残っているとか、そんなこと、ないよねえ?
1

2014/9/19  7:54 | 投稿者: 時鳥

前項、「お客様の満足」というタイトルが何か引っかかった。
どこかで聞いた気がする。

数時間後、思い至った。
『ボヌール・デ・ダム百貨店』か。
エミール・ゾラが1883年に発表した長編小説。
「ご婦人方の幸せ」という名前の百貨店が、ご婦人をはじめとする人々の欲望を煽りに煽って物を買わせるのだ。
従業員間の過酷な競争だの、周辺小売店の悲鳴だのを飲み込んで、百貨店はさらに巨大に膨れ上がる。
人間の欲望の力って、良くも悪くも凄い。

『ボヌール・デ・ダム百貨店』
『デパートを発明した夫婦』
1

2014/9/18  7:59 | 投稿者: 時鳥

乗り合わせた人の顔を見て、ふっと思う。
ファンデーションはしみやそばかすや吹き出物を隠し、しわや毛穴をはっきりさせる。
素肌を隠すと同時に、肌の状態をはっきりさせる。
化粧品は人を美しく装わせるけど、足りない部分をあらわにする役割も持っているのかもしれない。
キレイニナリマシタネ、デモ、ココガヨクナイデスネ。

ほとんどすべての商品は、人々を満足させるために存在する。
それが物であろうとサービスであろうと同じこと。
不満があるから満足が生まれる。
満足させるためには、まず、不満を持たせる必要がある。

街頭で、車内で、雑誌で、WEBで。
毎日毎日、大量の広告が眼に飛び込んでくる。
毎日毎日、駄目出しされている。
たびたびのご親切、いたみいります、おそれいります。
でももう結構です。
私は高飛び選手じゃありませんから、
そう、毎日毎日、バーを上げられても困ります。
3

2014/9/17  22:51 | 投稿者: 時鳥

もしもこの世を生きる人の3分の1がゾンビだったら。
という、おかしな仮定をしてみた。唐突に。
電車に乗ると、隣の人がゾンビ。隣人もゾンビ。

やだなあ、というのが最初の感想。
臭うし、触ったら手や服が汚れそうだし、移動するときにあれこれ落し物をして行きそうだし、言葉があんまり通じなさそうだし。
でもそれは、社会システムが今のまま、変わらなければ、の話である。
そのことに思い至る。

それだけゾンビがいれば、ゾンビ用トイレや汚物入れが街中に出来るだろうし、衣服や小物の類も販売されるだろうし、ゾンビ専用の飲食店や各種施設もできるかもしれない。
臭いはするだろうが、鼻なんてすぐに慣れる。
そして、そう考えると、ゾンビがいることを前提にした社会は、健康な成人、かっこ人間かっことじ、をすべての基準にした社会よりも、ずっと居心地がいいように思える。
ゾンビ用トイレはオストメイトにも対応しているだろうし、ゾンビ用の通行レーンは成人と同じスピードで移動できない人間にも、多分、役立つ。ゆっくり、わかりやすい言葉を選んで話すゾンビ向けの説明は、高齢者や子供や知的障害のある人にもわかりやすい。

使う側にとっては、システムは幅が広い方が使いやすいのだ。作って維持する側にとっては手間が掛かるけれど。
もっとも、社会がゾンビ対応するには、ゾンビに購買能力とか数の多さとか政治力とか社会への影響力とかの何かの力がないといけないわけだけど。
それがあるからこそ、既存の人間は「ゾンビ対応したほうが得だ」と考えて、行動するわけだ。
何もゾンビだけに限った話でなく、全般に。
欲得、小奇麗じゃないし、汚いことが多いけど、パワーだけはある。最終的に制御しきれないけど。
1

2014/9/16  22:40 | 投稿者: 時鳥

居酒屋の前を通りかかる。
店先に貼り出されていたメニューのひとつに、目が釘付けになった。

「コマネチ」

早足で歩き続けながらも、皿の如くに丸くなった目はその一行から離れず、首をめぐらせ、体をひねり、見えなくなるまで追い続ける。
十点盛りらしい。
4

2014/9/15  21:49 | 投稿者: 時鳥

紙って神様だ。
こういう展示を見ると、そのことを素直に信じられる。

多摩美術大学美術館で「東北のオカザリ 神宿りの紙飾り」展を見る。
東北地方では今も、正月が近づくと社殿や家屋の神棚を切り紙飾りで飾り立てる習慣があるのだそうだ。
紙飾りは神職が作り、社殿や家屋や、時には神楽を舞う舞台の上部を飾る。
そうした紙飾りと、紙飾りが飾られた場所の写真を中心に、郷土人形や民具、古布なども展示する展覧会だった。

真っ白い無垢な紙に切り込みを入れ、開く。形を整えて立たせる。
それだけで、そこに神様が出現する。
八百万の神の一人が姿を現し、この先に悪いものは通さない、と宣言する。
ただの紙である。ただの紙なのだけど、それがあるのとないのとでは、空間がまったく変わってしまうのだ。
網飾りや切り透かしと呼ばれる紙飾りでもそれは同じで、七夕の笹に吊るす折り紙の網細工をもっと繊細に、複雑に、美しくしたような網飾りが天井近くから下がっていると、それでもう、祝祭空間が現れる。
清められた空間が、誰かを歓待している。新年かもしれないし、歳神か、神様か、ご先祖様か、精霊の類か、あるいは正月客かもしれない。
誰なのかはわからないが、歓待して、そこにしばらく留まってもらいたがっているのはわかる。写真だろうが、本来の場ではない展示室に飾られたものだろうが、それくらいはわかる。
白い紙の一体どこに、こんな力が潜んでいるのか。
ほとんど慄然とする。

紙飾りは、神職者が仕事のひとつとしてつくるものだ。
だから、技術的には特別難しくはない。
展開図を示されて、こことここを切って、開いて、と指示されれば、子供でも作れるようなものだ。
でもこれは、子供の遊びやワークショップにしてはいけないものなんだと思う。
ただの想像なんだけど、これらの紙に力を与えているのは、多分、信仰というものだ。
私は紙飾りのない地域に生まれ育って、この紙飾りの背後にある信仰を共有していないけれど、それでも畏れ多さを覚えるのは、この紙飾りを心底から信じて、作っている人がいるからだろう。
静かな部屋で、ガラスを通さずに実物と向かい合っていると、ただの紙細工とはだんだん思えなくなってくる。
子供の頃、床の間の隅っこに貼られた一陽来復のお札が何故か怖かった。
そのことを思い出す。
2




AutoPage最新お知らせ