2015/11/30  23:15 | 投稿者: 時鳥

一休さんの書いた三通の手紙に対して抱いた第一印象を、簡単に記録。

・教え諭す手紙
上から下まで同じ大きさの文字がまっすぐ並んでいる。
筆跡に揺れがなくて、墨の濃さも均等で、折り目正しい。
説教をしているみたい、と思ったら、その通り、弟子に宛てた手紙だった。
(遺戒)

・礼状
友達、とまでは行かなくても、ある程度親しい人に宛てた手紙。
文字が適度にくつろいでいて、といって、完全に崩れてもいない。
この相手ならここまでは大丈夫、と見極めて崩している。

法堂再興のために寄進をしてくれた人に宛てたお礼の手紙だそうだ。
完全なビジネスレターではなく、多少、私信も混じっている感じ。
(法堂再興書状 四郎左衛門宛)

・遊ぶ手紙
たっぷりと余白を取って、濃く薄く、大きく小さく、流れるように筆を運んでいる。
散らし書きにした文字は、内容を読まなくても、ただ見るだけで目に快い。
風流な手紙だろうか。
趣味を解する相手に宛てた、遊びの心に満ちた手紙だ。
(仮名消息)
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2015/11/29  23:15 | 投稿者: 時鳥

今すぐわかってくれなくてもいい。
数年経ってから、「ああ、あれはこういうことだったのか」と腑に落ちてくれればいい。

そう言っているみたいな書があった。
一休展でのことである。
解説パネルには「遺偈(辞世頌)」とあった。
遺言みたいなもので、弟子たちに残した最後の教えと言うか覚悟みたいなものらしい。
第一印象と内容の相違のなさに驚く。
600年以上後の、一面識もない私にさえわかるくらいだから、弟子たちには一目瞭然だったろう。
短い書だから、丸暗記して、ことあるごとに「あれはどういう意味だったんだろう?」と考え続ける。自分は正しい方向に進めているのか、その度に自問する。
老僧が死ぬ間際、弟子や後に続く者たちに出した最後の宿題。
読むのは数分、影響は数年から数十年、もしかしたら未だに有効。
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2015/11/28  23:45 | 投稿者: 時鳥

五島美術館に「一休 とんち小僧の正体」展を見に行く。
室町時代の禅僧、一休宗純が、江戸時代以降の本や浮世絵によってイメージを膨らまされていく。
その流れもおもしろいのだけど、今回は一休本人の書の話。

一休の書は、たくさん遺されている。
他人が描いた絵に付けた画賛もあれば、死んだ雀に与えた道号、長い長い法語、私信、弟子に教えを与える手紙、辞世など、様々な書を残している。
おもしろいのは、それぞれで字の印象が違うことだ。
文字そのものを判別しなくても、文字の崩し加減や大小、余白の取り方、紙の大きさ、その他もろもろの視覚要素からなんとなく、どういう人に向かってどういう思いで書いていたか、見えてくる。全部が全部ではないけれど。

考えてみれば、人と話す時だってそうだ。
相手によって、話題によって、声の調子や話し方が変わる。
相手が子供なのか大人なのか、理解度はどの程度か。
話題は、天気か噂話か仕事か。会話と言う行為に意味がある会話か、用件を伝えなければならない会話か、意見をすりあわせなければいけない会話か。

今では、文字を書く時、内容や状況によって文字の書き方を変えることはあまりない。
せいぜい、丁寧に書くか、普通に書くか、走り書きかぐらいの違いしかないだろう。
でも室町時代においては、内容や状況によって違う書き方をするのは、当然を超えて常識で、それが出来ない人はおそらく、文字を書ける人間とみなされなかった。
ひらがなとカタカナと漢字が書ければ、ただそれだけでいいのではない。
「字が書ける」とはきっと、適切な書き方を自分で選べることも含めての技能だったのだろう。
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2015/11/27  23:57 | 投稿者: 時鳥

1986年に厚生省人口問題研究所が発表した、将来の日本の人口予想を見かけた。
それによると、2010年には総人口が135,823千人、65歳以上の人口は27,104千人、65歳以上の割合は20.0%だそうだ。
現実には、総人口128,057千人で、65歳以上の人口は29,245千人、23.0%となっている。
少子高齢化は確かに問題だろうが、それ以前に、予想とこれだけずれているってことが、まず不安をあおって危機感を覚える原因になっているんじゃないだろうか。
この先の予測がどれだけ外れるか、予測できないと言う。
この頃に作られた2020年の人口ピラミッドも、今見ると大いに違和感のある形をしているし。

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2015/11/25  22:19 | 投稿者: 時鳥

猫の首に必ず鈴をつけると言うなら、それはそれで結構なことだけど、それは目的ではない。
猫に出くわさないで安全に暮らすこと、猫に出くわしても逃げ切れることが大事なのだが。
危険を知らせてもらっても、逃げ道がないんじゃあんまり意味がないし、警告が邪魔になって大事な情報が入らなくなるなら、もっと困る。

・・・と言うようなことを、読みながら考えた。
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2015/11/24  22:18 | 投稿者: 時鳥

JR東京駅の改札口付近に立っていた。
あちらからこちらへ、こちらからあちらへ、人々が盛んに行き来する。
少し経ってから気付いた。
人が自動改札を通るたび、「かしゃん」と金属音がする。
切符を通す人より、ICカードを読み取り機に当てて通る人が多い。
ICカード読み取りの電子音もするのだが、なぜかほぼ同時に金属音もしている。
理由は、もう少し経ってからわかった。
読み取り機の下の切符の入り口が閉まる音だった。
次の人の切符が入れられないように、一瞬、閉まるのだ。
わかってみれば単純だけど、自宅の最寄り駅ではこの音はあんまり耳にした記憶がない。ICカード専用の自動改札が多いから。
東京近郊に住んでいる人間は、かなりの確率でICカードを持っている。
だから、ICカード専用の自動改札ばかりでもちっとも支障はない。
けれど、旅行者の多い東京駅ではきっと、切符の入る自動改札を多めに設置しているのだろう。
切符の入る自動改札機の割合を調べたら、その駅に遠方からの旅行者が多く来るのか、そうでもないのか、わかるかもしれない。
また、改札口がいくつもある駅なら、場所によって割合を変えているかもしれない。
ビジネス街に面した改札口はカード専用が多くて、長距離バスターミナルに面した改札口は切符も入る機械が多いとか。
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2015/11/23  22:29 | 投稿者: 時鳥

「武器をアートに」という題の展覧会を見る。
モザンビークは1975年にポルトガルから独立したが、その翌年から1992年まで内戦が続いた。外国から大量に供給された武器は内戦終結後も住民の元に残されていたが、1995年、現地のNGOによって「武器を鍬に」プロジェクトが開始され、生活用品と交歓に武器を回収するようになった。集められた武器でアート作品を制作するワークショップが初めて開かれたのは、1997年。そこで誕生した二人のアーティストの作品、約20点を集めたのがこの展覧会だ。

本を読む人、パンを焼く人、楽器を奏でる人。
赤茶色に錆びた武器のパーツが組み合わさって、日常生活を送る人々を形作る。
ひやりとした。
人間は、もしかしたら、武器でできているのかもしれない。
そういうコンセプトの作品ではない。それはわかっている。
しかし、一瞬、そう思ってしまったのだ。
平和に暮らしていても、武器を持って戦った過去や、武器を持たせて戦わせた過去は消えない。
武器は、過去を捨ててアートになったのではなく、過去を持ったままアートになろうと試みているのではないだろうか。
作っている本人に対しても、同じことが言える。

座るためのものではないけれど、武器でできた椅子も、会場にはあった。ドイツやロシアや中国の銃器がちりばめられていた。
ひるがえって、今、この文章を打っている私は椅子に座っている。この椅子はもちろん、武器でできていたりはしない。
けれど、この椅子が出来上がるまでの段階で、武器が何かしらの関係を持っていなかったと、本当に言い切れるだろうか。
私の家には、刃物はあっても銃器はない。これまで一度もあった試しはない。
しかし、この椅子を留めているネジは金属でできている。
その金属は外国から来たかもしれないし、その金属は大きな金属の塊の一部で、別の一部はどこかの国で、銃器や武器になっているかもしれない。
この椅子の木材は、仲買人が武器を売ったお金で買ったりしているかも知れない。
目に見えないけれど、実は、今座っている椅子の一部は、武器なのかも知れない。
実のところ、世界はつながっているから、こことそこは意外な接点があったりする。
今、目の前にあるこれは、見たとおりのものではなくて、見方によって白くも黒くも青くもなる。
油断がならない。


「武器をアートに モザンビークにおける平和構築」
東京藝術大学大学美術館
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2015/11/21  21:31 | 投稿者: 時鳥

『命を弄ぶ男ふたり』という芝居を見る。
岸田國士が大正14年に発表した戯曲で、登場人物は男が2人だけ。
その2人は赤の他人なんだけど、たまたま同じ場所で鉄道自殺をしようとしていたために顔を合わせた。
二人の会話は、まったくかみ合わない。
それぞれ別の事情を抱えていて、自分の視点で相手を勝手に決め付けるものだから、お互いに苛立っている。
自殺の邪魔をされているのだから、ただでさえ有効的な関係になりがたいのだ。
しかし、話したり揉めたりしているうちに、少しずつ、意識が変わってくる。
ちょっと近づいたり、突き放したり、自殺をやめようと思い始めたり、逆に決意を固くしたり。気持ちの色合いが変わり、揺れ動く。
まるでモアレのようだと思った。
複数の線が不用意に近づいたり離れたりすると、モアレが生まれる。
線そのものが生むのではなく、線と線との関係が生む、もやもやとしたもの。
実体はないのに、確かに見える。
ふたつの色の間に突如、別の色が見えるのにも似ている。
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2015/11/18  22:25 | 投稿者: 時鳥

ずいぶん荒れた髪だな。
それが第一印象だった。
ぱさぱさの髪の毛は、ところどころ色が抜けて、金色に変わっている。
根元から毛先に行くにつれて色が薄くなり、細くなる。
そこまで見て、興味を失い、手元の本に視線を落とす。

駅に到着し、たくさんの人が降りた。
私もその人も降りた。
ホームに落ちた日差しが髪の毛にも落ちる。
その瞬間、複雑な輝きが生まれた。
金と茶と焦げ茶が光を受けて、光から外れて、色を変える。
動くたびに新しい色彩とパターンが生まれる。
華やかで渋い。
まるで金襴緞子のようだ。
ついつい見惚れる。
こういうのも「綺麗な髪」と、言っていいんだと思う。
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2015/11/16  23:14 | 投稿者: 時鳥

過去数年間に見た映画や映像作品の一覧を作っていた。
タイトル、制作年、鑑賞した年月。それから、ジャンルも入力しようと考えた。
半分以上は実写のフィクション作品だから、それ以外のものを除ければ良いだろう。
そう考え、オペラ、バレエ、アニメーション、ドキュメンタリーなどなど、思いつくまま入力する。

「私は高速道路」という作品にたどり着いたとき、入力する手が急停止した。
東名高速道路が完成した頃に作られた実写の短編作品だ。
高速道路の使い方や仕様が、高速道路の一人称で語られる。
これ、ノンフィクションと呼んでいいのだろうか。
言ってみればハウツー物で、実在の高速道路の実際の使い方を分かりやすく説明しているけれど、高速道路は絶対にしゃべらない。
そうするとフィクションに分類すべきかもしれないけれど、じゃあ、実在の人物に密着取材した映像にナレーションをかぶせたのは、本当にノンフィクションでいいのだろうか。
高速道路になりきってナレーションをかぶせるのはフィクションなのに、ある人物の言動から内面を推し量ってナレーションをかぶせるのはノンフィクションになる。
当事者しかわからないことを他人が語るって意味では、どっちも同じようなものなのに、当事者が人間か高速道路かってことだけで随分扱いが変わる。

結局、百パーセントのノンフィクション作品なんてものは、ないってことなのだろう。
しばらく考えて、そんな結論を得る。
どんなに事実を客観的に伝えようとしても、制作側の類推や解釈が混じってしまう。
画面に切り取るもの、音として拾うものを選んで撮影し、撮影したフィルムを取捨して編集する以上、そこに考えが混じらないなんてことはありえないのだ。
どんなノンフィクションもどこかフィクションで、逆に、どんなフィクションも、どこかにノンフィクションを抱えている。
だから、作り話とわかっていても人間はフィクションを見るのだ。
フィクションは基本的に嘘で、部分的に本当のことがある。それは誰もが知っているからいいとして、問題はノンフィクションの方じゃないだろうか。
ノンフィクションは基本的に本当で、部分的に嘘が混じっている。嘘と言って悪ければ、事実とは言い切れないこと、と言い換えても良い。
しばしば、部分的な嘘まで唯一無二の本当だと思い込んでしまっていることがある。
嘘の可能性があることを、知ってはいるはずなのに。
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2015/11/14  22:58 | 投稿者: 時鳥

さお竹屋が通っていった。
「2本で千円、2本で千円、20年前のお値段です」
1995年当時も、同じ台詞で売っていた記憶があるけれど。
一体何年、同じ値段なんだろう。
40年間同じ値段だとしたら、卵以上に物価の優等生だ。
実は長さが3分の2になっていたり太さが半分になっていたりしなければ、だけど。
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2015/11/13  22:19 | 投稿者: 時鳥

人間に出来ることをコンピューターにさせる研究をしている人々がいる。
入試問題を解く、車の運転をする、家事の手伝いをする。
コンピュータを鏡にして、人間を見ている。
電脳世界を通して、現実世界を読み解こうとしている。
こちらから見ると、コンピュータの中に現実そっくりの世界ができているように見えるし、ロボットは人間と同じことをしているように見える。
でも、あちら側からはどう見えるんだろう。
見る側の人間が都合よく解釈して、つなぎ合わせるからそっくりに見えるのであって、あちらからは似ても似つかぬように見えていたりして。
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2015/11/11  23:49 | 投稿者: 時鳥

ニュージーランドに、犬専用のラジオ局があるのだそうだ。
留守番する犬のために飼い主はラジオをつけて外出するのだが、その番組は人間用に作られたものであり、必ずしも犬に適したものではなかった。
そこでペティグリー社が考えたのが、犬のためのラジオ局「K9」。
犬を落ち着かせるクラシック音楽や、犬が興味を持ちそうな料理名の羅列、飼い主のメッセージなどを組み合わせて、終日放送したのだそうだ。

犬だって留守番は嫌いだし、ストレスがたまる。
犬には犬なりに興味のある事柄があって、それは人間とは違う。
そのことをちゃんと理解していないと、こういうものは出来てこない。
番組の内容が優れているとかいないとか以前に、こういう意識を持っているってことに、個人的にはとても感銘を受ける。
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2015/11/10  23:11 | 投稿者: 時鳥

職場の机の下で履くための履物を買いに行く。
ベランダか近所のコンビニくらいまでなら履いていけそうな、ゴムのサンダルを見つける。
税抜き250円、かかとにストラップも付いているのも好都合だ。
しかし、問題は色で、女性用はサイケなピンクかケミカルな黄緑しかない。
仕方なく、男性用の紺を買う。少々大きいが仕方がない。
男性用は紺か黒しか選択肢がなく、女性用はピンクか黄緑しか選択肢がない。
この性差、意味あるんだろうか。
男女とも、黄色と紺にしとけば、目立ちたくない女性も目立ちたい男性もどちらの希望も叶えられると思うんだけど。
足の小さい男性も、足が大きい女性も余計なことを考えなくて済むし。
片足ずつ、好きな色とサイズの組み合わせで買えても面白いと思う。
買う人はあまりいないかもしれないけど。
靴でも靴下でも手袋でもイヤリングでもそうだけど、左右同じじゃなきゃいけないってことはないと思う。
片方をなくしたり破損したりすると、残った片方が役立たずにしかならないのって、なんだかもったいないし不自由。
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2015/11/8  22:23 | 投稿者: 時鳥

随分前に書いた記事に、コメントが付いた。
「スーパーコピーブランドショップ」という言葉で始まっている。
正直なのは評価するが、いくら正直でも悪いもんは悪い。即刻削除する。
こういうの、狗頭狗肉って言えばいいのかしら。
外見と中身が一致してる。
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