2016/3/31  23:28 | 投稿者: 時鳥

「屁の河童」という言葉を久々に口にした。
尻から空気の出るあの現象を「へ」と言い表した人も、
頭に皿の載った架空の水中の生き物を「かっぱ」と言い表した人も、
ともに優れた音のセンスを持っているが、
両者を合体させて「へのかっぱ」という音を作り出した人に至っては、もう、天才だと思う。
不真面目でどうでもいい感じが、単語の意味レベルでも、音の感触レベルでもよく出ている。
「蛙の面に水」も意味としては大差ないのだけど、いかにもことわざ然としていて、軽やかさに欠ける。
同じ水の生き物でも、自虐交じりに笑い飛ばすなら間違いなく河童の方がしっくり来る。
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2016/3/31  7:51 | 投稿者: 時鳥

植木鉢で雑草を育てている。
春が深くなるにつれて、日照権争いが激化している。
大雑把には、地上の面積を広げるタイプと高さで空中制覇を狙うタイプとがいるのだけど、垂直方向型が躍進するにともない、水平方向型も高さが増して来ているように見える。
葉の大きさにも、それぞれのリスク分析が見える。
大きい葉はたくさんの光を受けられ、光合成も進むけれど、摘み取られたらゼロになるというリスクがある。
かといって、極小の葉をたくさん付けるのも、さほど効率が良くない。
リスクと効率を天秤にかけて、落としどころを見つけている。

それにしても、クローバー強いな。
時々介入しないとほかのが生えてこない。
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2016/3/29  23:37 | 投稿者: 時鳥

ある女性が書いた匿名ブログをめぐって、失言をした男性の政治家が謝罪中に「本当に女性が書いた文章ですか?」みたいなことを口走って、火に油を注いでいた。

そのニュースを知った時、思った。
女性が、頭の中でも常に、女言葉を使っていると信じているのか、この人は。
物理の法則について考える時も、怒りに任せて罵詈雑言を吐く時も、悔しい時も冷静に戦術をめぐらせている時も、女言葉だと信じているのかもしれない。
そういう女性もいるかもしれないが、私個人は考えている内容に応じて頭の中の言葉遣いは変わる。
任侠物みたいな言葉も、昔の女学生みたいな「てよだわ言葉」もスネオママみたいな「ざあます言葉」も場合によっては使う。
相手がいれば、内容と相手と自分の感情とに適した言葉遣いを選ぶけれど、相手がいなければ、内容と感情だけで言葉を選ぶ。
酷いことを語るにはそれなりの言葉を選ぶし、可愛いものを語るには、それに向いた言葉がある。
一生、自分の音声に乗せることはないだろう言葉も、頭の中でなら自由に使える。
そういうわけだから、女言葉も男言葉も、適していると思えば使うけれど、考えてみれば、男性が頭の中で女言葉を使っているところって、なかなかに想像しにくい。
男性が女言葉で物を考えることって、ないのかしら。
それとも、実際はあるけど女性に知られていないだけ?
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2016/3/27  22:48 | 投稿者: 時鳥

ケーキ屋やアイスクリーム屋がイースター用の商品を売っているのを目にする。
もう半月もすれば潅仏会だけど、花祭りグッズを売り出す気は多分ないだろう。
外来の祭りを新しく持ってこなくても、既存の祭りがあるんだからそれを使えばいいのに。
ここまで考えて、気付く。
あ、そっか。外来の祭りだから、こんなことが出来るのか。
ケーキやアイスクリームを売るのに花祭りを利用すると、伝統をもって任じる方々がとやかく言いそうだけど、イースターは彼らの認識にないから何も言われないのか。
イースターに詳しいキリスト教関係の人はとやかく言うかもしれないけれど、そこはきっと、「外国のお祭りなのでよく知らないんです」で逃げるつもりなのだろう。
必要なのは、ただの記念日ではなく、手垢が付いていない記念日。
その条件を満たすなら、唐突でも無関係でも問題ない。

個人的には、「イースター・パレード」であんなに大事に扱われていたお祭りを、こんなに勝手に都合よく扱っていいものかと思わなくもないけれど、これも時代の流れだろう。
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2016/3/26  23:03 | 投稿者: 時鳥

『シェイクスピア名言集』を読みながら電車を待っていた。
アナウンスが流れる。
「まもなく○番線に電車がまいります。・・・ですから白線の内側にお下がりください」
機械の不調でもあったのか、「危ない」の一言が抜けた。
でも意味は十分通る。

理由はもう無しでいいんじゃないだろうか。
下がって欲しいのなら、そこが際立たせて、余計なことは言わなくていいと思う。
この手のアナウンスから理由とか丁寧さとかの余計な言葉を削れば、ずいぶんすっきりするんだけど。
先日も、とあるカウンターで係員が丁寧に説明しているのだけどどうにも回りくどくて、耳のあまりよろしくないらしいご老人が短気を起こしかけているのを目撃した。
暴言を吐くほうが悪いんだけど、説明の仕方も悪い。
要は何が出来て何が出来ないか、何をしちゃいけないのかをまず言ってくれないと、ずっと聞き耳を立てなきゃいけないのである。
日本語能力が不安な人には、謙譲語も尊敬語も厄介だ。
ただの丁寧語でいいから、迅速に、簡潔に、確実に説明して欲しい。
尊敬語を使わないとクレームをつけるような人は、使ったってどうせけちをつけるのだ。

「白線の内側までお下がりください。電車がまいります」
「○○線は運転を見合わせています。信号故障がありました」
こっちのほうが簡潔だ。文章は短いほうがわかりやすい。

ここで、さっき読んだ、シェイクスピアのせりふを思い出した。
「只今、使用できません。女の理由です」
これは、どんな状況でも使える魔法の理由。
でも今使ったら、女性差別と言われそうだ。
出典は『ヴェローナの二紳士』。
女主人ジュリアが侍女のルーセッタに求婚者たちの批評を求める。そこでルーセッタが語る中に、こんなのがあるのだ。

「理由と言われても,私には女の理由しかありません,
 つまり,そう思うからそう思うのです.」
"I have no other but a woman's reason:
I think him so, because I think him so."

まあ、男女に限らず、大抵の人間が何かを選ぶ理由、選ばない理由は、実のところこれだったり。

参考:
『シェイクスピア名言集』小田島雄志 岩波ジュニア新書
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2016/3/24  23:45 | 投稿者: 時鳥

世田谷美術館の「ファッション史の愉しみ」展は、故・石山彰氏の収集した膨大な書籍や紙物のコレクションから、特に18世紀末以降のヨーロッパの女性服を焦点に当てて資料を抽出した展覧会である。
当時の流行を伝えるファッションプレートやファッションブックをほぼ年代順に、目が回るほど大量に並べている。
の資料を見ていて、気付いた。
18世紀末から19世紀を通して、流行は年毎に変わる。
それこそ、5年違えば明らかにシルエットが変わってくるが、流行の数はひとつしかない。
つまり、バッスルスタイルの時代にはどのファッションプレートもバッスルばかりだし、甘めのクリノリンが流行ればそれ以外は描かれない。
ところが、20世紀に入った頃からそれが変わってくる。
同じ年に同じ人が描いたのに、すとんとしたモダンなアールデコと、フリルたっぷりのクリノリン入り舞踏会用ドレスと、物堅そうなバッスルスタイルの散歩服とが混在している。
最先端はアールデコだったろうが、アールデコはそれまでの流行からかなり離れたスタイルだったから、おそらく受け入れられない人が一定数以上いたのだろう。
以前のスタイルも消えずに残って、各種スタイルが乱立している。

現在は流行が何種類もあって、ファッション雑誌も複数あって、各自が好みに合う服をまとうのが当たり前になっているけれど、そうした流行の分化が始まったのは20世紀始めのこの時期なのかもしれない。
もちろん、この会場の資料だけで即断することはできないけれど。
19世紀以前のファッションプレートでも実はそうした分化はあって、たまたま今回の展示資料がその部分をすくい切れなかったのかもしれない。
あるいは、流行の分化はあったけれど、ファッションプレートには描かれなかったのかもしれない。
だから会場の資料を見た限りの印象になってしまうけれど、20世紀に入るまで、流行の変遷は非常にきれいな線として流れているように見える。
前の時代のこれがあったから、次の時代がこうなった、というのが見て取れる。
しかし、アールデコの直線的なスタイルは、前の時代から断絶しているように見える。
この断絶が、各種スタイルの乱立につながったんじゃないかと言うのが個人的な印象。
ただの印象なので、どこまで当たっているかは不明。

2

2016/3/22  22:51 | 投稿者: 時鳥

「あそぶ浮世絵 ねこづくし」展のチラシをもらう。
会期中の4月22日は「勝手に猫の日」だそうだ。
以下、チラシから引用。
猫の鳴き声(ニャーニャー)にちなんで、2016年4月22日[金]に限り、猫のモチーフを身につけた方、猫グッズをご持参された方(本物の猫は除きます)は、入館料が当日料金の半額になります。

同種の催しでナマネコ持ち込んだ人がいたのかもしれない。
「傘や動植物の持ち込み」は遠慮するよう、注意書きにあるので、割引以前にそもそも猫を持ち込んじゃいかんのだろう。

しかし植物って、どのレベルで駄目なんだろう。
胸に着けたコサージュ、貝割れ大根、牛蒡のレベルで駄目なの?
椎茸とかの菌類ならいいの?ヨーグルトは、納豆は?
何を問題にしているか不明瞭なだけに、禁止したくなったら何でも禁止できそうな注意書きだ。
1

2016/3/22  22:31 | 投稿者: 時鳥

ピンヒールの女性が吊り革につかまって立っていた。
座席に沈み込んで視線を遊ばせ、見るともなく見る。
あのヒールの先を穴あけパンチと同じ形状に加工したら、相当な厚さの紙束でも穴が開けられそうだ。
ひと踏みで一体何枚くらいに穴が開けられるものなんだろう。
真っ赤なハイヒール型の穴あけパンチって、あったら楽しそう。
2

2016/3/21  22:11 | 投稿者: 時鳥

世田谷美術館で「ファッション史の愉しみ」展を見る。
ロココからアール・デコまで、ヨーロッパのファッション史を時代を追って見ていく。
最後の部屋には、日本の洋装化のコーナーがあった。
洋装の日本人女性が描かれた明治時代の浮世絵が並んでいる。
ヨーロッパの服飾を延々と見た後だと、この洋装日本人女性たちは異様なものとして目に映る。
形は同じ服でも、着こなし方が全然違う。ヨーロッパとは違う文脈で着ているようだ。
ふと気付いた。
これって、着物の色彩感覚を持ち込んでいるんじゃないだろうか。
洋服だと喧嘩する色の組み合わせだけど、振袖と帯と半襟、襦袢と考えたら、この組み合わせでも調和させることができるだろう。
着物では同系色ではなく、違う色を合わせるのがセオリーだから、明治初期の日本人が同じ感覚を洋服を着る時にも適用したっておかしくない。むしろ、そのほうが自然だ。
ある絵の女性は、衣紋を抜いて洋服を着ているように見えた。
色彩といい着方といい、当時のヨーロッパ人にはセンスが悪く見えたろうが、正しくは、美的センスが違っていたのだと思う。
3

2016/3/20  23:21 | 投稿者: 時鳥

一般向けの本のはずなのに、妙に専門用語が多かった。
注釈はたくさんついているが、多すぎて、本文の流れを追いながらいちいち注釈を読んで理解していくのは難しそうだ。
結局、一般の人にはあまり読まれないような気がする。

本文の難しい言葉を噛み砕いたのが注釈、ってことになっているけれど、これって逆に出来ないだろうか。
文章は易しめの言葉で書いて、それではまどろっこしい人は注釈の専門用語を読んで、ショートカットを狙う。
ただでさえ知らないことを苦労して学んでいる人に、それ以上の苦労はさせないってスタンスがあったっていいと思う。一般向けの書籍なら。
2

2016/3/18  23:42 | 投稿者: 時鳥

ATMで預金を引き出す。
金額を入力すると、まずキャッシュカードが戻ってきて、カードを取った後に現金が出てきた。
順序が逆、または、カードと現金が同時に出て来ると、カードを忘れる人が一定数出てくるんだろうな、これ。
そんなことを思う。
現代日本で大人になった人はほぼ例外なく、現金に対する反射神経を装備している。
現金なもので、一万円入っているICカードよりも千円の現金の方に確実に反応するように出来ているのだ。
自動販売機はみんな、お釣りを取ったら立ち去れるように動きを作っている。
現金を取ったら終わり、という無意識のルールがどこかにあって、自動販売機もATMも同じルールを踏襲しているのかもしれない。


追記:
某さんへ。
コピー機の原稿カバーの中に返金ボタンを付けるべきだと思います。
料金をぴったり投入してコピーをとる人も多いですから、
終了時にアラーム音を鳴らすか、ランプを派手に点滅させて、
カバーをいったん開けないと止まらない仕組みにしても良いでしょう。
周囲にご迷惑ですから、点滅とアラーム音は30秒ぐらいで切れます。
それでも気付かない人はゴメンナサイ。

用紙サイズに関わらず、原稿は左上の角に合わせて置きますから、
その部分にセンサーをつけて、終了時にガラスとカバーの間に
何か挟まっていたらアラームを鳴らすのもありです。
あとは、原稿カバーを開けたところに貴重品入れを用意しておくとか。
車の鍵かスマホか財布を入れておけば、よもや忘れることはないでしょう。
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2016/3/17  23:53 | 投稿者: 時鳥

本屋で表紙を見て、「あ、これ欲しい」と思う。
めくってみて、「私の人生には、この本が必要だ」と確信する。

だが、ほぼ初めて入った本屋で買うより、いつも行っている近所の本屋にあるなら、そちらで買いたい。
ちょっと珍しい本だけど、先月出版されたばかりだし、大きいところなら置いているかもしれない。
そう考えて近所を探してみたが、見つからない。
仕方がない、都内の大書店で買おう。
買わなきゃいけない本なのだ、これは。

かくして、東京駅前の丸善に足を運ぶ。地上4フロアに本がぎっしり詰まった大書店だ。
しかし、こんなに本があるのに、その本はなかった。
八重洲口の八重洲ブックセンターに向かう。丸善が出来るまで、東京駅前の大書店といえばここだった。
しかし、ここにもない。
少し歩いて、有楽町駅前の三省堂書店へ。
ない。
この辺りから焦ってくる。
やばい、これ、入荷していないんじゃない。入荷したのが売り切れてるんだ。このままだと買い逃すかもしれない。

帰宅して、この本を置いていそうな書店をリストアップする。
ここまで本気で本を探すのは、何年ぶりだろう。
土曜日の朝、開店直後のLIXILブックギャラリーで発見し、ようやく入手する。
この重い本を一日持ち歩くのは大変だが、入手し損ねたら悔やんでも悔やみきれない。
今、買わなかったら、一生、手に入らないかもしれないのだ。

『デザインのひきだし 27』は、そうして我が家にやってきた。
「デザインのひきだし」は「プロなら知っておきたいデザイン・印刷・紙・加工の実践情報誌」と銘打たれた季刊誌である。
毎号異なる趣向が凝らされる表紙だが、今回は全面に刺繍が施されている。厚紙の表紙に、糸で、特殊なミシンで、刺繍を入れているのだ。想像しづらいと思うけれど、事実だ。
製作過程についての記事が本文にあるが、一枚の表紙を製作するのに40分かかるという。
こんなクレージーな表紙の中身が、タダモノであるはずがない。
今号の特集は、「現代・印刷美術大全」。
日本全国の印刷加工会社に、自社で一番得意な印刷加工をお願いして、そのサンプルを初版限定現物見本として閉じこんでいる。
その数、110種類。
薄紙印刷、擬似エンボス、UVニス厚盛り、ピカピカ、スケスケ、ホログラフ、点字、レーザーカット、和紙。
めくるたびに、新たな技術と新たな印刷の世界が目の前に広がって、ついつい笑ってしまった。
呆れて、感嘆して、感動して、笑みが浮かんでしまう。
こんなことまで出来るのだ。紙の印刷の可能性って、凄い。
印刷が人間を元気にすることができるだなんて、今の今まで知らなかった。
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2016/3/17  0:50 | 投稿者: 時鳥

関根雲停という人の彩色植物図の前で足が止まった。
「薬草の博物誌」の会場でのことだ。
1840年代から70年代にかけて描かれた絵なのだが、そんな感じがしない。
先週描かれた絵だと言われたら、そのまま信じてしまいそうなところがある。
モダン、と言う言葉が浮かんだが、しっくりこない。
これはむしろ、浮世離れと呼ぶのが正しい。

フィルターが少ないんだと思う。
植物を描く時、画家なら画家の目で、本草学者なら本草学者の目で植物を見て、要素を取捨選択して紙に載せる。
その取捨選択機能があまり働いていない。
取捨選択をしていないわけではないけれどその基準は独特で、他の分野から見るとおそらく、重要なものとそうでないものがごっちゃになっているように見える。
でも、その絵は確かにその植物なのだ。
百年以上前のタンポポのたたずまいが、その株のいわば個人的な表情が、写し取られている。
植物学は科学からはみ出た部分を捨てた。
絵画は美意識にそぐわない部分を捨てた。
この人はそういう捨て方はしなかった。
元気のない草は元気のないように、咲きたての花は咲きたてのように。
植物の中にあるものが表に現れたところを大事に拾い上げて、それ以外の要因は注意深く取り除いて、植物を描いた。
「生きたものを生きているように描く」。会場のキャプションにあった言葉だ。
この人の名前と絵を知る人は、多くなかっただろう。
流れから外れたところに、突然変異のようにひょっこり現れて、すうっと消えた人だ。
でも、数は少なくても愛好者には深く愛されたはずだ。
植物の生命を、独自の視点から描く。
流れを超越し、むき出しの本質で出来ているものは古びない。
描かれた植物は今も新鮮で、きっとあと百年経っても新鮮だろう。
これらの絵は牧野富太郎の旧蔵品だそうだ。
自分とは違う方向から植物を見ていて、生き生きとしていて、だから大層好きだったことだろう。
本草学者にも植物学者にも画家にも描けない種類の絵だと思う。
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2016/3/15  22:21 | 投稿者: 時鳥

『本草図譜』は文政11年(1830)成立の本草書で、約2千種の植物を収録している。
解説の文章が少なく、図も、その植物の全容を網羅しているわけではないから、植物図鑑としては物足りない。
その代わり、グラフィックアートとしてすこぶる上質で、眺めているだけで目に楽しい。
こんなのがそこら辺に生えていると知ったら、実物を探しに出かけてしまいそうだ。

「薬草の博物誌」のメインビジュアルに使われているのは、この書物のカラスウリの図である。
縦長の朱色の果実、濃い緑の葉、渦巻く蔓。そして、極め付けがレースのように広がる白い花。
基本的に見栄えのする植物なのだが、会場でこのページの前に立って、うなった。
空摺りで来ましたか。

本の地紙は白い。正確には黄色と茶色のかかった和紙の色だが、広い意味では白だ。
そこに、白い花の絵を描く。
白い絵の具で印刷するという手ももちろんあったが、著者達が選んだのは空摺りだった。
浮世絵や版本でしばしば見かける技法で、要するに、版に絵の具を乗せないで刷るのである。
色はつかないが、わずかな凹凸がつく。それが陰影となって、淡い線になるのである。
夜に咲き、一晩でしぼむカラスウリの花を描くのに、これ以上のものはない。
まさにコロンブスの卵で、見るまでは思いつかないけれど、見てしまえば、これ以外の選択肢があると思っていたことが逆に不思議になる。
それくらい、ぴったり。
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2016/3/14  23:08 | 投稿者: 時鳥

「薬草の博物誌 森野旧薬園と江戸の植物図譜」展を見るため、LIXILギャラリーに足を運ぶ。
江戸時代の実物標本や本草書を中心にした展示である。
その中に、牧野富太郎旧蔵の『草木図説』があった。
安永3年(1856)から文久2年(1862)にかけて刊行された本草書で、日本の植物をリンネの分類法によって分類、図示、解説し、日本初の植物図鑑と言われているそうだ。
なるほど、植物の図は素人目にも正確で質が高いものに見える。
植物学者・牧野富太郎は江戸時代の本草書を多く所蔵していて、『草木図説』は中でも愛読していたそうだ。
本の余白には、そのページで紹介されている植物の図が追加で貼り付けられていた。
なんでも、「足りない」と思った図を牧野氏が自分でスケッチして貼り付けたのだそうだ。
流石は牧野富太郎。この人なら確かにやりそうだ。
その植物の特徴を多方面から、高精度で捉えた図。
見ていて思った。
こうして加えられたスケッチって、それ自体がもう一種の書評になりえているんじゃないだろうか。
批判するだけでなく、足りないところを補って、より完璧なものにしようとしている。
前に進もうとする力。
研究って、本来はそういうものなんだと思う。


なお、牧野富太郎の『増訂草木図説』が刊行されたのは、明治40年から大正2年にかけて。
30年越しの研究が実を結ぶ。
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