2017/3/31  23:19 | 投稿者: 時鳥

映画館でバレエを見る。
演目は、ボリショイ・バレエの「明るい小川」。
「明るい小川」は元々、ショスタコーヴィチが1930年代に作曲したバレエ音楽で、初演もその時期だったが、すぐに当局に目を付けられて上演できなくなった。
今世紀に入ってから、その音楽に、アレクセイ・ラトマンスキーというボリショイ・バレエ学校出身の振付家が振付けて、ボリショイ・バレエの演目にした。

農場「明るい小川」を舞台に繰り広げられる、2幕の喜劇バレエ。
田舎の農場にある日、モスクワからバレエ団がやってくる。
農場で暮らすジーナと一座のバレリーナは、かつてバレエ学校での旧友だった。
偶然の再会を二人は喜び合う。
ジーナの夫ピョートルは、バレリーナに一目惚れし、別荘の住人である初老の夫婦は、バレリーナとバレエダンサーにそれぞれ熱を上げる。
農場の人々、バレエ団の人々が入り乱れて、昼のエネルギーを振りまく。
続く第2幕はその日の夜の出来事。
バレリーナの発案で、ジーナはバレリーナのふり、バレリーナは男装、バレエダンサーは女装して、それぞれにややこしい逢引を執り行う。

ロマンティック・チュチュの襟ぐりから胸毛をのぞかせたバレエダンサーと、ひょろっと背の高い、とぼけた雰囲気の老人が「ジゼル」のようなバレエを踊る。
バレエダンサーはしょっちゅう地金が出るし、老人はタイミングを外すわ、古女房に見つかりそうになって逃げるわ、バレエダンサーにおちょくられるわで、てんで決まらず、面白いことこの上ない。
古女房は古女房で、フラメンコダンサーの如き真っ赤なフリルのドレスを着て登場し、猛烈に迫って男装のバレリーナをたじろがせる。
気障なアコーディオン奏者、こまっしゃくれた少女、農場のお偉方など、周りを固める人物も個性豊かな踊りをたっぷり見せてくれる。

いかにもボリショイらしい演目だと思う。
スピーディーで切れのいい踊りが次々に繰り出され、凝った振り付けも軽々と踊られる。
活発で飾り気がなく、登場人物の性格や台詞が身体の端々から素直に伝わってくる。
ショスタコーヴィチの音楽は若々しくて、生きがよい。
ロシアの田舎らしい、土臭くて健康的な力を持つ一方で、所々にジャズの臭いを感じさせたりもする。
そしてボリショイ・バレエ団が、この音楽と振り付けにぴたりとはまっている。
他のバレエ団では、この泥臭さ、よい意味でのダサさが出ない。
スマートに演じてはいけない演目なのだ。
舞台美術も、そこはかとなく田舎っぽくって、抜けたところがあって、ロシアの田舎のよいところを凝縮したみたいな味わいがある。
ソリストが素晴らしいのは当たり前としても、群舞の一人一人にいたるまでが生き生きとしていて、自信満々で踊っているように見える。
これは自分達の演目だと、全身で言ってるようだ。
最初から最後まで、退屈する暇がないくらい楽しくて、いいもの見たなあ、と上機嫌で映画館を出る。
こんな無条件に楽しいバレエも珍しい。

「明るい小川」2012年4月29日 ボリショイ・バレエ
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2017/3/28  22:31 | 投稿者: 時鳥

迎賓館が一般公開されていて、今なら事前申し込みなしで見学できる。
と知って、休日に四谷まで見に行った。
東京近郊に住むからには、一度は見ておいたほうがいいと思ってはいたけれど、事前申込みするほど興味がなかったので、これまで見学したことがなかったのだ。
写真で見て、あまり好みではなさそうだという印象を持ってはいたのだが、いざ見に行ってみると本当に好みではなかった。
ヨーロッパの宮殿の模造品みたいだ。けばけばしくって大仰で凝っている。凄いものだとも、偉いもんだとも思うけど美しいとは思えない。作った人たちは、これがいいと本気で思ってたんだろうか。ちょっと信じがたい。いい材料と当時最高の技術が駆使されているのはわかるけれど、そこじゃないのだ、美しさと言うのは。
なんか、こう、ここまで日本の感性からかけ離れた場所って珍しい。
今も外国からの賓客をもてなすのに使っているそうだけど、日本を代表するのにこんな外国みたいな場所を使っちゃっていいんだろうか。
建造された当時ならまだしも、現代でも本当にこういうので迎賓しなきゃ駄目なんだろうか。
首をひねりながら本館を出て、前庭を通って、門までたどり着く。
門の両脇にあった警備員の詰め所が愛らしくて、顔がほころぶ。
人一人が入れるだけの小さな円筒形の小屋で、白い壁に緑の丸っこい屋根がかわいい。
結局、この宮殿で見たものの中で、これが一番、気持ちのいいものだった気がする。
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2017/3/27  22:22 | 投稿者: 時鳥

武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」という曲を聴く。
読んでいた本に出てきたので、興味を持ったのだ。
尺八と琵琶を独奏楽器に迎えた管弦楽曲で、1967年にニューヨークで初演された。

面白いなあ、と、聴いてまず思った。
尺八と琵琶とオーケストラが、各々の地盤で、各々の言葉で奏でているのに、ばらばらにならずにひとつの音楽になっている。
合ってないんだけど、かみ合っている。
それぞれの楽器が自分の能力を手加減なしに発揮している。やさしくかみ砕いたりせずに、厳しいものは厳しいままに、難しいものは難しいままに差し出している。
異質なものがぶつかる。熱量は拮抗している。文法も単語もまるで違うのだけど、不思議なことに通じている。ちゃんとぶつかって、逸れない。
表面は違うのだけど、根っこかゴールはもしかしたら、同じなのかもしれない。

和楽器と洋楽器が共演する曲を聴いたことは、これまでに何度もある。
和洋の楽器が一緒に演奏する場合、多くは、和楽器が五線譜の楽譜を使って音を出す。
でもそれは、琵琶や尺八の本来の音の出し方ではない。
楽譜とは言ってみれば、世界を切り取るためのマニュアルだ。手順に沿うことで音楽が再現できるレシピ。だから、その音楽の世界で重要と考えられていることが載り、そうでないことは載らない。
日本の琵琶や尺八の世界と、ヨーロッパのバイオリンやオーボエの世界とでは、重要と考えられていることが明らかに違う。
琵琶が五線譜に沿って、あるいはバイオリンが琵琶の楽譜に沿って音を出すことは可能だろうが、それは彼らにとっては外国語に等しい。

ある楽器がある。その楽器が一番生きるかたち、本来の能力を一番発揮できるかたちを模索して、長年かけてその楽器の音楽世界が構築される。
また、ある音楽の世界がある。その音楽の世界を理想的なかたちで実現するために、ある楽器が生み出され、材料、形状、奏法、その他諸々の改良が加えられる。
楽器と音楽は相互に作用しあって、世界を作り上げていく。

別の世界の音楽を演奏することが、悪いわけでは決してない。
ただそれは、その楽器をはぐくんだ場所ではないし、その楽器がその楽器として存在する必然性がない場所だ。
別の世界に連れてこられた楽器はお客様めいていて、易しい言葉で珍しいお話をする異国人のように聞こえることが、時々ある。
共通の言葉で話をしないと通じないから仕方がない、とこれまで思っていたのだが、どうもそうとは言い切れないらしい。
今回、「ノヴェンバー・ステップス」を聴いて、やっとそのことに気づいた。
違っていても通じることが、音楽ではあるらしい。
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2017/3/22  22:14 | 投稿者: 時鳥

催し物のご案内。

「紙博」
会期:
 4/15 10時半〜17時
 4/16 10時〜16時
場所:
東京都立産業貿易センター台東館7階展示室
(東京都台東区花川戸2-6-5)
入場料:500円
http://kamihaku.jp/201704/

紙に関する会社や作家さん49組が参加する紙の博覧会。
紙の専門商社、和紙の製造メーカー、オリジナル紙雑貨のお店、印刷加工会社、ノート屋、カード屋、マスキングテープ、海外の紙雑貨専門店、紙を素材に制作する作家さん、などなど、多彩な顔ぶれが一箇所に集まる。
・・・これ、収拾が付くのだろうか。
あっちこっちの方向から紙の関係者が集まって、がっちゃんこする、デアイガシラな場所になりそうな気配。
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2017/3/20  23:58 | 投稿者: 時鳥

「What Is Your Brown Number?」というタイトルの短編アニメーションを見る。
インドの作家の作品だ。

分娩室の前で待つ家族たち。産声が聞こえて喜んで、「元気な男の子ですよ」と聞かされてまた喜んで、「ブラウンナンバーは80です」と聞かされた瞬間、家族全員が絶望的な顔つきになる。

1から100までの番号が付いたカラーチップがある。
1はクールピンクと呼べそうな白さ、番号が進むにつれて褐色が強くなり、80でミルクチョコレートくらいの色合いとなる。
インドでは、白い肌が尊ばれ、茶色い肌は嫌悪される。
肌の色によって職業が限られ、新聞のお見合い欄では「ブラウンナンバー25以下」なんて条件が付けられる。
日本の文化の中で育った身としては45も70も大差ないように見えるが、彼らにとっては真剣で、少しでも白くなろうと努力し、番号を事細かに気にしている。
上流階級は白く、下流は褐色、と言っても、同じ親から生まれた兄弟でも、肌の色合いは25と80くらいに異なることがある。つまりこの区別に意味はない。
「持って生まれた肌の色で人間の価値が決まるわけがない。こんなのは下らない差別、即刻廃止すべきだ」。
ただ憤慨してそう言い放つのは、とても簡単だ。
でも、だとしたら、何によって人間の価値は決められるのか。
頭脳、身体能力、性格のよさか。それらだって、持って生まれたものではないのか。
判断力だの人当たりのよさだのといった社会的能力だって、大部分は訓練からなるもので、生まれた環境という本人には決められないことで決まってしまう。
「人間の価値を測ることがそもそも悪い、人間は皆平等である」という結論に飛びつく手もあるが、でもお互いの差異を測らずに人間が社会生活を送れるとは思えない。
適材適所は大事だ。
少なくとも私は、能力のない医者に手術されるのは嫌だし、百メートル走は誰よりも速い人に走って欲しい。

肌の色による差別は、私にとってはおかしく見えるけれど、しかし視点を変えれば、私が今いる社会で区別されている事だって、外から見たらきっと奇妙なことばかりなのだ。
世の中は本当に不平等ばかりで、ひとつの不平等を潰しても、また別の不平等の種が見つけ出される。
人間社会がある限り、不平等はなくならないだろう。人は一人一人違っていて、皆同じにはなれない。差異を認めて、評価する。何かしら評価基準がないと評価は出来ないし、評価基準とは価値観のことで、大事なものとそうじゃないものを区別するということなのだから。

問題は、その区別にある程度妥当なものと、馬鹿馬鹿しいだけのものが混在していることだ。
不平等を撲滅することは出来ないだろうが、その力を弱めることは出来る。
まずは、中の人間ひとりひとりが、馬鹿馬鹿しい部分に気づくことが大事だ。
「これは無意味な区別で、こんなことにいちいち振り回されているのは馬鹿げている」と多くの人が気づいて、少し行動に移せば、世界は結構変わる。
「少し行動に移す」が難しいけれど。
でも、ただ気づくだけでも効果はあるところにはあるんじゃないかと思う。
「こんなこと」で悩んで、心を病んだり、外に出られなくなったりする人が、世の中には驚くほどたくさんいる。
職業能力みたいなある程度妥当な区別だって、ある一面から見た尺度にすぎなくて、全人生を支配するようなものじゃ、本当はない。
人が物事を扱いやすくするために便宜的に設けた「区別」。
ただの物差し、ただのツールに人が操られるのは、本末転倒というものだろう。

「What Is Your Brown Number?」Vinnie Ann Bose
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2017/3/18  23:48 | 投稿者: 時鳥

椅子に靴下を履かせる。
フローリングを傷つけないためのもので、商品名はチェアソックスと言う。
椅子の靴下。
しかし、椅子は靴を履かない。
絶対に靴を履かないものにとっては、靴下はもう靴なんじゃないだろうか。
Tシャツは下に着れば下着だけど、表に着れば表着だ。
靴と足の間にあるから靴下なのだ。

考える。

・・・あ、「足袋」にすればいいのか。椅子足袋。椅子の足を包む袋。
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2017/3/16  23:03 | 投稿者: 時鳥

コンサートホールに足を運ぶ。
休憩後、舞台には4台の電子オルガンが据えられ、その後ろには4人の打楽器奏者を必要とするくらいの打楽器が居並んでいた。
その次の曲は、ピアノ2台による連弾である。
舞台がやや暗くなり、壁が開いて黒服のスタッフがするすると湧き出す。
あっちの壁から打楽器と電子オルガンが出て行き、こっちの壁からピアノが入ってくる。
10人以上いるスタッフがほとんど言葉を交わさずに、きびきびと動く。
曲の間の退屈な待ち時間のはずが、つい、目が行ってしまった。
黒服のスタッフが立ち去り、舞台が明るくなる。
衣擦れの音をさせながら、ドレス姿の女性たちが悠然と登場し、演奏を始める。

2台のピアノの前から、女性たちが立ち上がる。
次の曲の奏者は、管弦奏者が合計12人、打楽器奏者2人、ピアニスト1人。
ピアノの1台が壁の向こうに消え、1台は下手に移動し、多種類の打楽器がまた現れて舞台の奥一面を占める。
打楽器が並んだところで、舞台がせり上がって、奥側だけ一段高くなる。
その間に、椅子と譜面台が手前に配置される。
たくさんの物と人があちらこちらと動き回るのに、衝突はひとつも起きない。

最後に、黒服の男性のひとりが残った。
舞台の中央に立って、ポケットから紙を出し、眺めて、見回して、軽くうなずいて、引き上げた。

そういえば、今までの作業中、誰も配置図の類を見てなかった気がする。
数も配置も、ほぼ頭の中に入っているって事だろうか。
単なる舞台転換なのに、手品を見たような気分になる。
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2017/3/13  23:02 | 投稿者: 時鳥

承認者の後ろ半分を、今、初めて見るかの如くに凝視する。
こんなところに忍者が潜んでいるとは、不覚。
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2017/3/10  23:02 | 投稿者: 時鳥

1935年に制作された、サイレントのアニメーション映画。
ものの影のような正体不明のかたちが、リズミカルに動き回る。
最初から最期までそれだけなのに、不思議に目が話せない。
かたちは水面の波のようにも、輪転機のようにも、風紋のようにも、万華鏡のようにも歯車のようにも見える。
流れる動きが目に心地良く、つい見入ってしまう。
見つめていると、音にならない音が頭の中にぱらぱらと流れる。
ピアノの音階練習のように階段状に上がって下って、小気味よいリズムを刻む。
音声がないだけに、音のイメージが固定されずに広がる。
音を映像で表現した作品は、この後もいろいろな人がたくさん作っているけれど、
サイレントの時代の方が、自由に表現できたんじゃないだろうか。
音がないから、音を表現したいと望む。
音なしで、観る人に音を感じさせたいと願う。

「RHYTHM」荻野茂二 1935年 4分 
http://animation.filmarchives.jp/works/view/71605
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2017/3/9  7:50 | 投稿者: 時鳥

音楽用語のページを眺めていて、気付いた。
音楽の「octave」って、そのまま「8度」って意味なのか。
「october」が「8番目の月」というのは昔から知っていたが、
「octopus」が「8本足」であることには今まで気付いていなかった。
シンプルな、見たままの名前。
8本足の動物が少ないから、タコが占有している名詞。
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2017/3/4  23:23 | 投稿者: 時鳥

東京国立近代美術館フィルムセンターが、「日本アニメーション映画クラシックス」というサイトで日本の初期アニメーション映画を公開し始めた。
公開されているのは大正から第二次大戦前にかけての64作品で、多くがサイレントだ。
数日前からぽつぽつと見始めて、今は荻野茂二さんの作品を片っ端から見ている。
個人で制作をされていた方で、時代からすると相当に斬新な作品を作っている。
味わいはモダン、展開はしばしば予想外、技法は人形も影絵も天然色も手がける。
作品ごとに違うので、見てみないと何が出てくるかわからない。
そんなとこも面白い。

日本アニメーション映画クラシックス
http://animation.filmarchives.jp/index.html
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2017/3/3  22:47 | 投稿者: 時鳥

ベランダの植木鉢で雑草を育てている。
よさそうな種をなんとなく蒔いて放っておいているだけだ。
去年の春はシロツメクサとマメグンバイナズナが白い花で覇を競い、後からニワゼキショウが赤紫の花を咲かせていた。
今年の春は、オオイヌノフグリの青い花で始まっている。
夏の終わりに伸びてきたの、やっぱりオオイヌノフグリだったか。
道端で採取したのを自分で蒔いているから、心当たりはあるのだけど、花が咲くまで確証が持てない。
名称不明の雑草が他にも5種類ぐらい生えている。
ひとつは多分、ニワゼキショウ。

去年からいるシロツメクサは、時々間引かれながらも植木鉢の三分の一ほどを占めている。
ちょっと繁殖力が強すぎるけれど、寒い時期にも緑の葉を茂らせてくれるから、全面撤去はしがたい。花も結構好きなのだ。

2週間ほど前、流しに捨てたミニキャロットの根元が青い葉をつけていたので、とりあえず植木鉢の隅に空きを作って、埋め込んでみた。
どうやらこのまま根付くらしい。
雑草たちとミニキャロットの異種格闘技戦。
あるいはミニキャロットのサバイバルゲーム。
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