2017/5/31  21:49 | 投稿者: 時鳥

生ゴミの臭いをフルーティーな香りに変える薬剤が出来たという。
家庭用のスプレータイプのほか、ごみ収集車用にポリ缶タイプも販売されるそうだ。

金木犀がトイレの匂いになったのと同じ現象が起きるんじゃないかと、心配になる。
良い匂いだから金木犀の香りを選んだはずなのに、どこのトイレにも金木犀の芳香剤が出回ると、金木犀の香りがトイレを連想させるようになった。
おかげで本物の金木犀まで不当な扱いを受けている。

中国に桂林という街がある。
話によるとこの街には金木犀の樹がたくさんあって、秋になると街中が金木犀の香りに包まれるという。
この街のトイレの芳香剤は、何の香りをしているのだろう。
少なくとも、金木犀の香りではないような気がする。
自分の住む街はトイレの匂いがする、と住民が思ってしまうのは、街にとっても住民にとっても幸せなことではないだろうから。
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2017/5/29  22:40 | 投稿者: 時鳥

「いつかチェコに行かなきゃ駄目だな」と。
ミュシャ展の会場で決意した。もう10年以上前のことだ。
その場には、連作「スラヴ叙事詩」の下絵と写真が何枚か展示されていて、連作の全作品がチェコのとある城にあることを伝えていた。
ひと目で、これはミュシャの本気の作品だとわかった。
絶対に実物を見たいが、スラヴ叙事詩は20枚の連作絵画作品で、1枚が非常に大きく、輸送は難しい。
そしてさらに重要なことに、これはチェコにとっては民族の宝だ。国外に出ることはまず考えられない。
となると、現地まで見に行かなければならない。絵を見るためだけにチェコまで行くなんて、酔狂が過ぎると思われるかもしれない。だが、ミュシャの「スラヴ叙事詩」にはそう思わせるだけの力があった。写真からでも伝わってくる力だ。

「いつか」はなかなか訪れなかった。健康で、平均寿命までまだたっぷりあったものだからのんびり構えていたら、予想外の事態が出来した。
なんと、「スラヴ叙事詩」の方が日本に来てくれるという。20点全点、展示替えなしで一挙公開。嘘みたいな機会到来だ。
かくして、チェコに行く代わりに六本木の国立新美術館に足を運ぶ。

会場に入り、絵の前で足を止めた。
何分間か一歩も動かず、巨大な絵を文字通り仰ぎ見る。
スラヴ叙事詩は、小さな作品でも高さ4メートル、大きな作品では高さ6メートル、幅は8メートルに及ぶ。
人生を賭けた仕事というのは、本当にあるのだと実感する。
この連作に描くために自分は生まれてきた。少なくとも、画家はそう信じていたに違いない。才能、財産、人脈、時間、自分の持つものを全部注ぎ込んで、この20枚を描いた。

アルフォンス・ミュシャは、チェコのモラヴィア地方に生まれた。
20代でパリに出て、たまたま名女優サラ・ベルナールのポスターを担当したことから一躍人気画家となり、フランスでもアメリカでも名声を博したが、後半生は故国に戻った。
「スラヴ叙事詩」は、故国に戻ったミュシャが17年をかけて描いた、スラヴ民族の歴史群像だ。
どれも力強い絵だが、1912年に制作された最初の3枚はことに気迫がみなぎっていて、圧倒される。
黙って見上げて畏敬の念に打たれた後、泣き笑いに近い微笑が浮かんでくる。
そうか、これが描きたかったのか。よかったねえ、描けて。

傑作と単純には言い切れない部分がある。
ミュシャを特徴付ける流麗な筆致はパリ時代より深みを増し、人々の喜びや嘆きを余すことなく表現する。建築、服飾、儀礼などの文物もよくよく調べて真面目に丁寧に描いている。色彩感覚も飛びぬけていて、叙事詩の名にふさわしい、詩的で典雅で荘厳な空気にあふれている。
しかし、色々なものを画面に詰め込みすぎて、全体的に取りとめがなくなっている部分もあるし、写実的な部分と夢想的な部分が入り混じっていて、どっちつかずな感じもする。
こんな大きな絵にしなくても伝えることは出来たんじゃないかと思わなくもないし、大上段に振りかぶり過ぎてて、押し付けがましい。
基本的にはこの人、画家ではなくイラストやデザインの分野の人なんだと思う。
1910年代から20年代にかけての作品だが、当時の現代美術と並べれば古臭いし、教会美術にしては画風がイラストっぽい。
離れて欠点を探せばいくらでも見つかる。
実際、連作が完成した直後にお披露目をした際には、ほとんど評価が得られなかった。
30年代にはナチスがチェコに侵略し、この連作を描いたミュシャは愛国者とみなされて連行され、何日も尋問を受け、釈放はされたものの、その後すぐに亡くなっている。
遺族が避難させなければ「スラヴ叙事詩」は破壊されて、現在まで残ってはいなかっただろう。

何年も全身全霊をかけて打ち込んだのに世間には受け入れられず、制作期間中に第一次世界大戦が始まり、世界は彼が絵にこめた願いとは裏腹に、戦争へと向かっていく。絵は逮捕の理由となり、死の遠因となる。
結果として「スラヴ叙事詩」は画家に落胆と不幸をもたらしたわけだが、それでも画家は「この絵を描かなければよかった」とは一瞬たりとも考えなかっただろう。
評価されないよりはされたほうがいい、逮捕も尋問もされない方がいい。
でも、この連作で問題とされているのは、そういう外側のことではないのだ。
自分で自分を恥じないで済むか、この世でやるべきことをしたか、とどのつまりは、死んで神様の前に出た時に申し開きができるか、ということなのだ。
こころざしは、覚悟を決めた人間の内部から生まれる光だ。
その光が作品の隅々まで満ち溢れていて、それがこの連作を人類の生み出した宝にしている。
欠点があっても、これより優れた作品がどれだけあっても、関係がない。
堅くて純粋なこころざしがここにはある。

故国を出て、パリで名声を得て、華麗な画風で美女を描いて社交界の寵児となった。
その時代の自分を後年のミュシャは恥じる。
故国のために民族のために、自分はこれまで何もしなかったと悔やむ。
後ろめたさを少しでもぬぐうために、スラヴ民族の歴史を描く。
壮大なスケールで、思いのたけをこめる。
最初の3作品を描いた時、彼は、自分の絵が役に立つと信じていたと思う。
民族の歴史に誇りを持て、と彼は言う。スラブ民族の苦難と栄光を掲げて、その末裔であることに自信を持て、と真正面から演説する。
しかし、その後に彼は一度、信じられなくなったらしい。無条件の礼賛が少し曇る。悲惨な歴史を描いて、救いがない。
このまま先細りになってもおかしくないのだが、20年代に入って、絵が別の光を帯びる。
希望、と言ったらいいだろうか。
過去を描きながら未来を二重写しにして、こうなって欲しいと言っているみたいな作品だ。
ミュシャ個人の思い入れが混じっていて、歴史画としては適切ではないのかもしれない。
しかし、もう一度、こうなれるかも知れないという希望を観る人に与える。

神様の前に出た時に申し開きが出来るか、とついさっき書いた。
神様の前でこの人は、後悔の言葉を述べたかもしれない。
自分の絵は人を動かすことが出来なかった、世界は何も変わらなかった、と。
でも絵には、もう固まって動き始めた現実の流れを別の方向に変えさせる力なんて、元々ほとんど備わっていない。
その代わり、現実ではまだ誰も見ていないものを形にして見せて、迷っている人々を少しだけ引き寄せることはできる。よくない道を選ぶ人が少し減るのだ。
「スラヴ叙事詩」は現在をすぐ変える薬ではなく、未来の行動に対して影響を及ぼす、遅効性の薬だ。効力はまだ切れていない。
病気をあっという間に治す特効薬は、凄いものに見える。
だが、そもそも病気にかからなくする予防薬のほうが、実は特効薬よりも凄いのだ。
治る以前に病気にならないのだから、損失が一番少なくて済む。
ミュシャが魂をこめた「スラヴ叙事詩」は、きっと人類が良心を保つために生み出された予防薬のひとつなのだと思う。
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2017/5/26  21:19 | 投稿者: 時鳥

送話口に向かって「バイバイ」や「じゃあね」と言うと切ることのできる電話が出来たのだそうだ。
カスタマイズで、「バイビー」にすることも出来るという。

バイビーって、久々に聞いた。まだ使っている人がいたのか。
記事の趣旨とは違うところに感心する。
しかし、「バイビー」で切るのは、考えてみれば良い案だ。
「バイバイ」だと、売買契約の話をしている最中に何度も電話が切れる可能性がある。
「じゃあね」も、日常会話の合間にしばしば顔を出す。
となると、普段まったく使わない「バイビー」で切ることにした方が、問題は起きにくい。

普段使わない言葉って意味では、「バイナラ」でも良いと思う。
「バイバイキーン」もありだ。
街角でいい大人が「バイバイキーン」と言っている光景を想像して、微笑む。
そうすると、かかってきた電話を受けるための呪文は、もちろん「ハーヒフーヘホー」になる。
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2017/5/25  23:30 | 投稿者: 時鳥

「コンケア」というシステムについての記事を読む。
従業員の心の不調に気付くための仕組みだそうだ。
タイムカードと連動したシステムで、従業員は出退勤時に6つの天気のアイコンの中から今の自分の気分に近いものを選ぶ。
従業員がするのはそれだけだが、毎日のアイコンの積み重ねを分析すると、そこにはその人の変化が現れる。
普段は晴れと雨がめまぐるしく変わる人が、何日も同じ曇りのアイコンばかり押していたら、何かが起こっている。
また、浮き沈みの少ない曇りの人が雨ばかり、または晴ればかり押すようになったら、それも何かが起こっている。
管理者は、分析結果をもとに話を聞いたり状況を調べたりする。

「普段の天気」は人によって違う。
けれど、パターンというのはやはりあって、そこからの逸脱するのは何か異常が起きているのだ。
こころの天気は外からはあまり見えない。
ずっと同じ調子で元気に働いていた人が、ある日いきなり、時間通りに来なくなる。遅刻や半休が続いて、そのうちに顔を見なくなる。
繁忙期に起きることが多いけれど、それほど忙しくない時期に前触れなしに起きることもある。
顔を見ない人が久々に来たと思ったら退職の挨拶だったり、あるいはそのまま一度も顔を見ないまま荷物が整理されたり。
そんな人をもう何人も見てきた。
誰もが、直前までは他の人と同様に働いていて、外からは特に目立った不調は見つからなかった。
内部では荒れていたのだろうが、職場では皆が自制しているから、よほどのことがなければ表立ってぼろを出すことはない。
そして自制の危険水域を越えて、一気に表面化する。
周囲の人間は、空席を前にして、「ああ、あれね」とお互いに目顔で察する。
「次は自分かも」とどこかで思って、仕事に戻る。
それがよくある事になっている職場は、やっぱりどこかおかしいのかもしれない。

6種類の天気からひとつを選ぶ。
晴れているのは、美味しいご飯を食べたからかもしれないし、仕事がうまく行ったからかもしれない。
アイコンには理由は付かず、情報量は非常に少ない。
だからこそ、本音が出やすい。情報が小さいほど、自制の網目からうまくすり抜けられる。
小さな情報を頻繁に集めて、つなげて、点線にする。
本人すら気付いていないかもしれない微細な揺れも、ひょっとしたらこの点線の上には、現れるのかもしれない。
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2017/5/21  23:41 | 投稿者: 時鳥

国立科学博物館で企画展「卵からはじまる形づくり 発生生物学への誘い」を見てくる。
日本発生生物学会50周年を記念した企画展で、無料配布のパンフレットは50ページ以上もある分厚いものだ。
帰宅して、自室でこのパンフレットをめくる。
表紙はニワトリの胎児の写真、内容は前半では展示の内容を要約し、続く後半部では「写真で見る発生生物学編 発生生物学者の渾身の一枚」と題して研究者の自慢の1枚を載せている。
詳しい解説はWEBで、となっているので、何がどうすごいのかなかなかわからないけれど、鮮やかに輝くホヤの胚や細胞性粘菌など、目を奪われる写真が次々に現れる。
しかし、会場にいる時は科学モードに入っていたから何も思わなかったけれど、日常生活モードで見ると、なかなかにグロテスクな写真群である。
どのモードで見るかによって、同じものがまったく違って見える。
私自身はモードを切り替えて見るのに慣れているけど、科学モードで見られない人にはこれは美しくも面白くも見えないんだろう。
この写真を撮った人たちは間違いなくこれらを美しく面白いと思っている。
それ以外のモードを内蔵していなくて、グロテスクと感じる人の感覚が逆に理解できないかもしれない。
でも、自分が本当にいいと思うものをまず提示するのは、それはそれでひとつの正解だと思う。
これだけ熱のこもった写真なら、万人受けはしなくても、少数の人の興味にピンポイントで刺さることはまず間違いないから。
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2017/5/18  22:14 | 投稿者: 時鳥

背後から車が近づいてきたことに気付いた。
最近の車はエンジン音が静かになって、近くまで来ないと気付けないことがある。
ハイブリッド車などはそのままだと静か過ぎるから、自動車メーカーのほうでわざとエンジン音のようなものを発するように作っているのだそうだ。
それでもまだ静かだ。

普通のクラクションとは別に、エンジン音のクラクションを車に設置してみたらどうだろう。
ボタンを押すと、エンジン音っぽいものが発せられて、歩行者が車の存在に気付くという仕組みだ。
クラクションを鳴らされるのが好きな歩行者なんていない。
だから、クラクションは極力鳴らして欲しくないけれど、危険に気付けないのは非常に問題がある。
エンジン音のようなものでそっと教えてくれると、威圧的な感じを受けない。
自動車も歩行者も、気分よく安全を保てると思うんだけど。

でも、そう感じるのも、歩行者がエンジン音のクラクションに慣れるまでで、慣れてしまったら従来のクラクションと同じ様にやっぱり威圧的に感じてしまうんだろうか。
一時的な緩和策にしかならないだろうか。
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2017/5/16  22:49 | 投稿者: 時鳥

申込フォームを開いて、氏名などを手早く入力する。
所属、という項目で、手が止まった。
必須入力項目のマークが付いているから、何か入力する必要がある。
あちらとしては、学校名や会社名や所属組織を入力して欲しいらしい。
会社員だから、勤めている会社はあるけれど、
しかしこれは休みの日に個人的に参加する催しなのだ。
仕事中は会社に所属しているけれど、それ以外の時間は所属していないと
思っているから、ここで会社名を入れるのは私にとっては理にかなわない。
家族や血縁に所属しているとして、○○家と入力しようかとも思ったが、
一人で参加するのだし、内容も家族や血縁とは関係がない。
都道府県や区などの所在地もしっくりこない。
日本国も日本社会も間違いではないけれど、日本人として参加するわけでもない。
普通に人間として参加したいだけなのだ。

あれこれ考え、結局、「社会」と入力して送信ボタンを押す。
少なくとも、社会に所属している人間であることだけは確かだ。
どんな催しに参加するにしても。
今になって思うと、「世間」でもよかったかもしれない。
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2017/5/15  22:49 | 投稿者: 時鳥

静かな部屋で生活している。
テレビ、ラジオ、ステレオ等の音響機器を使わないので、周囲の部屋の物音がしばしば聞こえる。
声の響きや生活音は知っていても、顔を合わせたことはほとんどない。
実は、感じていると思っている隣人の気配は、全部つくりものだったりして。
スピーカーで部屋ごとすっぽり包まれていて、そこから物音が流れているだけだったりして。

それは妄想だけど、部屋をスピーカーの類で包んで、別の場所にいるように体感させるっていうのは、まあまあ面白い考えかもしれない。
遠くの海の音が部屋の外のスピーカーにライブ配信される。
鳥の鳴き声や風の音も生で入って、海のそばにいるような気分になれる。かもしれない。
実際の窓の外に流れている音をシャットアウトしないと、音が混じっておかしな感じになってしまうけれど。
現在いる場所を極力消して、ここではない場所を疑似体験する。
一時的ならいいけど、「今ここ」をなかったことにするのって、日常にしてしまうのは不健全な気がする。
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2017/5/12  1:00 | 投稿者: 時鳥

日付が変わる頃、かぼちゃの煮つけをまくまくと食べる。
思ったんだけど。
シンデレラの馬車になったかぼちゃって、魔法が解けた後、どうなったんだろう。
御者役のトカゲや馬役のネズミは勝手に逃げたはずだけど、かぼちゃはその場に放置されただろう。
シンデレラに、かぼちゃを家まで持ち帰る図太さがあるとはちょっと思えない。
翌朝、通りかかった誰かがあっさり持ち帰って、パンプキンパイにしたとか。
あるいは、道の真ん中にあったかぼちゃにつまずいて転んだところに馬糞があって、踏んだり蹴ったりとか。
あるいは、馬車にひかれて西瓜割りのように真っ二つとか。
あるいは、かぼちゃにはまだ魔法がかかっていて、誰にも切ることができない固い固いかぼちゃになっていて、興味を持った近所の物好きな金持ちが懸賞金をつけるとか。

「このかぼちゃを切ることができる者を探しています。
 褒美として、男性なら金貨を、女性なら結婚相手に迎えます。」
こんな感じの図々しい貼紙を出して、賞金だか結婚だかを目当てにした人々が群がって、ひと騒動起きるのだ。
シンデレラが切り方を知っていて、王子と好事家が恋の鞘当をしたり。
ネズミの助けを得た孤児が見事にかぼちゃを切って、得た賞金で旅に出たり。
その後、固いかぼちゃの皮を使って武具を作る職人が現れたり。
かぼちゃの皮の成分を分析して、繊維工学の分野に新しい地平を拓く科学者が現れたり。

それはまた、シンデレラとは別の話。
想像は尽きない。
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2017/5/9  23:37 | 投稿者: 時鳥

『パスタと麺の歴史』という本をめくっていた。
著者は多分英語圏の人で、原著はロンドンで発行されている。
欧米のパスタについての記述が主で、最終章で世界の麺類が紹介されていた。
「日本の麺」という項では、次の食品の名前が挙がっていた。

蕎麦、そうめん、冷麦、うどん、春雨、ところてん、ラーメン、しらたき

日本人が選ぶ「日本の麺類」には、絶対にランクインしない食品がいくつか混じっている。
ところてんは麺だったのか。気付かなかった。
でも、これが外部から見て日本らしい麺類、あるいは特色のある麺類なのだろう。
きしめんとかほうとうとかは、外国にも似たものがたくさんありそうだが、こんにゃくを原料にした麺はあまり類例がないのだろう。
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2017/5/7  23:31 | 投稿者: 時鳥

茹で蛙のエピソード、というものがある。
何冊の本で目にし、何度話に聞いたかわからないくらい、しばしば引き合いに出される話だ。
カエルを熱湯に入れればすぐに跳んで逃げるが、カエルを水に入れてだんだんに水温を上げていくと逃げることをせず、ついには茹だってしまうのだそうだ。
実際にやったところを見たわけではないから、それが真実かどうか知らない。
探せば映像が見つかるかもしれないが、あんまり見たくない。
だから、本当のことを言うと、このエピソード、個人的にはあまりぴんと来ていない。

流しのスポンジがへたへたと薄くなってきた。
薄汚れてもきている。
新しいのに換えてもいい頃なのだが、ずるずると日延べをしてしまう。
変えるのなんてすぐ出来るし、使い続けていいことなんて何もないとわかってはいるのだけど、区切りがないと、小さな行動すら実行できない。
いきなり汚れたのなら換えられるが、毎日少しずつくたびれていくので、ある日、いきなり、非常にくたびれていることに気付くのだ。
茹で蛙の話とよく似た現象だ。
茹で蛙より流しのスポンジや歯ブラシの交換時期にした方が、実感が湧いてわかりやすいと思う。
流しのスポンジだと、カエルの命みたいな実害がないから、「それがどうした」になってしまうけれど。
人を動かす切迫感に欠ける。
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2017/5/5  23:20 | 投稿者: 時鳥

アルフォンス・ミュシャの「スラヴ叙事詩」を見に行く。
人生を懸けた仕事というのは、本当にあるのだと、改めて思う。
正直に言えば、物凄く上手い絵ではない。
新しいことをしているわけでもないし、バランスも良くないし、あらを探そうと思えば探せる。
が、そういう問題じゃないのだ。
どうしても描かなければならないという気迫が、画面からひしひしと伝わってくる。
特に、最初の三枚。
やっぱりこの人、この連作を描くためにこの世に生を享けた人だ。

(ちゃんと書きたい話題ではあるのだけど、ちゃんと書こうとして結局書けず終いになったら嫌なので、まず断片だけでも残してみることにする)
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2017/5/3  22:11 | 投稿者: 時鳥

東京駅前の丸善に行く。
エレベーターに乗ったところで、屋上庭園が開放中であることに気付き、即座に行き先を変える。
板敷きのフロアに、植え込みがあって、フロアの切れ目から若木が何本か突き出していて、壁面緑化スペースもある、「なんか流行っているから一応それっぽく作ってみました」って感じの庭園だった。
客はなく、閑散としている。眺望もそんなに良くない。
さほど熱心ではないようで、緑化された壁のうち一面は、園芸植物らしきものがあまり残っておらず、空いたスペースでは雑草がぽんぽんと生えていた。
近所から種が飛ばされてきたらしい。
秩序はないけど、元気。
その場所に適した雑草が勝手に生えて、無理しないで生い茂ってくれるなら、それはそれで問題がない気がする。
壁面緑化として至極真っ当だ。
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2017/5/1  21:39 | 投稿者: 時鳥

銀杏並木は只今、新緑。雨は上がったばかり。
真新しい梢は削ったばかりの鉛筆のようにとがって、浅緑の高さを競って背伸びしている。
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