2014/10/30  23:28 | 投稿者: 時鳥

その公衆トイレの個室のドアは、当たり前のように内開きだった。
ドアの、通路に面した側、ほぼ目の高さに、「使用中」と書かれた小さなプレートが打ち付けてあるのに気づいて、軽く戸惑う。
このプレートが見えるってことはドアが閉まっているってことで、ドアが閉まっているってことは中に誰かがいるってことで、誰かが中にいるってことは使用中ってことで、だから、このプレートが言っている事は完全に正しいのだけど、でも、どこか妙。
そこに至るまでの状況で既に自明の事をわざわざ、ことさらに言及されると、逆に常識が揺さぶられて、勘ぐってしまう。
お昼のお弁当箱に「昼食」って書かれていると、食べようとしている今が昼食に該当する時間帯なのか、とか、自分にとっては今日何食目の食事なのか、とか、この後の夕食は何時ごろに食べる予定なのか、つい考えてしまうのと同じ。

そういえば、公衆トイレのドアが外に開くのって、見た記憶がない。
反対に家庭用トイレは外開きが多い。理由は大体、想像がつく。
たった今、気づいた、小さなこと。
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2014/10/29  7:29 | 投稿者: 時鳥

1910年1月、セーヌ川が氾濫してパリが水没した折のニュース映像を見た。
道路が浅瀬のようになり、深いところでは、馬の膝より上までが水に漬かる。
あっちからこっちへ移動するのにボートを使い、数人が乗ったボートを男の人が一人でひいている場面もあった。
それだけ人が乗ると、水深がなければ船底が地面についてしまう。ボートをひく男性はすねまで水に漬かっているように見えたから、多分、20cmくらいの深さはある。
その割に、人々に危機感とか切迫感が感じられないところが不思議だ。
避難している感じもないのだけど、大丈夫なものなのだろうか。
石造りの街はその辺り、強いのか?
1月なんて厳寒の最中だろうに、あんまり寒そうな様子を見せていないのも不思議。

「セーヌ川の氾濫」1910年 4:07 製作:Eclipse 配給:Lobster Films
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2014/10/29  7:05 | 投稿者: 時鳥

「翼をさずける」がうたい文句の清涼飲料水、レッドブルを飲んだけれど、翼が生えなかった、と裁判所に訴えた人があった。虚偽広告についての裁判になって、最終的には賠償金で和解した。
そんな事件があったことを、ふと思い出す。

でもこの人たち、生えたら生えたで文句を言うんじゃないかしら。
危険性についての説明がわかりにくい、とかで。
これまで持っていた服が着られなくなるし、リュックサックも背負えなくなるし、日常生活にいろいろ支障をきたす。
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2014/10/28  12:37 | 投稿者: 時鳥

朝まだき。
窓の外からカラスの鳴く声が聞こえた。
眠りから強引に身を引き剥がし、布団の中で「なんですって」とつぶやいた。
今、あんた、コアラって鳴いてなかった?
少しの間、耳を澄ましたが、同じ声はもう聞こえてこなかった。

この場合の論点は2つ。
その1。カラスは本当に「コアラ」と鳴いたか。
その2。カラスが「コアラ」と鳴いたとして、そのことが無理やり目覚めるほどの理由に、果たしてなりうるのか。
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2014/10/27  23:16 | 投稿者: 時鳥

具体的に誰かがどうかしたわけではない、とか書いた翌日に、赤瀬川原平さんの訃報を受け取る。
町田の展覧会は始まったばかり、千葉の展覧会は始まる直前。
いきなりの訃報だけど、今となっては思い当たる節がなくもない。
千葉と町田で同時に展覧会が開催されて、しかも、数々のイベントの中に赤瀬川さん本人が顔を出す様子がない。
人前に出るのが苦手な人でもないから、出られないのだろうとは思っていた。
まさか亡くなられるとまでは思っていなかった。
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2014/10/26  23:35 | 投稿者: 時鳥

どんな風に生きて、どんな風に死んだかも分かっていない人に対して、いきなり、「死んだ先で幸せになってね」とは言えない。
あまりにも不本意または理不尽な死だったら、恨んだり祟ったりするのも道理。良くはないが、まあ、仕方がない。理の当然、不可抗力というものだ。
生きている側としては、それくらい甘受しないといけないのではなかろうか。

というようなことをごちゃごちゃ考えるから、訃報を受け取った瞬間にご冥福をお祈りすることがなかなかできなくて、しばしばタイミングを逃す。
生きている時、非常に不幸だった人が、死んだ瞬間に意識を切り替えて幸福を志向するのって、難しいと思う。
人間、一般的に、過去にはとらわれるものだから。やっぱり。

具体的に誰かがどうかしたわけではない、今日だから書けること。
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2014/10/26  0:05 | 投稿者: 時鳥

マスカーニのオペラ「友人フリッツ」を見る。
マスカーニといえば、作曲コンクールの受賞作でデビュー作の「カヴァレリア・ルスティカーナ」が圧倒的に有名で、この曲だけは今でも世界中で上演され続けている。間奏曲にいたっては、CMにも映画にも頻出する。
しかし、それ以外の作品は今やほとんど上演されず、比較的有名な部類に入る「友人フリッツ」でさえ、その中の1曲である「さくらんぼの二重唱」が時々、ガラコンサートで歌われたり、CDに収録されたりする程度だ。
そういう演目が全曲上演されるというので、聞きに行った。

アルザス地方を舞台に、裕福な独身主義者の四十男と使用人の娘である純朴な少女とがお互いに真面目な好意を抱いて、地道に距離を詰めて、誤解して、こじれて、ハッピーエンド。
ものすごく簡潔に要約すると、そんな話だ。
悪くはない。駄目でもない。初演は好評をもって受け入れられたそうだが、それも頷ける。筋が陳腐な割に音楽がよくて、まず佳作と言っていい作品だ。
しかし、100年残るオペラではない。
「得意分野でなくても、こんな他愛のない話でも、これくらいのものは書けるんですよ」
マスカーニがそう言っているのが聞こえてくるような気がした。
適度な土臭さと感傷と生真面目が交じり合って、マスカーニらしい音楽になっている。筋が薄っぺらいのも、イタリアオペラならこれくらいありだ。
しかし、台本が消化し切れていない感じはあるし、何よりも、マスカーニの音楽を最大限に引き立てる題材ではない。
作曲家としての力量を同世代の人間に示すことが目的なら、この作品は成功だっただろう。
作曲家20代の作品なので、先々の可能性を広げるためのチャレンジとしても、これはありだ。
でも、もし100年先まで残る作品を書くことを目的としていたのなら、これは失敗だったと思う。
「カヴァレリア・ルスティカーナ」にあった毒や狂気がこの作品からは抜け落ちている。及第点には達しているのだけど、観客にもう一度見たいと思わせる個性や輝きがない。
苦手を克服するタイプの作品、新境地の作品は同時代には受けがいいのだけど、歳月の波に洗われるうち、かすれて消えてしまう。結局残るのは、得意技を臆面なく投入した作品ばかりだ。
マスカーニの場合、得意技で攻めたデビュー作が予想外に大当たりしすぎたために、得意技とは違う道を模索しに行ってしまったのかもしれない。
だとすると、あんまり若くして、いきなり成功するのも善し悪しだなあ、と思う。

ピエトロ・マスカーニは1863年生まれで「カヴァレリア・ルスティカーナ」でデビューしたのが1890年、2作目の「友人フリッツ」は1891年に初演で、生涯に16本のオペラを残して、1945年に死去した。
オペラの時代のほとんど最後に生まれた人なのだけど、もしあと50年遅く生まれていたら、映画音楽の分野で天下を獲っていたかもしれない。
色彩感と情感があって、悪目立ちはせず、足も引っ張らず、常に安定している。
映画監督にも映画の観客にもさぞかし愛されたことだろう。
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2014/10/24  23:53 | 投稿者: 時鳥

寝入りばなに腹の虫が鳴いて、目が覚めた。

こんなに腹の虫がうるさいんじゃ、わたし、忍者にはなれないや。

半分寝ているので、いつも以上に発想がおかしい。

潜んでいた人物がくしゃみをしたり何かを踏んだりして、物音を立てたがために、相手に気づかれてしまう場面というのが物語にはよくある。
しかし、腹の虫が鳴いたがために気づかれた例というのは、寡聞にして見聞きしたためしがない。
腹の鳴る音って本人にはほぼ制御不可能で、かつ、人に聞こえることが日常生活でも結構ある。
それで感づかれるスパイや忍者がいたっておかしくないと思うんだけど、どうしてないんだろう。適性検査の段階ではじかれているのだろうか。腹の虫の音が大きすぎるから不合格、とか。
個性的なくしゃみをする人もスパイ試験では不合格になるんだろうな、きっと。
変装していても、くしゃみをした瞬間に気づかれる。
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2014/10/22  23:01 | 投稿者: 時鳥

こんな講座を見つけた。(第二夜)

横浜市歴史博物館の「大おにぎり」展関連企画。

「実験!古代のご飯を食べよう」
大塚歳勝土遺跡公園(センター北)
期:10/13,11/2,11/23 11時半頃〜
☆参加費無料、予約不要、先着順。
会場は博物館のすぐ隣にある遺跡公園で、
多分、竪穴式住居のある広場でご飯を炊いて
振舞うんだと思う。

「土器の圧痕レプリカ体験」
横浜市歴史博物館研修室
期:11/3 10時〜14時
☆参加費100円、予約不要

「土器を食べちゃえ!」
横浜市歴史博物館休憩室
期:11/3 13時〜
☆先着順。土器片そっくりなクッキーが食べられる。
製作は、お菓子作り考古学者の下島綾美さん。

以下は要予約だったり、申込期限を過ぎていたり。

「古墳時代のお弁当箱を作ろう」
横浜市歴史博物館研修室
期:10/26,11/16 9時半〜16時
☆講師は、バスケタリー作家の高宮紀子さん

「関連遺跡散歩 横浜のおにぎり関連遺跡を歩く」
期:10/22,11/5 13時半〜16時半
☆10月は横浜市南部、11月は横浜市北部を訪ねる。

「登呂遺跡でおにぎりを食べる旅」
期:11/19
☆博物館学芸員とゆく日帰りバスツアー



館の熱意が伝わってくるような素晴らしい企画が大集合。
発想力もさることながら、これを実現してしまうところが偉い。
面白そうなことを素直にやってみるのって、案外難しいから。
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2014/10/21  23:45 | 投稿者: 時鳥

江東区の砂町は、昔は砂村と呼ばれていた。砂村さんという人が拓いた土地だったからだ。町制改革の際に砂村は勝手に砂町にされてしまったけれど、本当なら砂村町にするのが正しい。
と言う主旨の文章を読んだ。
確かにそうだけど、砂村が砂町になるのだって、それはそれで理に適っているような気がする。
砂村さんは、砂のある村の人だから砂村と名乗ったのだろう。
なら、その村に人が増えて町になったら、砂村さんは砂町さんと改名してもおかしくはない。砂村さんが砂町さんになって、砂村さんの拓いた土地は砂町になる。それは理屈としてはありだ。
そうでありながら、現実に改名する人が少ない、というか、ほとんどいないのは、最初は住んでいる場所を示していた名前が、だんだん、名乗る本人をあらわすようになるからだ。
だから、海辺を離れて山の中に住んでも砂町さんは砂町さんだし、平地に引っ越しても高山さんは高山さんだ。

住んでいる場所や職業にちなんだ苗字は多い。生まれた季節や外見にちなんだ名前も多い。こんな大人になって欲しいという周囲の希望を反映した名前はもっと多い。
ほとんどすべての名付けは、その人の外側にあるものを借りて行われる。
いわば、外側から貼られたラベルだ。
最初は外側から貼られた、他者が自分の都合で割り当てた名前が、日を追うごとにその人自身のものになる。外側から貼ったラベルが内側に取り込まれて、外側がなくなっても内側が残り続ける。
名前が一人歩きする。
名前が誰かのものになる、その境界は、一体どのあたりにあるのだろう。

山の中に住む砂町さんは、由来となった場所を離れても、人の名前が生き続ける例だけど、逆に、由来となった人を離れても、場所の名前が生き続ける例もありえる。砂町はその例と考えることもできる。
最初の意味を離れて、別の意味が付与されたり、伸びたり縮んだりゆがんだり転がったりする。
最初の意味に立脚し続けようとするならそれらは間違いなんだけど、場所も人も生きていて、名前も言葉も生きているから、変わることはある。
あとは流れの問題で、タイミング次第で留める方向にも、変わる方向にも向かい得る。
2

2014/10/20  23:00 | 投稿者: 時鳥

地の紙は、ほんのわずか色付いている。色味が薄すぎてよくわからないが、多分、クリーム色系だと思う。あまり温かみがなく、青や灰色が混じっているように見える。
そこに、色のついた粉末がふんだんに混ぜ込まれている。粉末の色は茶色。紅茶かチョコレートのような濃い茶色。粉末はずいぶん粒子が細かくて、粗挽き胡椒より細かく、テーブルコショーよりやや粗い。
裏表ともに平坦で、目立った表面加工は為されていない。真面目と言うほど堅苦しくもなく、適度にラフ。実直で、坦々とした印象の紙である。見てすぐ、サンドカラーとわかる特徴のある見た目をしているけど、自己主張は激しくない。
万事控えめで、脇役の面持ちをしている。しかし、脇役は脇役でも、舞台の要となる重要な役を演じる脇役だ。ひとつの大舞台で主役を演じて、中央で喝采を浴びる役者ではなく、あちらこちらの舞台に違うタイプの役で立って、どの舞台でも不満を抱かせない役者。安定感は群を抜いていて、この人に任せておけば何の問題もない。
目立たないけれど相当の実力者。能ある鷹は爪を隠す型の人材。食材にたとえるなら根菜類。根っこの部分から来る力があるから、派手なスタンドプレーに走る必要を感じていない。あえて平凡でいられる。
書籍に使うなら、見返しはもちろん、扉にも表紙にも違和感なく使える。タイトルや著者名をしっかり引き立てて、味わいを加えてくれるに違いない。
本のジャンルとしては、渋くて軽やかな随筆なんかが似合うと思う。鹿爪らしいところにふっと力の抜けたおかしみが混じっている感じが、紙の表情としてすでにある。
おとなしく地味でありながら、独特の個性がある紙で、名脇役としていろいろな場面で使われていそうである。

「OKサンドカラー」王子エフテックス|特殊紙|ブレンド|ホワイト
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2014/10/19  23:01 | 投稿者: 時鳥

こんな講座を見つけた。(夢十夜風に)

「ヨガで体験!北斎漫画!」
横浜市民ギャラリーあざみ野(あざみ野)
11/15 15時半〜18時

横浜市民ギャラリーあざみ野では、「あざみ野カレッジ」と銘打って、月に1回、各種講座を開いている。
その来月の授業がこれ。
11月4日までに申し込みフォームか、往復はがきか、直接雷管で申し込み。
定員30名、応募多数の場合抽選。
受講料500円、初回はカレッジの学生証発行のため、手数料500円も必要。
先生は、コンテンポラリーダンサーでヨガインストラクターのオカザキ恭和さんと、すみだ北斎美術館の開館準備をしている学芸員の五味和之さん。

たしかに、北斎漫画の人々は妙に体が柔らかくって、ヨガっぽい。
しかし、本当に「北斎ヨガ」が生まれるとは思わなかった。
っていうか、北斎に限らず、浮世絵に出てくる人は大抵体が柔らかいと思う。
江戸時代の人は皆、ヨガでもやってたんだろうか。
何をしているとこんなに体が柔らかい人ばかりになるのだろう。
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2014/10/19  9:45 | 投稿者: 時鳥

楔形文字を刻んだ粘土板文書を見かける。
キャラメルよりちょっと大きいくらいの四角い粘土には、表面にびっちりと楔形文字が刻まれている。線と線との間が限界まで詰まっていて、一分の隙も、本当に0.3mmの隙もない。
日本語に訳したのを見ると、100文字を超えているものが珍しくない。
ということは、ツイッターの投稿くらいはあるわけだ。1キャラメルで1ツイート。
こうした文書は、専門職の書記が書いていたそうだ。
彼らが仕事をしている場面を想像すると、どうも、作業的には陶工に近いような気がする。
今の感覚では書記は知的労働者のひとつと考えられるけど、当時の感覚では、もしかしたら職人に近かったのかもしれない。
頭がよくても、手先が器用でないとなれない職業。
刻むべき内容を考えるのは別の人で、書記は提示された言葉を、粘土板に合うフォーマットに置き換えて刻む。
その意味で、タイピストに近い。これも今は絶滅しかかった職業だけど。
今も現役の職業なら、CADオペレーターなんて近いかもしれない。
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2014/10/18  10:59 | 投稿者: 時鳥

黒いスクリーンに白い描線が生まれる。生まれた先から、線のふちに虹色の影がさす。まるでいのちの片鱗のように。
水滴が葉っぱの上を転がる。とがった葉先から転げ落ちる。地面につく前に足が生え、蜘蛛に変じる。背中がつややかに光る。
蜘蛛の巣。放射状に広がる縦糸を、横糸が丸くつなぐ。縦糸と横糸の作るます目の中で、鮮やかな色彩がはぜる。小玉を連ねた打ち上げ花火のように、とりどりに輝く。
その巣の上を、バッタが横切る。大きく跳躍すると、胴が変形し、羽が生え、トンボに変じる。

自宅でDVD、移動中にネット動画、街を歩けば動画の広告、有料無料を問わず映像はあふれている。
いつでもどこでも映像が身軽に見られる時代だけど、それでも、暗闇で、大きなスクリーンの前で、見るべき作品と言うものが確かに存在する。鈴木隼吾さんの「Garden」は、まさしくそんな作品のひとつだ。
3分少々の短編アニメーションは全編、黒背景で構成される。
黒いスクリーンに小さな生き物たちが虹色の影をまとって現れる。どれもこれも、庭先で見られるようなありふれた生き物達だ。
虫が動くと、影も揺らめく。花は発射の勢いで開き、虫たちは自在に別の生き物へと変転する。淀みなく、生命は流れる。
影は生気。すべての生き物が持つ精気。生命力そのものが目に見える形で現れたもの。
暗闇の中で目を凝らす。スクリーンと暗闇の間に継ぎ目はなく、私のいるここと、スクリーンの中とは連続している。
だから。私のいるこの世界でも、花はこんなで虫はこんなかも知れない。本当は。見えていないだけで。気付いていないだけで。
転がったリンゴはテントウムシになって這い、渦巻く色彩をまとったダンゴムシはぐるぐる回って宙に飛び上がる。カブトムシとクワガタムシは威容を競って、じゃんけんのように変化する。
遥けきものを感じさせる音楽は、烏田晴奈さんによるもの。
小さな青虫が1匹、きょろきょろしている。音楽が息をひそめて見守る。後ろに揺らめくカマキリの影。青虫は枝をよじ登り、蛹になる。蛹の見る夢のような小さなハートがふくらんで、羽になる。羽化。何になるか、羽化してから決めているかのように、羽の色が形が、めまぐるしく変容する。活力に満ちて、荘厳で、曼荼羅や教会のステンドグラスや仏像の光背を連想させる。柔らかく、響いて、音が広がる。
光りつつ、蛍が一匹飛んでくる。それを包む手のひら。光が隠れる。消えてはいない。
見えなくても、気付かなくても、本当はいつだってそこにある。確実に。絶対に。
開いた手のひらから蛍が飛び立つ。弧を描いて闇の彼方に消える。
きっと今も、世界のどこかで光っている。

「Garden」鈴木隼吾 3:07/2012年
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2014/10/16  23:50 | 投稿者: 時鳥

コニカミノルタプラザで、短編アニメーション作品を15本ばかり見る。
いずれも多摩美術大学グラフィックデザイン学科の在学生や卒業生の作品で、作品の上映のほか、絵コンテや原画などの展示も行っている。
卒業生の作品は全部で10本、5本ずつまとめられて、ギャラリー奥の2つのスクリーンで繰り返し上映されていた。在学生の作品8本はイベントスペースでの上映。最長でも9分に満たない作品すべてを、一通り見て、特に気に入ったのは3回見た。
「特に気に入った」以外の「かなり気に入った」作品について、まとめて感想。

「ようこそぼくです選」姫田真武 6:18/2012〜2013年
この人のこのシリーズは、今年の2月に国立新美術館でも見た。
文化庁メディア芸術祭の受賞作品展に出ていたのだ。
その時にも、ひざの力が抜けそうになったが、今回見てもやっぱり、脱力感を覚えつつ笑ってしまった。
本人が作詞作曲した歌に合わせて、登場人物が動いて踊る。時には本人も登場する。
その歌が、もう、小学生男子が学校の帰り道にでたらめの歌を歌っているみたいな輝きに満ちているのだ。
ペーパードライバーで右折も左折もできないから、まっすぐな道を自分で作って、家族一族郎党近所の人々、まとめて乗っけて猛スピードで走り出すと、スピード出しすぎで全員吹っ飛んで、自分の着ている服が脱げ、髪の毛も吹っ飛んで、気がついたら裸で運転してました、なんてことを楽しげに歌いつつ、動画にする。
失礼を恐れずに言うならば、初めて見た時、「だいじょうぶかなあ、この人」と思った。本当のことを言うならば、実は今でも思っている。
くだらない。実に馬鹿馬鹿しい。だが、そこがいい。
マーカーで殴り書きしたような描線、思い切りのいい色彩が生き生きしていて、とても楽しい。
「タコスチュームでおどりませんか」、「クルマごっこ」、「自分さがしごっこ」の3編。会場では、選集のDVDが販売されていた。
幼稚園の男の子のいる家にいいかも。

「祝典とコラール」中内友紀恵 5:10/2012年
ニール・ダ・ポンテ作曲の打楽器六重奏を映像化した作品。
具体的なストーリーらしいものはなく、音から生まれたイメージが自由に飛び回る。
音楽を聞いている時、ふと、映像の断片が見えることは珍しくないが、最初から最後までを自分のものとしてイメージ化するのは難しい。
清潔感があって、愛らしい感じの絵だが、甘くはない。
主人公らしい女の子は常に一人で旅していて、乾いた哀しさや覚悟のようなものがあるように見える。

「Sun Rise & Set」木村元 8:10/2014年
夜から夜明けに向かう話と、夕暮れから夜に向かう作品の2本立て。
逃げ出した赤いマフラーを追う、夕暮れの話が大変印象深い。
少年は、自転車を全力疾走させてマフラーを追いかける。捕まえようとする指先をすりぬけて、マフラーが逃げる。
少年は街を走り抜ける。その傍らのショーウィンドウから、街路樹から、人々の持ち物から、街中のありとあらゆるものから、次々に赤が逃げ出す。すべての赤が同じ方向に、まっしぐらに逃げていく。
そうか、夕暮れって、こういうことだったんだ。

「夢かもしれない話」朴美玲 5:00/2014年
不機嫌な顔つきの爺さんが自宅を出たところに、トラックが突っ込んでくる。
気がつくと、目の前には大きなカエルがいた。
カエルの後についていった爺さんは、これまでの人生の重要な場面にもう一度立ち会うことになる。
センチメンタルになりやすい題材だが、セピア色でまとめられた画面はすっきりとシャープ。
とはいえ、ブラックでもない。グレーのスーツみたいに、ぴしりとした感触の作品。

「ヤングクリエイターズ・アニメーション featuring 多摩美術大学グラフィックデザイン学科」
コニカミノルタプラザ ギャラリーB&C(新宿)
期:9/30〜10/20 10時半〜19時
※新宿区新宿3-26-11 新宿高野ビル4F
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