2017/1/29  22:54 | 投稿者: 時鳥

40年間、クモの糸の研究をしてきた理学博士が書いた本。岩波科学ライブラリーの1冊。
本業は別にあって、クモの糸は「趣味としての生涯の研究対象」なのだそうだ。
だからだろうか、ハンモックを作ってぶら下がってみたり、バイオリンを弾いてみたり、職業だったらやらなさそうなことに盛んに取り組んでいる。もちろん、クモの糸の性質を真面目に研究した上でのことだ。
本書に書かれている範囲内だけでも、この方、間違いなく100万本以上のクモの糸を採取している。
蚕と違ってクモの糸は、生きているクモからしか採れない。
クモは目的に応じて数種類の糸を出すことができるのだが、その中でも牽引糸という、ぶらさがって移動するときに使う糸だけを採取しなければならない。
クモの機嫌を取りながら1本また1本と採っていって、短ければつなぎ合わせて、十分な長さの糸を19万本束ねて、やっと人がぶら下がれる強度になる。
バイオリン1梃の4絃をすべてクモの糸で張るなら、4万2千本が必要になる。
趣味とはいえ、遊びではない。この上なく本気だし、想像できるだけでも物凄い労力を投じている。
この研究のために、還暦を過ぎてからバイオリンを習い始め、楽器についての文献を読み込み、既存の絃を観察し、もちろん同時にクモの糸の研究を進めて、米国物理学会の学会誌に論文を投稿して、掲載を勝ち取っている。
文章は中学生にもわかるくらいの平易で、研究や実験のエピソードは楽しい。
クモの糸には面白い性質がいくつもあって、そのひとつひとつに目が開く心地がする。
柔らかくて強いこと、水を吸うと縮むこと、クモの種類によっては紫外線によって糸の強度が増すこと、250℃程度の高温に耐えられること、などなど。
バイオリンの弦として、クモの糸がありふれた素材になることはまだまだ考えられないけれど、そういうものが作れるというのが、まずとても興味深い。世界ってまだまだ面白いことがあるものだ。

『クモの糸でバイオリン』大崎茂芳 岩波書店
3

2017/1/27  23:02 | 投稿者: 時鳥

図書館の本を検索する。
いろいろな本に収録されているらしく、何件もヒットする。
1件ずつ書誌情報を確認して、ページ数や大きさを比較する。
検索結果一覧の並び順、書名順や出版年月順のほかに重さ順でもソートできればいいのに。
同じページ数でも、紙によって重さって変わってくるのよね。
1

2017/1/25  23:03 | 投稿者: 時鳥

名前の割りに、もふもふした感じはしない。2013年10月誕生。
おもて面はちょっと毛羽立った手触りがあるけれど、「もふもふ」と言えるほどではなく、梅の実の表面くらいのふわっとした淡い手触りに留まっている。
裏面には毛羽はなく、代わりに縦に走った筋が指先で感じ取れる。
この紙は、表から見ても裏から見ても、縦に簾状の筋が入っているのがわかるのだが、おもて側は例の毛羽があるため、手触りではわかりにくい。裏からなら感覚を集中させなくてもはっきりわかる。
光にすかすと、縦の筋のほか、紙全体に広がる薄雲のような濃淡が観察できる。紙の繊維がちょっとだけ多く集まっているところは厚めの雲に、少ないところは雲の向こうから薄日が差しているところのように見える。

「モフル」は3種類の厚さが作られていて、中でも一番薄い、1平方メートル当たり69.8gの紙が手元にある。
結構透ける紙で、大き目の活字が組まれたページの上に置いたら、さほど不自由なく下の文字が読めてしまった。密書には不向き。
この見えるか見えないかの曖昧さは、私信の封筒にむしろ向いていそうだ。
植物か動物かはともかく、そこはかとなく生き物っぽさがあることだし。

「モフル」特殊紙|柄|ミルク
69.8g/u
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2017/1/24  22:30 | 投稿者: 時鳥

週末、国立国語研究所が主催するフォーラムを聴講する。
全体のテーマは「オノマトペの魅力と不思議」で、5つの報告と最後のパネルディスカッションまで、楽しく聞いて帰ってくる。
その中に、「もふもふ」についての報告があった。
報告者は、オノマトペの音を分析して印象を評価するシステムを作った研究者だ。
システムは音韻とその順序のみから、冷たいか暖かいか、自然化人工的か、などを判定して、一覧表示する。
音だけから分析するので、語源となった日本語の意味は考慮しない。だから時々、日本語話者が抱くのとは違う結果が出るのだそうだ。
さて、そのシステムにおいて、やわらかくて暖かい印象のオノマトペを探すと、最高点をマークするのは「もふもふ」なのだそうだ。
「もふもふ」は21世紀になってから広まった歴史の浅いオノマトペだけど、広まるには広まるだけの理由があったらしい。
「もふもふ」と言う言葉はしょっちゅう見かけるけど、ちょっと思うのは、言葉と現象と、どっちが先なのかって事。
やわらかくて暖かいものを好きな人が多いから「もふもふ」が出来たのか、「もふもふ」というオノマトペがあったから、やわらかくて暖かいものを好む人が増えたのか。
もともと、人々に何となく好まれていて、でもそれを表す明確な言葉がなかったものに、「もふもふ」という言葉、あるいはカテゴリ、あるいは枠組みが与えられて、その型に人々の好むものが一挙に流れ込んだって感じが、個人的にはしてる。


2

2017/1/20  23:45 | 投稿者: 時鳥

「知の回廊」展は、会期中の毎週土日の午後に連続講演会を開いていて、それを聴講するためもあって10回近く足を運んだ。
講演会は毎回違う研究者が講師を担当していて、自分の研究分野について熱く語っていた。
展示も同様で、東京大学が所蔵する学術標本の中から、何人もの研究者がこれというものを選んで、いくつかの流れの中に配置していく。
標本ひとつひとつに味わいがあって、個性を主張していて、それらが渾然一体となって「知の回廊」という展示を作っている。まるで、生態系みたいに。

「驚きの明治工芸」展は、似たような展覧会をこれまでに何回も見ているのだけど、やっぱり行けばそのたびに瞠目している。
長年かけて磨きぬいた技術と美的感性の結晶たち。
社会構造が激変した明治という時代だからこそ、これらの作品は日の目を見たわけだし、また、人材を取り巻く環境が変わったために、次の世代にはここまでの人たちは出なくなったんじゃないかと、個人的には思っている。

「観察と工作」は、大日本タイポ組合とGELCHOPによる展覧会。
有楽町の無印良品の中にある展示スペースで開催された。
三輪車をつなげたり、椅子を変形させたり、日用品をちょっと変えてみせる。
役に立たなくなった日用品の前にたたずんで、「あれ?」と思う。
何かに引っかかる感覚が得がたく、新鮮。

何かに引っかかる感覚、という点では、建築家のユニットによる「インサイド・アウト」展にも似た味わいがある。今にして思うと。
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2017/1/18  22:44 | 投稿者: 時鳥

去年一年間に美術館や博物館やギャラリーに足を運んだ回数を数えたら、269だった。
同じ展示を複数回見た場合を1回と数えるなら249。
一昨年は重複除いて290だったから、やや減った。

ベスト10
石洞美術館「スペイン陶器」(1月)
LIXILギャラリー「小池頌子 遠い煌めき」(1月)
世田谷美術館「ファッション史の愉しみ 石山彰ブック・コレクションより」(3月)
メゾンエルメス フォーラム「YOKAINOSHIMA シャルル・フレジェ」(3月)
東京大学総合研究博物館「知の開廊」(6月)
ATELIER MUJI「観察と工作」(8月)
東京藝術大学大学美術館「驚きの明治工藝」(9月)
世田谷美術館「志村ふくみ 母衣への回帰」(10月)
TOTOギャラリー・間「トラフ展 インサイド・アウト」(10月)
Bunkamura Gallery「染付古便器の粋」(12月)

最初の2つはどちらも陶磁器。
偏愛するスペイン陶器がわんさか見られて楽しかった。
小池頌子さんの作品はペルシア陶器の香りがして、見知らぬ砂漠の国から届けられた不思議な贈り物みたいな作品だった。ラスター彩の貝殻にもときめく。

世田谷美術館から、服飾関係の展覧会が2つ。
「ファッション史の愉しみ」は、常設展示室で見た作品も強く心に残っている。
小林敬生さんの小口木版画。緻密な世界が重なって、裏返って、うつろう。

メゾンエルメスからは、日本各地、世界各地に住まう、その土地の神様たちの写真展。
神楽や民俗芸能の装束をまとった人々を写す写真家の、真剣で新鮮な眼差しが見て取れる。
1

2017/1/14  8:23 | 投稿者: 時鳥

深夜のコンビニ。
レジのそばで焼き鳥が売られている。
「皮タレ」と書かれたラベルが目に入る。
これさえあれば、24時間いつでもかわたれ時。
そんなことをぼんやり思って店を出る。
黄昏時になる食べ物は、思いつかなかった。
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2017/1/12  23:07 | 投稿者: 時鳥

艦長が自分好みの制服を艦の資金で誂えていた

通勤電車で読んでいて、腹筋が痛くなった。
寝る前に布団の中で読み返し、一人夜更けに笑い転げた。

著者の一人、せきしろさんは、日本語の文章の中からたまたま「57577」になっている部分を探し出すプログラムを作ったのだそうだ。
ウィキペディア日本語版のすべての文章を素材にしてこのプログラムを走らせ、出てきた約5000首から100首を厳選し、コメントをつけたのがこの本。
冒頭は、「セーラー服」の項で見つかった短歌だそうだ。
プログラムは文章の一部を無作為にひっこぬいてくる。
文脈から引き剥がされた三十一文字が差し出され、先入観なしにそこだけを読む。日本語として普通に解釈し、じわりじわりと可笑しくなる。
電車内で隣の人が読んでいる本の一節が目に入って、頭にこびりついて、離れない。その時の感じとよく似ている。
セーラー服についての記述から、よりによってこれが抜き出される奇跡。
ブリテンの先史時代が、「軍事的手段で同化吸収し、彼らの社会構造はブリ」と出世魚の物語になる飛躍力。
無慈悲で無機質で無作為な偶然短歌抽出プログラムは、まれに物凄くいい仕事をする。

なんでもない文章の一部が、実は「57577」であると突如、突きつけられる。口ずさんでみると本当に短歌のリズムで、でも内容が全然短歌っぽくない。でもリズムは短歌なんだから、短歌だよなあ、とぐるぐるする。「短歌とはこういうものである」という常識が覆されて混乱をしつつ、結局、素直に読んで、やっぱり読めば読むほど面白いってことに気付く。
もう短歌でも何でもいいや、面白いから。

本の中から、特に気に入った10首を書き抜いておく。
何か滅入ることがあったら読み返そう。

その人の読む法華経を聞きながら眠りについて、そしてそのまま(櫻間伴馬
艦長が自分好みの制服を艦の資金で誂えていた(セーラー服
念仏で救済される喜びに衣服もはだけ激しく踊り(盆踊り
「立ち乗り」を行っている最中に車のドアが閉まってしまい(ペター・ソルベルグ
暗殺を志してか、淀川に船を浮かべて日が暮れるまで(大塩平八郎
泣き言や空想ばかり書いているジャーナリストの連中が何(リシャルト・カプシチンスキ
地域では「メンチビーム」で倒しても「喧嘩慣れ度」は上昇しない(喧嘩番長
照らされて雨露が輝く半分のクモの巣だけが残されていた(くもとちゅうりっぷ
財産のキャンディを全てもらえると聞いて一時は心がゆらぐ(キャンディを守れ!
絵が付いたサンダルを履き、正月に行った時には、みんなで黒い(オモチャキッド

※カッコ内はウィキペディアの項目名。今もその文章がリンク先にあるかどうかは不明。
※twitterのBOTアカウントもあるそうです。「偶然短歌bot
※なお、この文章にも偶然短歌を2首仕込んでおきました。もっと見つかったらすみません。

『偶然短歌』いなにわ、せきしろ 飛鳥新社
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2017/1/11  22:27 | 投稿者: 時鳥

「Rhizome」、「Deux Amis」、「My Home」の3作は、国立新美術館の「第19回文化庁メディア芸術祭」で観た。

「Deux Amis」は、鳥に追いかけられたシャクトリムシが池に落ちたことから始まる、短い物語。
何回見ても、あの衝撃の瞬間に出くわすたび、一瞬呼吸が止まる。
誰が悪いのでもない。運命と考えるには、あまりにもあっけない。
壊す気はなく、壊したことすら気づかず、おそらくこの先も一生気づかない。いつか逢えるはずと曇りなく、信じている。
まったく異なる世界に生きる者が出会い、友情を覚えたことが、この結末につながってしまった。
残酷な物語。行為が残酷なのではなく、悪気なくそうなってしまう、世界の仕組みというか自然の摂理がむごい。
「そうなるとは思わなかった」「でも結果としてそうなった」
加害者と被害者、それぞれの声が、天秤のこちらとそちらで揺れている。
取り返しのつかないことが、いともあっさりと起こる。この世界。

「My Home」は、シングルマザーの母親と二人きりで暮らす少年の家に、ある日、母親の恋人が入って来る。そのことで起きる揺れや混乱を、少年の視点から丁寧に描いている。
母親の恋人は鳥の頭をした成人男性で、寡黙で身体が大きい。身動きがたてる音も煙草の匂いも固い気配も、母親とは全然違っていて、少年は警戒を解けない。
悪い人ではなく、自分と仲良くしたいらしいのだが、近寄りがたい。
鳥の頭の男も森のような寝室も、現実にはありえないが、言わんとすることはとてもよくわかる。
幻想的かつ五感に訴えかける描写で、少年の心に映る風景を描いている。

「Rhizome」は、何と言うか、宇宙と生命の進化を数分に圧縮したみたいな作品。
小さな動きが繰り返され、増加し、多様性を得て、遂には宇宙を埋め尽くす。
独立した命、膨大な数の命が集まって、壮大な宇宙になる様に、圧倒される。
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2017/1/9  21:54 | 投稿者: 時鳥

去年に初めて観たアニメーション作品は、250本ぐらいだと思う。
その中で特に印象に残っている12本。

「物語たちへ」山中澪 2016年
「怪獣風呂」橋爪伸弥 2016年
「ナポリタンの夜」坂元友介 2015年
「ポップコーンは映画鑑賞がしたかった」若井麻奈美 2014年
「真逆のふたり」ティモシー・レッカート 2012年
「ギーダ」ロザーナ・ウルベス 2014年
「ルビコン川」ギル・アルカベッツ 1997年
「Rhizome」ボリス・ラベ 2015年
「Deux Amis」ナタリア・チェルニシェヴァ 2015年
「My Home」ニュン・フォン・マイ
「ダム・キーパー」2013年
「頭山」山村浩二 2002年

物語たちへ」と「ナポリタンの夜」については以前に書いたので割愛。

「怪獣風呂」は、少年とセロリの怪物が戦う話。
怪獣風呂のある街がみっちりと描かれていて、ひとコマひとコマ、コマ送りして看板の文字だのごみバケツだのをチェックしたくなる。

「ポップコーンは映画鑑賞がしたかった」は、文字通り、ポップコーンが映画鑑賞する話、というか、映画の途中で食べられちゃったポップコーンたちが泣いたり怒ったり、わあわあきゃあきゃあと転げ回ったりする話。
健気なポップコーンたちが可愛くて仕方がない。
最初で最後の映画鑑賞は楽しくって、とてもとても切ない。

「真逆のふたり」は、老夫婦が二人きりで住む家の中が主な舞台。
二人は床と天井の違う平面に住んでいて、お互い、床にいるのが自分で、天井にいるのが相手だと考えている。
180度違う面に暮らす二人には長いこと交流がなかったのだが、ふとした拍子に関わりが出来始める。
ああ、こうなっている夫婦、いるいる。

「ギーダ」では、長年、会計関係で真面目に働いてきた老女が、ある日、ヌードモデルのアルバイトを始める。自分の殻を破って、のびのびと振舞う彼女が大変魅力的。

「ルビコン川」は、昔からある論理パズルを題材にした作品。
農夫とキャベツとヒツジとオオカミが川を渡ろうとしています。ヒツジは農夫がいないとキャベツを食べ、オオカミは農夫がいないとヒツジを食べます。ボートは農夫がこぎ、他に1個か1頭だけ乗せることが出来ます。全員が無事に川を渡るには、どうしたらいいでしょうか。
というのが、元々の問題。
最初は農夫とヒツジが大人しく川を渡っていたけれど、だんだんにオオカミがヒツジの皮をかぶったりヒツジがボートをこいだりして、おかしくなってくる。
次に何が出てくるかわくわくしながら観たけれど、結局彼らが川を渡れたのかどうか、さっぱり覚えていない。

(続く)
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2017/1/7  23:03 | 投稿者: 時鳥

帰宅すると、部屋のドアの郵便受けにマンションのチラシが2枚差し込まれていた。隣室のドアには何も入っていない。
ふと、疑念が芽生える。
広げてみると2枚は同じチラシではなく、別の内容のチラシだった。隣の人が要らないチラシを押し付けたのではないかと言う疑念は、跡形なく消え去った。隣の人は先に帰って来て、もうチラシを取り込んでいたのだろう。

今回は平和な結末を迎えたけれど、でももし、ポスティングの人がうっかりミスで同じチラシを2枚差し込んでいたら、どうなっていただろう。
ポスティングのミスを疑いながら、同時に隣の人の悪意も疑っていたような気がする。
チラシ1枚から始まる疑心暗鬼。
イアーゴはハンカチ1枚でオセローの嫉妬心を煽ってみせたけれど、それは決して大げさな話ではない。一枚のチラシから不和が芽生える事だってある。似たような事例は、割と日常的に転がっていると思う。
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2017/1/5  22:21 | 投稿者: 時鳥

映画と呼んでいいものが91本。
ほか、バレエやオペラや歌舞伎などの舞台映像、シェイクスピアのテレビドラマやらが合わせて十数本。
短編アニメーションは200本以上になるので、後日、別項で。

ベスト4
「アダム氏とマダム」ジョージ・キューカー 1949年
「黄昏」マーク・ライデル 1981年
「孔雀夫人」ウィリアム・ワイラー 1936年
「居酒屋」ルネ・クレマン 1956年

次点
「ステキな金縛り」三谷幸喜 2011年
「ビル・カニンガム&ニューヨーク」リチャード・プレス 2010年

キャサリン・ヘップバーンの出演作品が奇しくも2作。
「アダム氏とマダム」はスクリューボール・コメディの傑作。
浮気した夫を撃った妻の裁判を、判事の夫と弁護士の妻が担当し、法廷で争う。
仕事でなんだかんだやり合っても、家に帰ると甘々な夫婦のやりとりが楽しい。

「黄昏」は、湖畔でバカンスを過ごす老夫婦と娘一家を、しっとりと描く。
中心となる父と母と娘の演技が非常に素晴らしい。

「孔雀夫人」は、引退した実業家とその夫人が主人公。
欧州旅行に出た二人は、徐々にお互いがかみ合わないことに気づく。
悪い人ではないがやや軽薄な妻と、質実剛健を体現したような夫の道行は、渋いもの、苦いもの、くすんだものが随所に混じる。
それも人生の味わいのひとつと思えるなら、幸せになれるのだろうけど。

「居酒屋」は、見たその時は特別面白いとは思えなかったんだけど、
後になって思い出すと、映画全体に漂う詩情が残り香のように脳裏に甦り、
ああ、いい映画だったなあ、としみじみ思う。


「一本刀土俵入」 2004年 歌舞伎座
これは、映画以外の映像でのベスト。
中村勘九郎と中村福助が主役のふたりを演じる。
主人公の力士は、師匠に見込みがないと言われ、故郷に戻されたが、どうしてもあきらめきれない。もういちど夢に挑戦しようと歩いて江戸に向かう途中、一人の酌婦と知り合う。
酌婦の彼女は、もう未来に明るいものを見出せない。二階の欄干に寄りかかって、盃を傾けながら往来を見下ろしている。
通りすがりの力士と、二階の酌婦は、触れることなくただ言葉を交わす。
夢はたぶん叶わない。
観客は気付いている。そして、彼も彼女もおそらく気付いている。
それでも約束を交わす。叶わぬ可能性の高い夢に、それでも彼女は希望を託す。
だから、夢が破れても、胸を張れない身の上になっても、信じてくれた相手のために、自分の出来ることなら何だってしようと思う。
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2017/1/3  21:53 | 投稿者: 時鳥

昨年読んだ本は、141冊ほど。

ベスト5
『私たちが子どもだったころ、世界は戦争だった』サラ・ウォリス+スヴェトラーナ・パーマー 文藝春秋社
『逃げてゆく水平線』ロベルト・ピウミーニ 東宣出版
『えーえんとくちから』笹井宏之 パルコエンタテインメント事業部
『僕は、そして僕たちはどう生きるか』梨木香歩 理論社
『翻訳がつくる日本語 ヒロインは「女ことば」を話し続ける』中村桃子 白澤社


『私たちが子どもだったころ、世界は戦争だった』は、第二次世界大戦中の子供が書いた手記を元に構成された本。
日本、ロシア、フランス、アメリカ、イギリス、ドイツ、ポーランド、置かれた立場によってこんなにも境遇が異なり、考えが異なる。
追い詰められて死んでいく若者の手記は、読んでいてしんどい。読むけど。

『逃げてゆく水平線』は、イタリアの児童文学。
想像力に満ちていて情景は美しく、語り口は楽しいのだけど、しばしば切なかったりぴりりと辛かったり。

『えーえんとくちから』は、短歌の歌集。
早春の光みたいに、淡く澄んでいて、か細いけれど確かなものを抱えている。

『僕は、そして僕たちはどう生きるか』は、小説でありながら哲学書のようでもあり。
何が正しいのか、何回か、ちょっと立ち止まって考えさせられる。

『翻訳がつくる日本語』は、翻訳物における独特の話し言葉について論じた本。
若い男性は妙に砕けた言葉で、女性は女言葉で話すが、日本人の若い男性も女性も、そんな言葉で話したりはしていない。
黒人奴隷は東北弁みたいな言葉で話すが、それは実際の方言とは異なっている。
日本人とは微妙に異なる言葉を彼らは話しているのだが、いつしかそれは、日本人が話したり書いたりする日本語にも影響を与えている。


ほか、入れようかどうか迷った本。
『カストラートの歴史』パトリック・バルビエ 筑摩書房
『コルセットの文化史』古賀令子 青弓社
『暇と退屈の倫理学』國分功一郎 朝日出版社
『アリバイ・アイク』リング・ラードナー 新潮社
『ケチャップの謎』マルコム・グラッドウェル 講談社
『ジャック・リッチーのびっくりパレード』ジャック・リッチー 早川書房
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