2017/12/31  15:28 | 投稿者: 時鳥

メノッティのオペラ「領事」を見る。
10年以上前からずっと観たいと思っていた作品だ。
東京文化会館の音楽資料室で新着ソフト一覧を何気なく眺めていたところ、
このタイトルが目に飛び込んで、瞬間的に飛びついた。

1950年フィラデルフィアで初演され、その年のピュリッツァー賞を受賞した。
台本は英語で、作曲者自身が書いている。
舞台は現代ヨーロッパのどこかの国。
主人公は反政府活動家ジョン・ソレルの妻、マグダ。31歳。姑と赤ん坊の息子との4人暮らし。
夫が秘密警察に追われる身になったところから話は始まる。
夫は隣国に亡命し、マグダは大使館に保護を求める。
必死に窮状を訴えるが、大使館の秘書はいたって事務的な対応しかしない。
待合室には、待たされて待たされて、絶望的な顔つきをした人間があふれている。
その日からマグダも一因に加わった。

今日も世界のどこかで起きていそうなことだ。
この秘書が、特別に酷い人間と言う訳ではない。もうすこし親切でも罰は当たらないとは思うが、この人はただの事務員なのだ。困った人の役に立ちたいと思ってこの職に就いたのではなく、書類仕事を片付けるために就職したのが、不運にもここだったのだ。
彼女にとっても、訪れる人にとっても不運なことだった。
ただの事務員なのに、毎日毎日、切羽詰った人に詰め寄られて、頼みの綱とばかりにすがり付かれる。重い身の上話を聞かされる。
そんなこと言われたって私には何の権限もない、と言いたいだろう。
いちいち親身になっていたら、身が持たないだろう。
事務的に処理する彼女を、私は一概には責められない。
こうして、待合室には諦めと絶望と、かすかな希望が充満する。

待っている間も、事態は転がる。悪いほうにばかり。
息子が飢えて凍えて死に、姑も死んだ。
ひとり、待合室で待ち続け、たまりにたまった胸の思いをついに秘書に向かってぶちまける。
この作品の魂とも言うべき長大なモノローグは気迫に満ち満ちていて、血を吐く様な叫びが胸に迫る。
流石の秘書も心動かされて、マグダは領事と面会できることになるのだが、領事が直前まで面会していた客と言うのがあの秘密警察の男だったことを知って、気絶してしまう。

マグダの先行きは暗い。待合室で待っていたほかの面々も、大なり小なり似たようなものだろう。
紙切れで人の運命が動く。
切羽詰った人には、このシステムをどうすることも出来なくて、神経をすり減らしながら待って、駆けずり回る。
システムをどうにかできるかもしれない人は、切羽詰っていないし、システムを変えるのは大変だから、手を出したりしない。
そうして何十年もたった今、この瞬間にも世界には無数のマグダがいて、八方ふさがりの中でもがいている。
こんなオペラはさっさと時代遅れになればいいのに、ならなければいけないのに、そうなる気配はちっともない。

「領事」1963年収録
指揮:フランツ・バウアー=トイセル
マグダ・ソレル:メリッタ・ムゼリー
ジョン・ソレル:エバハルト・ヴェヒター
母:レス・フィッシャー
秘書:グロリア・レーン
秘密警察:ウィリー・フレンツ
2

2017/6/30  21:45 | 投稿者: 時鳥

音楽大学でこれから開かれる予定の演奏会のプログラムを眺めていた。
ゼミの演奏会実習で、1回の演奏会で大体10人くらいの学部生がソリストとして出演し、1曲か2曲を披露する。
その中のひとつ、打楽器コースの学生が演奏する曲目に、目が釘付けになった。
「これはボールではない」。M.ベニグノ,A.エスペレット,A.クーザン作曲。

打楽器で、現代の作曲家で、このタイトルの曲が面白いものでないはずがない。
絶対の確信を抱く。
これは、追究しなければならない。
探し回ると、Youtubeで演奏動画が見つかった。
Matthieu BENIGNO, Alexandre ESPERETらはフランスの人で、原題は"Ceci n'est pas une balle"。
たくさんの動画から、いくつかをご紹介。

エスプレット氏によるソロ演奏、演奏会系

デュオ演奏、エンターテインメント系

David Moliner氏による、動きがよくわかるソロ演奏

ボディ・パーカッションとボイス・パーカッションで見えないボールを操り、操られる。
面白くて、いろいろな人の演奏を観て回る。
これは、演奏するのが楽しそうだ。練習はすごく大変そうだけど。
見るのだってもちろん楽しいに違いない。

7月11日の夕方、川崎市の溝ノ口にある洗足学園音楽大学で演奏されるそうです。
生で見たい方はどうぞ。
一人目の演奏者が演奏しますから、開演に間に合うようにお運びください。

2017年度演奏会実習 北島ゼミ ソリストへの「道」Vol.5
日時:2017年7月11日 18時30分開演
会場:洗足学園音楽大学シルバーマウンテン2F
入場無料、予約不要
URLはこちら
2

2017/4/20  23:05 | 投稿者: 時鳥

藤棚が日に日に緑におおわれていくのが、遠目にもわかる。
團伊玖磨の歌曲「藤の花」の旋律が頭の中を流れ始める。
前奏はなく、ピアノの和音に導かれて歌い手が第一声を紡ぐ。
歌と同時に、光景が脳裏に浮かぶ。

最初の景色は、藤棚の全景だ。
誰もいない藤棚に光はあふれる。風はなく、紫の花が静止して咲いている。
静かな静かな空間に、やがてゆるやかに風が吹く。
大降りの花が揺れて、馥郁たる香りを振りまく。
紫色の香り、と呼びたくなるような、典雅な香りだ。
香りとともに、懐かしい記憶が甦る。
優しい追憶は、触れたくない記憶まで連れてくる。
古傷がうずく。忘れたい、諦めたいと口では言うけれど、本心ではどうなのか、もう自分でもわからない。そもそも、忘れることができるとは思えない。
時の流れが和らげてくれるのを、ただ待っている。年毎に咲く藤の花を見送って。
突然の激情を抑えて、再び藤の花を見上げた。
また風が吹いた。憂愁を帯びた香りが辺りを包む。
淡い紫の花がひとかけ、ぽたりと落ちた。
ため息のように香りを広げ、小さな呟きのようにぽつりぽつりと花をこぼして、藤の花が咲いている。

藤でなければ、この歌は成り立たない。
そう思わせるくらいに、あの花の姿や匂いが歌の端々ににじんで、豊かな余韻が残る。
美しくて、どこか胸が痛むような感じがする。
3

2017/4/16  22:34 | 投稿者: 時鳥

イースターなので、往年の名画「イースター・パレード」を見る。
全編を見るほど時間の余裕がないので、最初と最後だけ。
歌で始まって、歌で終わる映画だ。
最初の曲の歌詞は"Happy Easter!"、最後の曲の最後の歌詞は"Easter Parade"。
イースターに始まり、次の年のイースターに終わる物語は、アーヴィング・バーリンが作詞作曲した2曲の間に挟まれている。
この2曲を聴くだけで、イースターの空気感が十二分に伝わってくる。
やっと暖かくなって、過ごしやすくなって、人々が安堵している。
ほっとした感じが声や言葉の端々ににじみ、街を歩く人々が和やかに挨拶を交わす。
イースターにはパレードがあり、着飾った人々が五番街を練り歩く。
パレードに参加するカップルの片割れが、パートナーを迎えに行く。
どきどきしながらドアをくぐり、春の光の中で彼か彼女に会い、素敵さにまたときめく。
くもりのない幸福感が、ここにある。
真珠のように柔らかで傷のない、まあるい光にくるまれたみたいな幸福。
イースターという行事を知らなくても、この曲には人の心を動かす力がある。
日常にある、普遍的な幸福を扱った歌だから。
1

2017/3/27  22:22 | 投稿者: 時鳥

武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」という曲を聴く。
読んでいた本に出てきたので、興味を持ったのだ。
尺八と琵琶を独奏楽器に迎えた管弦楽曲で、1967年にニューヨークで初演された。

面白いなあ、と、聴いてまず思った。
尺八と琵琶とオーケストラが、各々の地盤で、各々の言葉で奏でているのに、ばらばらにならずにひとつの音楽になっている。
合ってないんだけど、かみ合っている。
それぞれの楽器が自分の能力を手加減なしに発揮している。やさしくかみ砕いたりせずに、厳しいものは厳しいままに、難しいものは難しいままに差し出している。
異質なものがぶつかる。熱量は拮抗している。文法も単語もまるで違うのだけど、不思議なことに通じている。ちゃんとぶつかって、逸れない。
表面は違うのだけど、根っこかゴールはもしかしたら、同じなのかもしれない。

和楽器と洋楽器が共演する曲を聴いたことは、これまでに何度もある。
和洋の楽器が一緒に演奏する場合、多くは、和楽器が五線譜の楽譜を使って音を出す。
でもそれは、琵琶や尺八の本来の音の出し方ではない。
楽譜とは言ってみれば、世界を切り取るためのマニュアルだ。手順に沿うことで音楽が再現できるレシピ。だから、その音楽の世界で重要と考えられていることが載り、そうでないことは載らない。
日本の琵琶や尺八の世界と、ヨーロッパのバイオリンやオーボエの世界とでは、重要と考えられていることが明らかに違う。
琵琶が五線譜に沿って、あるいはバイオリンが琵琶の楽譜に沿って音を出すことは可能だろうが、それは彼らにとっては外国語に等しい。

ある楽器がある。その楽器が一番生きるかたち、本来の能力を一番発揮できるかたちを模索して、長年かけてその楽器の音楽世界が構築される。
また、ある音楽の世界がある。その音楽の世界を理想的なかたちで実現するために、ある楽器が生み出され、材料、形状、奏法、その他諸々の改良が加えられる。
楽器と音楽は相互に作用しあって、世界を作り上げていく。

別の世界の音楽を演奏することが、悪いわけでは決してない。
ただそれは、その楽器をはぐくんだ場所ではないし、その楽器がその楽器として存在する必然性がない場所だ。
別の世界に連れてこられた楽器はお客様めいていて、易しい言葉で珍しいお話をする異国人のように聞こえることが、時々ある。
共通の言葉で話をしないと通じないから仕方がない、とこれまで思っていたのだが、どうもそうとは言い切れないらしい。
今回、「ノヴェンバー・ステップス」を聴いて、やっとそのことに気づいた。
違っていても通じることが、音楽ではあるらしい。
2

2016/5/31  22:47 | 投稿者: 時鳥

しばらく前に、エリック・サティの「ソクラテス」という曲を聞いた。
「三部よりなる声楽付きの交響劇」という副題が付いている。
『饗宴』、『パイドロス』、『パイドン』の一節に曲をつけた作品で、4人の女性歌手によって歌われる。声は重なっていないから、一人の歌手で歌うことも可能だそうだ。
サティの曲だけどふざけたところはなく、静かで清らかで澄んだ印象をあたえる曲だ。
しかし、後になって気付いたけれど、ソクラテスとその弟子や友人たちを女声で歌わせるというのは、当時としてはとても斬新だったんじゃないだろうか。
昨今、戦艦だの工具だの元素だのが女性キャラクター化されているけれど、サティはその動きの先駆者の一人だったのかもしれない。
ソクラテスの女性化なんて、真面目で古風な哲学者が批判しそうだ。
女声だからこその良さがある曲なので、男声で歌われたらきっと台無しになる。
ソクラテスの女性化が許せるか許せないかはともかくとして、音楽に理解がある人なら、これを男声に変えようとは思わないだろうけど、そうじゃない人は何やかやと申し立てるかも。
そんな批判を易々と受け入れて自作を曲げるようなサティでもないし、逆に騒ぎを起こしたくてこんな曲を書いてそうな節がある。
3

2016/5/15  21:49 | 投稿者: 時鳥

東京藝術大学は「今日は一日、サティの日」だそうで、4つのホールで構内各地で、午後いっぱいサティの音楽が演奏され続けた。
「いやがらせの部屋」と名づけられた第2ホールでは、ヴェクサシオンのリレー演奏が行われた。
「ヴェクサシオン」はエリック・サティが1893年に作曲したピアノ曲で、52拍の譜面の上部に「840回繰り返すこと」という作曲者の指示が書き込まれている。
いやがらせの部屋では、12時40分から17時10分までの4時間半、奏者を変えながらこの曲がひっきりなしに演奏され、結果としてその回数は161回となった。
出入り自由の部屋だったので、他の部屋の演奏を聴く合間合間に聴きに入った。合計すると、30分以上1時間未満くらい。
奏者は、よほどのことがなければ複数回演奏する。
で、演奏するたびに、ペダルの使い方を変えてみたり、余計な音を入れてみたり、なくしてみたり、様々に変化を付ける。
同じ曲が何百回も繰り返されるのだから、どのタイミングで聴きに入っても同じだろうと、聴く前には思っていたけれど、実際にはちょっと違っていた。
毎回、少しずつ違っていて、同じになることはない。
同じところを通るのだけど、螺旋みたいに、植物の巻きひげみたいにずれていく。
この人は、次はどんな風に弾くのだろうと気になって、何度か後ろ髪を引かれる。
繰り返しって、前と同じことをもう一回するって意味ではないのだな、と、改めて気付く。
4

2015/12/19  23:25 | 投稿者: 時鳥

「声の逆襲 声楽家キャシー・バーベリアンの革命」というタイトルのコンサートを聴きに、上野の東京文化会館に行く。
プログラムの最後には、キャシー・バーベリアンが自作自演した代表作「Stripsody」が演奏された。ソプラノ歌手のソロ曲。
これを「歌」と呼べるのかはわからないけれど、声を使った音楽という意味で声楽であることは確か。
人間の声帯に出せる音を本気で研究して、声に出来ることの範囲を拡張して、これまで音楽には使っていなかった声を音楽に使った。
声に対しても、声楽に対しても、音楽に対しても、目から鱗が落ちる。
2

2015/12/18  23:50 | 投稿者: 時鳥

雅楽の楽器は管楽器が篳篥、竜笛、鳳笙、絃楽器が琵琶と楽筝、打楽器が鞨鼓、太鼓、鉦鼓。
「管絃」は管・絃・打で演奏され、「舞楽」は管と打のみで演奏される。
以上、プログラムからの受け売り。

実際に聞いた印象では。
篳篥は人間の声のように聞こえる。それも叙情よりは叙事を語る声だ。
竜笛も人間の声だけど、こちらは力強さや明晰さより、侘しさやたおやかさといった陰影を感じさせる声だ。心の揺れと言ってもいい。
鳳笙は神や仏などの天からの声、あるいは光。
琵琶と楽筝は状況描写、その場を吹く風やモブの合唱。

奏者は横並びで演奏し、指揮者はなく、お互いにアイコンタクトを取り合っている様子もない。
30人の奏者がどうやって呼吸を合わせているかわからないけれど、素人目には、ひとつの曲の部分部分でリードする楽器が決まっていて、他の楽器は中心の楽器に音を合わせているように見えた。
楽譜に固執しないで、お互いの音に合わせている感じ。
その場のアドリブを見込んで、楽譜もあえて余白を設けて書かれているんじゃないだろうか。ただの想像だけど。
3

2015/7/12  14:17 | 投稿者: 時鳥

ちゃらんぽらん、という音がする。
暢気で明るく、とぼけていて、あたたかい。
聴いていると、温泉につかって身体をのばしているような気分になれる。
あるいは、春の陽だまりで日なたぼっこしているような。
心の凝りがほぐれる。

浅草吾妻橋のたもとに、金色のオブジェが乗ったビルがある。金のなんとやらと言われるそのビルの4階にあるのがアサヒ・アートスクエア、アサヒビールのメセナ活動の拠点である。
2009年から「すみだ川アートプロジェクト」というものが始まった。期間は80年間。「白魚が棲み、人々が泳ぎ遊べるような隅田川に再びなるために」、市民とアーティストが一緒になって、川の手文化を発信し続けている。
毎年6月から7月が開催時期で、この時期になるとメイン会場であるアサヒ・アートスクエアでは、連日連夜、不思議な催しが繰り広げられる。
7年目の今年のテーマは「江戸のもくろみ」だ。それにちなんで、毎週木曜日は「もくろみの日」と銘打ち、何かをもくろんでいる人を呼んで話したり上演したり上映したりしている。

7月2日の第3回は、「瓦の音楽」の上映会とトークだった。
音楽家の野村誠さんと、映像作家の上田謙太郎さんを迎えて、上田さんが制作中の長編フィルム「瓦の音楽」を上映し、その後、お二人のトークがあった。
「瓦の音楽」は、淡路島の津井という集落を舞台にした長編ドキュメンタリーだ。
津井は江戸時代から続く瓦の産地で、かつては200近くの瓦の業者が軒を並べていた。今は盛時の3分の1ほどに減ってしまったが、それでも日本三大瓦産地のひとつとして、今もたくさんの瓦を産出し続けている。
町はどこもかしこも瓦だらけ、駐車場にも畑にも花壇にも瓦、電話ボックスも体育館も瓦。

野村さんは2013年、淡路島アートセンターの招きでこの土地を訪れた。そして、瓦工場を見学に訪れて、その辺にある石で何気なく瓦を叩いてみた。すると、びっくりするほど良い音が出たのだそうだ。
瓦音楽の可能性を確信した野村さんと音楽家のやぶくみこさんは、以来、淡路島に通って、いい音の出る瓦を探したり、叩くバチを研究したり、瓦用の土で新しい瓦楽器を作ったり、演奏会をしたり、ワークショップをしたり、曲を書いたり、とにかく精力的に活動し、そしてこのたび、オール瓦音楽で構成されるCDをリリースした。

会場で売っていたのを購入する。
全部で21曲の瓦音楽が収録されていて、最初の曲は隅巴瓦とのし瓦による「津井に来た」。言うまでもなく、「遂に来た」の駄洒落である。野村さんは駄洒落音楽家でもあるのだ。
のし瓦が旋律を奏で、隅巴瓦が合いの手を入れる。
のし瓦はぽこぽことスキップをする。日向の匂いのする音、少しだけ外れた音程、下駄かつっかけでその辺の道端をスキップで進む。ひなびていて、妙に楽しげだ。
隅巴瓦の音は、ぽわんとふくらむ。ひとつ叩いただけなのに、いくつもの音が重なって響く。鐘のように、ビブラフォンのように。橋の欄干を叩いた音と、丸くなった遮断機の音をこね合わせて、低温でじっくり焼いたみたいな、そんな音だ。
2種類の音が弾んで、わくわくした気分が呼び起こされる。何か面白いものが見つかりそうな予感がする。起こる、と言うより、見つける、だ。これは。
続く曲は、ガムランっぽいものあり、太鼓っぽいものあり、スティールパンっぽいもの、マリンバっぽいもの、グラスハープっぽいもの、竹っぽいもの、土っぽいもの、金属、ガラス、木、皮、その他、本当に色々な音がする。
そしてどれもこれも、踊っている。身体が動き出すような音楽だ。

野村さんいわく、瓦はひとつひとつ音が違うので、ある曲に使う瓦がひとつ割れてしまったら、その曲は二度と演奏ができなくなるのだそうだ。
そうして演奏ができなくなった曲が何曲もあるのだという。
モーツアルトの曲には、特定の歌手のために書かれた曲というのがある。その歌手が得意とする音域や技術が引き立つように書かれているのだ。
この場合は、瓦一枚一枚に対してあてがきをしているようなものだ。それぞれの瓦の個性を理解し、それに合わせて曲を書く。
同じ歌手が二人といないように、同じ瓦はないから、その瓦がいなくなったら、同じ音楽は演奏できなくなる。文字通り、掛け替えがない。
規格化された市販品ではない。本来、楽器ではないものから見つけ出された音、唯一無二の「この瓦たち」のための音楽が、一枚丸ごと詰まっていて、どこを切っても暢気で愉快な音がする。

参考)
「瓦の音楽」上映会&トーク

動画:
「瓦の音楽 musik genteng」野村誠+やぶくみこ

瓦の音さんぽ 〜5/10@南あわじ市津井
3

2015/6/14  23:17 | 投稿者: 時鳥

プッチーニのオペラは基本的に好きなのだけど、「蝶々夫人」だけは苦手だ。
舞台が日本だから。理由はこれに尽きる。
絶対に日本じゃない「ナガサキ」のあれこれに、心中でいちいち突っ込みを入れるものだから、疲れてしまうのだ。
そういうわけで、随分長いこと、10年以上見ていなかった。
しかし、もしかしたら、そろそろ、人間が丸くなって、落ち着いて観られるかもしれない。

1980年にイタリアのヴェローナ野外劇場で上演された映像を見てみた。
無理だった。
「これは日本じゃなく、架空の国ニッポンなんだ」と自己暗示をかけようとするのだが、「イザーギ、イザナーミ、カーミ、サルダシコ」とか言われてしまうと、日本人として聞き流せない。猿田彦神がなぜいきなりここに。
固有名詞が出されてしまうと、日本としか思えなくなるし、反応せずにはいられなくなる。
他にもいろいろと見てしまって、字幕を読んでしまって、どっと疲れた。
また精神修養して出直すけれど、落ち着いて見られる日は死ぬまで来ないかもしれない。
もう、映像無しの音源だけで聴くようにしたほうがいいかもしれない。この演目。
3

2015/4/17  22:42 | 投稿者: 時鳥

閑猫様のところの「たんぽぽスピードくじ」の件を読んで、歌曲の「たんぽぽ」が頭の中を流れる。
三好達治の詩に中田喜直が曲をつけた、短い歌だ。
ぽんっとはじけて咲くたんぽぽの感じ、陽だまりの明るい感じ、綿毛に乗って広々と遠くへ飛んでいく感じがとてもよく出ていて好きな曲なのだけど、あらためてYoutubeなどで聴きなおしてみると歌詞の聞き取りが難しい。
三好達治の詩が今ではちょっと難しく、耳になじみにくいというのもあるけれど、この曲に限らず日本歌曲は日本語としてはあまり聞きやすくないことが多い。
ポップスや演歌や童謡や、その他、各種の日本語曲と比べると、歌詞の聞き取りやすさが重視されていないように感じられる。
多分、音楽を優先する場合は歌詞が多少聞き取りにくくてもいいって考え方なんだろう。
そこをけなす人もいるけれど、私はそういう歌もあっていいと思う。
わかりやすいことばかりを優先しなくてもいい。
聴く側が歩み寄らないといけない歌で、面倒だったり難しかったりするけれど、そのかわり細かいところまで凝りに凝ることができる。
そういう歌ばかりの世界は窮屈だけど、そういう歌のない世界はさだめし平板で、退屈であることだろう。

参考:
たんぽぽ(動画)
1

2015/3/8  23:34 | 投稿者: 時鳥

作曲家と演奏家のことを、ふと考えた。
クラシック音楽の場合、作曲者が既に死亡していることが多いわけで、演奏家は楽譜をテキストに、文献や音源などの各種資料を読み込んで、作曲家の頭の中にあった音楽を再構築し、その上で自分の演奏を作り上げる。
作曲家の頭の中の音楽が正解で、それに極力近づくのが正義。
原典を大変重んじる人の言っている事って、つまりそういうことのように私なんかには聞こえるのだけど、でも、作曲家自身は本当に、そう考えているのだろうか。
「自分の考えたとおりの演奏をしてほしい」って人と、
「自分の考えた以上の演奏をしてほしい」って人が少なくともいるはずだ。
楽譜も戯曲と同じで、演じる者によって違ってくるのが魅力だから、時代時代で新しい面が発見されて、作曲者の予想外のことが起きるようでないと、何百年も演奏され続けるのは難しいんじゃないかと思う。
とはいえ、作曲者の考えを無視して、楽譜だけ見て、揚げ足とるような新解釈をするのも、ちょっと首を傾げてしまうところはある。
傾げるけど、まあ、どっちもあっていいんだろうな。きっと。
正しさを持ち込むと、話がおかしく窮屈になる。
3

2014/12/14  23:22 | 投稿者: 時鳥

クリスマス歌合戦を聴きに、金曜日の夜、みなとみらいホールに足を運ぶ。
バズーカ・バリトン泉良平と、ハイパー・テノール新津耕平とが、クリスマスパーティーへの出演権をめぐって争う歌合戦である。
少なくとも、そういう設定になっている。
この歌合戦のCMが何故か3本も作られて、ネット上で公開されているから、詳しいところまで知りたい人はそっちを見てもらうことにして。
でも、そこまで熱意を持って知りたい人ばかりでもないだろうから簡単に経緯を説明すると。

クリスマスイブに横浜ベイホテル東急で「ファイブスタークリスマスパーティー」という催しが開かれる。その記者会見の席上で、朗々と「オー・ソレ・ミオ」を歌うテノール新津の前に、突如、バリトン泉が乱入。歌を乗っ取る。で、「この仕事は俺に来たもののはず」とか言い出す。
言い争う二人に、ホテル側から声が掛かった。歌合戦で決着をつけたらどうか、と言うのだ。
かくして、前代未聞の勝負が始まった。

二部構成で、第1部ではそれぞれが得意な歌を3曲ずつ歌う。
休憩の後の第2部では、プロレス実況アナウンサーが司会に入って、早押しとくじ引きとで歌を競い合う。
聴衆には入場時にリクエスト用紙が配られ、歌って欲しい曲を1曲、投票できる。
ここで投票された曲が早押しとくじ引きに登場する。

当日、実際に歌われた曲は以下の通り。順序もこの通り。

≪第1部 歌の競演≫
「もう飛ぶまいぞこの蝶々」(泉)
モーツァルト「フィガロの結婚」より

「プロバンスの海と陸」(泉)
ヴェルディ「椿姫」より

「みみずく」(泉)
中田喜直

「女心の歌」(新津)
ヴェルディ「リゴレット」より

「人知れぬ涙」(新津)
ドニゼッティ「愛の妙薬」より

「フニクリ・フニクラ」(新津)
L・デンツァ

(20分休憩)

≪第2部 ガチンコ歌合戦≫

≪2-1 イントロを早押しで当てて、正解者が歌う≫
「おおスザンナ」(新津)

「ぞうさん」(泉)

「北酒場」(新津)

「また逢う日まで」(泉)

≪2-2 くじ引きで引き当てた曲をそれぞれが歌う≫
「清きアイーダ」(新津)
ヴェルディ「アイーダ」より

「夕星の歌」(泉)
ワーグナー「タンホイザー」より

「落葉松」(新津)
小林秀雄

「オー・ソレ・ミオ」(泉)
ディ・カプア

「誰も寝てはならぬ」(新津)
プッチーニ「トゥーランドット」より

「赤鼻のトナカイ」(泉)

で、歌では決着が付かず、聴衆に拍手の量で尋ねてもほぼ同量の拍手が返り、結局はじゃんけんで新津さんになるという結末であった。
まあ、いいのだ。結末はどんなでも。歌合戦を聴きたくて行ったのだから。
最後に、和解の歌として、ヴェルディの「ドン・カルロ」から「友情の二重唱」が歌われてお開き。

歌手が自身で用意している第1部は普通の曲しか出てこないけれど、第2部は、どんな曲が出てくるかまったく予測が付かない。
普通ならオペラ歌手が舞台で歌わない曲、練習したことはあるけれど一度も歌ったことがない曲が次々に出てくる。
よく響くバリトンで重々しく歌われる「ぞうさん」を聴いていると、象が大きな身体を持つ猛獣であることが身に染みて理解できる。作曲者の團伊玖磨も草葉の陰で喜んでいる・・・か、苦笑しているか。こんな無駄に上手い「ぞうさん」は初めて聴いた。
「北酒場」も、演歌の枠をはみ出したスケールの大きさがある。本家本元とは全然違う。でも上手い。
しかし、この形式はテノールの負担が特に大きい。
皆、ここぞとばかりに難曲を指定してくるから、本来なら声質的に歌わない曲まで入ってくる。バリトンはそれほどでもないけれど、テノールはテノールの中でも声質によって何種類にも分かれていて、歌うレパートリーが大体決まっている。声質の違う曲を歌うと、調子を崩すこともあると聞いたことがある。
「清きアイーダ」は確かにテノールの曲だけど、新津さん自身は声質の違いから、一度も舞台で歌ったことがなかったそうだ。この曲も、「誰も寝てはならぬ」も、高音の聞かせどころがある曲で、聴衆としては無事に歌いきれるか、手に汗握っていた。
しかし、それ以上に手に汗握ったのが伴奏で、後半のくじ引きでは楽譜がない事態が頻発し、「落葉松」、「オー・ソレ・ミオ」、「誰も寝てはならぬ」は、楽譜なしで伴奏をしていた。どうして弾けるんだろう、この人。 
「夕星の歌」は確か楽譜あり。「清きアイーダ」は楽譜が1部しかないので、歌手がピアノの後ろから覗き込んでいた。「赤鼻のトナカイ」も楽譜はあったけれど、それは歌手の側に行ってしまって、歌手の前に置かれた楽譜をピアノの後ろから見て弾いているようだった。
イントロクイズの方は、裏でスタッフがコピーしたらしく、歌手用と伴奏者用がちゃんと別に用意されていた。
歌手が二人とも、こういう演出になれていなくて、手間取っているのが微笑ましい。
プロレスっぽく、悪役っぽく、精一杯演じているけれど、どちらも勉強熱心で才能にも恵まれた歌手なのである。
きちんと積み上げてなければ、こういう歌は歌えない。
3

2014/11/30  23:19 | 投稿者: 時鳥

4.人形町
女二人何を語るや人形町並木のかげをひそやかに行く

そう歌うのはまちがいなく男性。それもきっと成人男性。
目の前を女性が二人、肩を並べて歩いている。
奥さんか姉妹かあるいは叔母か。いずれにしても身内の女性だ。
季節は夏の初め。出歩くにはちょうどいい時節。
衣替えが済んだばかりで、白っぽい着物は随分新鮮に映る。
人形町といえば人形焼。ほかにも和菓子屋や鯛焼き屋など女性好みの店が多い。
店先から中を覗き込んで、立ち止まる。
ピアノは足を止めた様子をきちんと描いている。
女達がささやきを交わす。
何が楽しいのか、くすくすと笑って、また歩き出す。
日傘をさして、肩を寄せて、通りをそぞろ歩いて、ささやきあう。
いつまでもいつまでも、話が尽きない。
後からお供する彼は、不思議でならない。
何をそんなに話すことがあるのか、彼にはわからない。
何がそんなに楽しいのかもわからない。
並木の影が女二人の上に落ちて、着物を、日傘を、まだらに彩る。
人形焼の甘い香りが漂っている。

6.上野
低能児どんよりとせし瞳もて象に見入れり何を思ふや
象よ象よ檻に過ごせる年月を淋しと云ふか汝が眼差

この歌だけ、2首の短歌を歌詞としている。
パンフレットには歌詞も印刷されていたのだが、聴くに当たってはタイトルだけを見て、歌詞は見ないようにして聴くようにした。
次に何が来るかわかると新鮮味が減じてしまうし、歌詞を知らなくても聞き取れるようでないと、日本歌曲としてよろしくないだろう。
日本人が現代日本語で歌っているのを、日本人が本気で聴いて、意味が取れないとしたら問題だ。
しかし、この歌の歌いだしは、本当に聞き取れなかった。
これまでの5曲にはない、暗く激しい、動揺するような前奏の後、いきなり歌が入る。
その歌いだしの一言が「低能児」。
文脈も何もなく、いきなりこの言葉が出されても、ボキャブラリーから引っ張り出せない。
どうしてこの歌に音楽を付けようと思ったのか、謎である。
もっと聴き手が理解しやすい歌と音楽があったはずなのに、せめて前後の歌を逆にすれば格段にわかりやすかったろうに、それなのに、作曲者はこの歌をこの順番で歌曲にすることを選んだ。
言いたいことがあったと、そこまでは想像できるけど、その先は暗闇で、解釈が難しい。


7.両国
玉屋鍵屋花火の色はわが恋の果敢なきに似る悲しきものか

最初の「玉屋」「鍵屋」に、差し迫った響きがある。
引き裂くような、引き裂かれるような。
同じ言葉は、最後にも繰り返される。
最後の「玉屋」「鍵屋」には、諦めたような響きがある。
花火はもう終わる。終わってしまう。
花火の後にはいつだって、虚脱感が残る。祭りの後の興奮冷めやらぬ感じとは全然違う。
暗くなった夜空に、人はもう目を向けない。地上を見て、目を伏せて、気抜けしたようにその場を後にする。
消えていく花火を眺めて、周囲の人が動き出すのを感じながら、動くか動くまいか決めかねている。
もうひとつくらい、上がるんじゃないかと、心のどこかで期待している。
きびすを返しても、すぐ側から歓声が上がるのではないかと期待して、とてもゆっくり歩き始める。
でも。一度だって上がったためしはないのだ。
そんな名残惜しさと諦念が、最後の叫びに満ちている。
2




AutoPage最新お知らせ