2017/9/30  23:45 | 投稿者: 時鳥

職場に急ぐ人々が忙しく行き交う歩道に、数羽のハトが紛れ込んでいた。
けとばされそうになりながらも、安全な場所に逃げようとしない。
どうやら、歩道の木々から落ちたどんぐりが、人々に踏み潰されて
割れているのを狙って食べにきているらしい。

朝は、道路清掃人の仕事時でもある。
歩行者だけでなく、清掃人の隙も狙わないといけない。
生きるって大変。
どんぐりをひとつ踏んでみるが、あまり固い靴底ではないためか、
割ることができなかった。
ごめん、ほかの人に割ってもらって。
3

2017/9/29  23:49 | 投稿者: 時鳥

細かく切ったわらくずを漉き込んだような、ベージュの紙。
わらか木か、詳細は分からないが、見るからに植物性の繊維がびっちりと漉き込まれている。繊維の長さは最長で5mm、ひとつひとつはまっすぐで、途中で曲がったりはしない。見ただけで、ちくちくした触感が想像できる。
紙をよく観察すると、わらくず以外にも黒っぽい粒子が混じっている。こちらは線ではなく、点。3cm角に1個くらいの割合で、黒い塵のようなものがぽつりぽつりと見つかる。故紙の類を混ぜているのかもしれないし、藁くずの表皮が混じってしまったのかもしれない。
凹凸のある紙なので、万年筆なら必ずペン先が引っかかる。
印刷をすれば、かすれや抜けが間違いなく出来て、それが独特の味わいになる。
手ごたえはがっしりとしている。
張りがあって、自己主張が明瞭で、曲げても押し返して来るように感じる。
何と言うか、物としての力がある紙なのだ。
本の表紙かカバーに使ったら実際の重量よりも重く感じそうだし、活字を追う目とは別に手は感触を記憶していて、読んだ後に内容を思い出そうとすると、同時に手触りまで無意識に思い出している。
素朴でひなびた印象の紙で、古民家の壁や素焼きの陶器などを連想させる。
自然の匂いはあるが、山野にそのまま存在するものと言うよりは、自然に人間がちょっとだけ手を入れたものによく似ている。

「新バフン紙」特殊紙|柄|ゆげ
104.7g/u
2

2017/9/27  7:35 | 投稿者: 時鳥

真っ白な羊毛のかたまり。丸いかたまりに黒い眼が点り、口が開く。
まだ真っ白な生き物だ。
暗色の毛糸やリボンでできたかたまりが白に眼を留め、声をかける。
かけた声は赤い毛糸になって白の中に吸い込まれ、口元を紅のように縁取る。
微笑んだ白が、白い糸を吐く。それは暗色に入って、頬のあたりに縫い止められる。
出会い頭、関わりの始まり。

英国のアニメーション作品。
7分の作品の中で、2つの生き物が出会って、幾重にもつながって、影響を与え合って変わる。
黒いものにとらわれて、相手のことが見えなくなる。
ふたつの毛玉によって語られる、至極当たり前の恋物語。
ふわふわした繊維が広がる空間はあたたかくやわらかく、閉じられている。
お互いしかいない閉じた空間で、色とりどりの糸が幾重にも交わされ、絡まる。
やわらかくてきれいなものでがんじがらめにされる。ああそうだなあ、と思う。
シンプルでとてもわかりやすい物語なのだけど、結末だけは解釈が分かれそうなものになっている。
見終えて、あれはどういうことだったのかともやもやする。
心のもやもやと映像世界のもやもやした感触が重なり、忘れがたい。

「A Love Story」Anushka Kishani NAANAYAKKARA
2

2017/9/25  23:16 | 投稿者: 時鳥

「LISTEN」という題のドキュメンタリー作品を見る。
約1時間にわたる映像には、音声がまったく付けられていない。
出演者は15人の聾者たちで、主題は音楽。
彼らに対するインタビューの場面では、手話に日本語の字幕が付く。
インタビューもあるが、メインとなるのはひとりひとりが考える
「音楽」を身体で表現する場面で、清新な表現が大変印象深い。

これを舞踊と呼んでも間違いではないのだろう。
だが、舞踊を目指して舞踊になったのではなく、
表現を探したら舞踊に近いものになったのではないかと思う。
こうしたらこう動くべき、という決まったものが無く、即興的で自由だ。
彼らの身体は雄弁で、特に手首から先の雄弁さは際立っている。
身体のほかの部位が雄弁な人はダンサーにはたくさんいるが、
手首から先がこれだけ雄弁な人はダンサーにも滅多にいない。

動きを高い精度で意識している人たちなんだろう。
たとえば、耳が聞こえてダンサーでもない普通の人にとっては、
机の上にあるものを取り上げる時に右手の薬指の第一関節を
曲げるか伸ばすかは大した違いではない。
完全に無意識に身体を動かしている。
だが、この映像に出てくる人たちはそうではない。
伸ばすか曲げるかで意味が変わる世界に住んでいる人たちで、
だから、手話で話す時でなくても、動きのちいさな違いを明確に意識している。
生きてきた世界って、こんな風に端々に顔を出す。

「LISTEN」牧原依里、雫境
2

2017/9/23  23:55 | 投稿者: 時鳥

ミミズ研究の第一人者、中村好男さんのインタビュー記事を読む。
ミミズにいろいろな種類がいることを知って、驚く。
北極圏と赤道直下で種類が違うのは、当たり前と言えば当たり前なんだけど、何となく同じ種類が全世界にいるように思っていた。
ミミズなんて外見の差異がほとんどなさそうなのに。よく分類できるなあ。
高校生向けの生物事典でもミミズをひいてみる。
ミミズ類は別名を「貧毛類」と言うとの事。
確かに毛は少ないけど。ミミズだけに特定しなくて良い気がする。
1

2017/9/19  23:39 | 投稿者: 時鳥

通りすがりに、六本木のフジフイルムスクエアをのぞく。
半分通路の小さな展示スペースで、コロジオン湿板写真の個展が開かれているのを見つける。

湿板写真は昔々の写真技法で、それこそ19世紀の肖像写真なんかで使われている技法だ。
非常に手間のかかる技法で、乾板式写真術が発明された後はすぐに廃れたし、
フィルムからデジタルに移行しつつある今では、わざわざ湿板写真で撮影する人なんて皆無と言って良い。
各種薬品を操らなければならないので知識も技術も必要だし、薬品で板が濡れているうちに
撮影しなければならないので時間との闘いも厳しい。
写真家によると、半年かかって約200枚撮影するのが精一杯だったそうだ。
それでも、この写真家はあえて湿板写真にこだわる。湿板写真にしかないものがあるのだ。

重力に異常をきたしているような写真だった。
濃密な黒。密度が高く、闇がひしめき合ってぎしぎしと軋んでいる音が聞こえてきそうだった。
被写体は樹木やゴーヤーやストーブなど、身近にあるものなのだが、どれもこれもが強烈な質感で迫る。
別の生き物の視界が、突如眼の前に投げ出されたように感じる。

例えば鳥は、私が見ているのとは違うように世界が見えている。
虫には虫の、猫には猫の世界の見え方がある。
すぐ隣に座っている人だって、きっと私とは違う見え方をしているだろう。
常日頃からそう思っていたが、あくまでそれは想像で、実体験することはできないはずだった。
私は私の眼でしかものを見ることが出来ない。
その考えにひびが入った。
この写真に写っているものはどれも知っている。だが、一度もこんな風に見えたことはない。
非現実的な映像だけど、存在感は重く厚く、これが実在しないはずはない。
とすると、これは別の生き物の眼なのではないか。
見えないはずのものを、自分は写真経由で眼にしているのかもしれない。
そんなことを思う。

「未知の引力 魯晴写真展」
フジフイルムスクエア ミニギャラリー
期:9/8〜9/21 10時〜19時(最終日〜16時)
2

2017/9/17  23:21 | 投稿者: 時鳥

初台の東京オペラシティアートギャラリーに足を運ぶ。
ここでは現在、「第20回文化庁メディア芸術祭受賞作品展」を開催中である。
今日のお目当ては、映像作品「LISTEN」の上映を見ること。
見終わった後に展示室にも足を向けたのだ。

「あなたは、翌日私に会いにそこに戻ってくるでしょう。」という題名の作品が展示されたスペースで、しばらく足を止める。
津田道子さんの作品で、新人賞を受賞している。
去年のICCオープン・スペース2016で長期展示されていた作品で、今回は同じ建物内の別のギャラリーでの展示となった。

12の枠が天井から吊られている。
枠は素通しだったり鏡だったり、ちょっと離れた場所にあるカメラからの映像を投影したスクリーンだったりする。
いると思った自分がいなかったり、いきなり後姿で現れたり、別の枠に邪魔されて下半身だけが見えたりする。
あれっ、と、思う瞬間の連続。枠の間をぐるぐると回遊する。
この中にはひとつだけ、24時間前の展示室を映すスクリーンがある。
それが題名の由来である。

そういえば、昨日も大体、これくらいの時間に来ていたっけ。
件のスクリーンの前で自分が現れるのを待つ。
しばらく待つと、やってきた。
翌日の自分に待ち伏せされているだなんて思いもしないから、何の気なしに歩いてくる。
今いるこの場所を歩く、昨日の自分を見て、奇妙な気分になった。
同じ大きさの紙を2枚重ねて、下の文字を透かして見ているような、二重写しの感覚。
確かに私で、こんな行動をした記憶もあるけれど、この視点ではなかった。
今日の私が待ち伏せしようなんて気まぐれを起こしたから、昨日の私は待ち伏せの餌食になっている。
待つ人と待たれる人が同一人物。これもおかしな感じ。

「あなたは、翌日私に会いにそこに戻ってくるでしょう。」津田道子 2016年
2

2017/9/14  23:37 | 投稿者: 時鳥

時は17世紀、フランドル地方の小都市ボームは祭りの準備に忙しい。
そこへ、スペイン軍の部隊が近づいているとの報が入る。
残虐で名高いスペイン軍に怯える人々。
市長をはじめとする町の有力者は頭をつき合わせて知恵を出し合い、名案を思いつく。

市長が死んだことにしよう。
逆らわずにみんなでそーっと隠れておこう。

それ名案なのか、という突っ込みを観客としては入れたいところだが、
観客が突っ込む間もなく行動を起こした人がいた。
市長夫人を筆頭とする街の女性陣だ。
事なかれ主義の夫たちに任しちゃおけない、自分たちで何とかしよう、
と演説をぶち、即座に臨戦態勢に入り、武装を整える。
といっても、刃物や鉄砲や馬具を持ち出すのではない。
長持から出した一張羅でドレスアップし、食べ物や飲み物を用意して、
城郭の外まで迎えに出るのだ。

スペイン軍を率いるのは粋な公爵で、市長夫人らの迎えを喜んで
平和に入場する。
女性陣は好感を抱いた相手を自分の家でもてなそうと、取り合いをし、
もてなされてご馳走を出されたスペイン軍は終始機嫌が良い。
市長ら男性陣は部屋の奥で息を潜めて、妻たちとスペイン軍の親密さにやきもきしている。

どこをとっても実にフランス映画らしい作品。
笑い転げはしないけれど、くすくす笑いやにやにや笑いが随所でこぼれる。
フランソワーズ・ロゼーが演じる市長夫人は、美人とは言いがたいけれど
男前で凛々しくて、そのくせ艶っぽいし、
アンドレ・アレルムが演じる市長は肝っ玉が小さくって空威張りが情けなくって、
仕事はあんまり出来ない人だけど、でも憎めない。
周りにいる男も女も誰もかもが人間臭く、愛すべき人間だ。

冒頭、大勢の人が行き交う街の生活風景が素晴らしい。
ブリューゲルの絵で見た人々が生きて動いている。
牛を引く人、藁束を背負う人、鉄砲の練習をする一群、それを見物している子供たち、
屋外のテーブルについて何かを飲み食いする男たち、おしゃべりに興じる女たち、
橋の上に座り込んだ若い男、階段をほうきで掃く女、馬車、腕を組んで歩く男女、
船着場で樽を転がす男、たくさんの露天商とそこで買い物をする人々。
数百人の群集が、活気に満ちた街の風景を作る。
遠景にちょっと映っている人までが、何か目的があって動いているのが分かる。
細部までみっちりと意味の詰まった映像に見惚れる。
こういうもののことを、ゆたかと言う。

「女だけの都」1935年
監督・脚本:ジャック・フェデー
脚本:シャルル・スパーク
2

2017/9/12  21:50 | 投稿者: 時鳥

娼婦がひとり、街角のショーウィンドウの前に立っている。
高いヒール、足首、脚、腰、肩から首の曲線を、カメラが舐めるように追う。
値段を告げて、女が背を向ける。通りを渡り、間口の狭い建物に入り、身をくねらせて細い階段を上がる。カメラはひたと貼り付いて、女を凝視する。
撮る者の視線の動きに、目が離せない。
被写体はこの際、どうでもいい。
視線があらわす欲望のほうがずっと興味深い。
各種フェティシズムの詰め合わせみたいなこの視線こそが、この映画の肝だ。
ほんの数分のオープニングで、そのことを理解する。

主人公のマークは、かの視線の持ち主。映画の撮影助手を本業にする彼は大変内気な青年で、家族も友人らしい友人もいない。常にカメラを手放せず、興味を覚えると場の空気を読まずにカメラを回してしまう性癖がある。
マークの亡き父は「恐怖」を研究する学者で、幼いマークは良い実験材料にされていた。
おかげでマークは大層いびつに成長し、父親からもらったカメラで「恐怖」を撮ることに執念を燃やす青年になった。
美しい女が死の恐怖に脅えるところを撮りたい。完璧に撮りたい。
撮っては自宅で現像して試写し、満足の行くまでリテイクを重ねる。

ひとことでいえば変態の殺人犯だが、完全に突き放せない部分がある。
興味を覚えたものをつい撮ってしまうという性癖自体は、映画を撮る人間にはよくある性質、カメラマンならほとんど必須の能力だと思う。
これは、自嘲と自虐の映画なのではないだろうか。
寝ている息子を恐怖に陥れ、状況を冷静に撮影する父親、諸悪の根源とも言えるこの男は、監督自身によって演じられている。
撮るためなら犠牲もやむを得ないとする考え方はマークに受け継がれる。
この映画を作った人々も、自分の中にマークとその父親がいることにおそらく気づいているのだろう。
そういえばマークと言う名前は、監督と脚本家の名前に通じるものがある。

台詞や登場人物の演技以上に、カメラの視線が物を言う映画だ。
信頼しているカメラマンがいないと撮れない映画じゃないかと思う。
マークの自室や階下の下宿人の部屋などは地味な色合いなのだけど、映画の撮影現場や街角の娼婦、マークが副業で行っているエロ写真の撮影現場などの女達のいる場面は毒々しいくらいに豊かな色彩にあふれている。
そして、マークの撮るフィルムはモノクロームで、現像と試写を行う部屋は薄暗く、半分闇の中にある。
「赤い靴」さながらの虚構っぽいけばけばしさと、実生活の地道さ、フィルムと試写室の闇が入り乱れ、日常と虚構と妄想の間を行ったり来たりする。

「血を吸うカメラ」1960年
監督・製作:マイケル・パウエル
原案・脚本:レオ・マークス
撮影:オットー・ヘラー
美術:アーサー・ローソン
2

2017/9/8  23:49 | 投稿者: 時鳥

「第20回文化庁メディア芸術祭 受賞作品展」の詳細がようやく発表された。
今年の会期は、9月16日から28日。
展示は朝から晩までやっているから、都合のつく時間に行けばいいけれど、
上映やトークは日時が決まっている。
スケジュールのやりくりは毎年大変だけど、今年は更に、ICAFと日程がかぶっている。

ICAFは日本の学生アニメーションのフェスティバルで、週末を中心に4日間、
朝から夕方まで様々な作品が上映される。
今年の会期は9月16日から18日。

そのほかにも、
横浜市民ギャラリーあざみ野では、
「フェアリードクターに訊く妖精学と妖精たちのいる風景」という、
フェアリードクターかつ吟遊詩人による講座が開かれるし、
銀座のメゾンエルメスでは「血を吸うカメラ」を毎週末上映中、
ユジク阿佐ヶ谷では、16日から29日まで「チェコアニメの夜2017」と題して、
毎晩日替わりでチェコアニメを上映する。
神奈川芸術劇場では、コンテンポラリーダンスの映像の上映があって、
これも非常に見たい。

ここまで日程があちこちで二重三重に重なるのも珍しい。
さっきまでパズルみたいに調整して詰め込んでいた。
いくつかはあきらめて、大体収まったけれど、
考えすぎてちょっと気持ちが悪い。
楽しみだけど。これほんとに全部こなせるのかな。

参考)
http://j-mediaarts.jp
http://icaf.info
http://artazamino.jp/series/azamino-college/
http://www.maisonhermes.jp/ginza/le-studio/archives/565041/
http://www.kaat.jp
http://yujikuasagaya.com
1

2017/9/7  23:27 | 投稿者: 時鳥

どうしても感はないかなあ。

展覧会や催し物の情報を眺めて、そう呟くことがある。
興味はあるのだけど、何が何でも見たい聴きたいという意欲は湧いてこない。
その日の機嫌次第で行く。疲れていたり、ほかに予定が入ったら行かない。
同じ日に行きたいところが2箇所以上ある場合、会期とか近さとか、
いろいろな要素を考えるけれど、最終的にはどうしても感のある方を選ぶ。
行くつもりで予定を立てていても、その日の朝、改めてチラシをにらんだら、
どうしても感がどうしても湧いてこなくて止めた、ということが時々ある。

予約すると、行かなければならない約束としてとらえてしまう。
だから極力予約はしないで、その日に行きたければ行くようにしている。
確固たるどうしても感がある場合、入れなければ悔やむに違いないと思える時だけ予約をする。

そこにどうしても感はあるか。
何かを選ぶ段になると、いつもこの問いが出る。
個人的にはとても大事な観点なのだけど、何故か他にこの言葉を使っている人を見かけない。
別の言葉を使っているのか、その観点がそもそもないのか。
2

2017/9/5  22:11 | 投稿者: 時鳥

前々回、受験生の歴史科目についての話をした。
今日は大学生の外国語科目についての話。

「大学の授業って、余計に受講しても受講料がかからないのでは?」
ということに、大学生1年目が終わる頃、気付いた。
授業料は基本的に固定費で、勉強してもしなくても同じ金額だ。
余計に受講した場合、テキスト代はかかるけれど受講料はかからない。
社会人になってからカルチャースクールなどで受講したら数万円だかかかるものが、今ならタダ。
おお、お得。

この思考回路を突き進んだ結果、外国語科目をあれこれと受講する。
単なる講義なら本を読んだほうが速い場合が多々あるが、外国語は先生がいるところで教わったほうが良い気がしたのだ。
年を取ると記憶力が落ちるというし、やるなら大学時代だろう。

朝鮮語、中国語、ドイツ語、ラテン語を履修して、
イタリア語とフランス語はラジオ講座、
スペイン語とロシア語はやりたかったけれど、タイミングが合わなかった。
どれも触っただけなので、挨拶と決まり文句のいくつかが聞き取れるくらいでしかない。
でも、イタリア語やドイツ語のオペラを聴きながら台本を目で追ったり、
フランスのお菓子やお店の名前が読めて、時には意味がわかったり、
駅で流れる中国語や朝鮮語のアナウンスの切れ端が聞き取れたり、
案内板に付いたハングルを見て、「へー、日本語と同じなんだ」と思ったり、
ラテン語の学名に首をかしげたり、
アメリカの映画に紛れ込んだイタリア語に気付けたりするので、
生活の端々で細々と役に立っている気がする。
少なくとも、センサーに引っかかるものが増える。

ロシア語はほとんど勉強したことがないけれど、キリル文字は読めるようになりたかった。
今は、地名や人名の固有名詞なら何となく読める。
ロシアのバレエの動画を探すのに役立っている。

ちなみに、英語はあんまり出来ない。
英語が苦手だから他の言葉に走ったという説もある。
3

2017/9/3  21:31 | 投稿者: 時鳥

爪きりで爪を切る。
改めて見ると、爪切りというのはまあまあ複雑な道具だ。
仕組みを思いつく能力と、爪切り用の小さな刃物を作れる技術力の両方がないと出来てこない。
特に刃は、触っても指先は切れないけれど、力を入れれば分厚い爪も切れるという絶妙な切れ味を実現させなければならない。
鈍さと鋭さの両立した均衡点。

そういう道具だから、大昔には爪きりはない。
やすりかはさみの類で切る。
昭和に入ってからの文章でも、はさみで爪を切る描写があるくらいだ。

もっと昔、縄文時代、石器時代のことを考える。
やすりすらない時代だ。
当時は今よりも手足をよく使っていたから、ある程度、爪は磨り減ってくれただろうが、それでも伸びすぎる時はある。
そういう時は、何かの石器や他の用途で作られた道具を使って爪を削っていたのだろう。
土器の破片なんかでも爪はきれいに削れそうだ。

もっと昔のことを考える。
良い感じの木の皮とか小石とかで磨いていたのではないかと想像する。
洞窟の壁とか。
お母さんに怒られているときに、壁でこっそり爪を研いで更に怒られる子なんてのもいたかもしれない。
爪とぎ用の壁が家ごとにあったりして。もちろん、猫で鳴く人間用。
2

2017/9/1  22:38 | 投稿者: 時鳥

高校生向けの世界史の本を読んでいる。
たまたま見かけたその本が面白そうだったから、まったくの個人的な趣味で。
歴史に関する本は学生時代から今まで、ちょくちょく読んでいる。
そうなった要因のひとつは、大学受験で歴史科目を選ばなかったことに
あるのではないかと思う。

学生時代、暗記科目はあまり得意ではなく、歴史はどちらかと言うと苦手だった。
受験生になって受験科目を選ぶ際に考えた。
文系だから、受験科目は国語と英語をベースに、世界史か日本史を選択するのが普通だった。
しかし、自分が暗記を苦手としていることはもう自覚している。
そんな自分が世界史か日本史を選んで、1年間暗記をし続けたら、きっと歴史が嫌いになるだろうし、それはとてももったいない。
そう考えて、受験科目は数学を選択した。
国語と数学は大して覚えなくても問題用紙を前にして考えれば解けるから、暗記科目より性に合っていたのだ。

歴史上の人物の名前も年号もぱっとは出てこないし、読んだ端から細かいことを忘れていく。
けれどお蔭様で、歴史の話を読んだり見たりするのはいつだって面白く、興味は尽きない。
3




AutoPage最新お知らせ