2017/10/31  21:14 | 投稿者: 時鳥

三鷹市美術ギャラリーで高松明日香さんの絵画展を見る。
何気ない場面を描いた大小の油彩画の間をゆっくりと歩く。
映画のフィルムからひとコマを切り取ったような絵だ。
と言っても、決して重要な場面ではない。
ほんのつなぎの、誰一人覚えていないようなひとコマだ。
何ともどちらともつかない曖昧な時間と空間が浮かんでいる。

10人ほどの一群が会場に入ってきた。
老人と介助の職員らしき人で構成されていて、
絵を見て、戸惑ったような声をあげている。

どうやら、老人ホームの外出先として選んだらしく、
どうやら、古墳関係の展示だと思って来たらしい。

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2017/10/30  22:03 | 投稿者: 時鳥

土砂降りの雨の中、銀座の古いビルを改装したギャラリーに向かう。
この場所でフロッタージュ体験講座が開かれるのだ。

フロッタージュは、誰でも子供の頃に一度くらいはやったことがあると思う。
10円玉の上に紙を載せて鉛筆でこすると、紙に10円玉の像が浮かび上がる。
あの技法のことだ。
今回はそれを、10円玉ではなく、建物を使って行う。
建物の好きな場所に紙を当てて、7本の色鉛筆で好きなようにこするだけ。
写したら面白そうなところを探して、上から下まで見回す。
建物の見え方が変わってくる。
何もないようなところでも、やってみると意外な模様が出てくる。
無心に手を動かすうちに、時間が尽きた。

最後に全員の作品を集めて壁に貼った。
選んだ場所に各々の視点の違いが出ていて、とても面白い。
同じ場所を選んでいても、紙を当てる角度、筆圧、色使い、
フォーカスの当て方が人によって違う。
写真とも絵とも異なる面白さがある。
フレームで切るところまでは同じなんだけど、なんというか、
自分の手で描いているのに、自由にはならないところ、
写すだけで勝手に線を加えたりは出来ないところ、
そして、対象の手触りを感じながら描くところが独特だと思う。
ほかにもあると思うんだけど、まだわからない。
また今度、自分の部屋とかで個人的にやってみよう。

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2017/10/4  6:36 | 投稿者: 時鳥

LIXILギャラリーで「超絶記録!西山夘三のすまい採集帖」展を見る。
戦後の日本の住まいを記録した建築学者で、会場には調査のスケッチが大量に展示されていた。
隅々まで描き込まれた絵が、楽しくて仕方が無い。
台所なら鍋釜杓子、荒神様のお札まで委細もらさず描き込んでしまう人なのだ。

プライベートでも記録魔だったらしく、旧制中学時代の「漫画の登場人物分析」に始まり、旅行記、外出先で食べたもののカラースケッチ、会った人の似顔絵、手帳、写真などがどこまでも出てくる。

記録魔って、人間国宝にしていいと思う。
普通の生活のどうでもいいことの記録が残るのは、こういう記録魔がいて、
見つけたものすべてをいつまでもいつまでも楽しそうに記録してくれるからだ。
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2017/9/19  23:39 | 投稿者: 時鳥

通りすがりに、六本木のフジフイルムスクエアをのぞく。
半分通路の小さな展示スペースで、コロジオン湿板写真の個展が開かれているのを見つける。

湿板写真は昔々の写真技法で、それこそ19世紀の肖像写真なんかで使われている技法だ。
非常に手間のかかる技法で、乾板式写真術が発明された後はすぐに廃れたし、
フィルムからデジタルに移行しつつある今では、わざわざ湿板写真で撮影する人なんて皆無と言って良い。
各種薬品を操らなければならないので知識も技術も必要だし、薬品で板が濡れているうちに
撮影しなければならないので時間との闘いも厳しい。
写真家によると、半年かかって約200枚撮影するのが精一杯だったそうだ。
それでも、この写真家はあえて湿板写真にこだわる。湿板写真にしかないものがあるのだ。

重力に異常をきたしているような写真だった。
濃密な黒。密度が高く、闇がひしめき合ってぎしぎしと軋んでいる音が聞こえてきそうだった。
被写体は樹木やゴーヤーやストーブなど、身近にあるものなのだが、どれもこれもが強烈な質感で迫る。
別の生き物の視界が、突如眼の前に投げ出されたように感じる。

例えば鳥は、私が見ているのとは違うように世界が見えている。
虫には虫の、猫には猫の世界の見え方がある。
すぐ隣に座っている人だって、きっと私とは違う見え方をしているだろう。
常日頃からそう思っていたが、あくまでそれは想像で、実体験することはできないはずだった。
私は私の眼でしかものを見ることが出来ない。
その考えにひびが入った。
この写真に写っているものはどれも知っている。だが、一度もこんな風に見えたことはない。
非現実的な映像だけど、存在感は重く厚く、これが実在しないはずはない。
とすると、これは別の生き物の眼なのではないか。
見えないはずのものを、自分は写真経由で眼にしているのかもしれない。
そんなことを思う。

「未知の引力 魯晴写真展」
フジフイルムスクエア ミニギャラリー
期:9/8〜9/21 10時〜19時(最終日〜16時)
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2017/9/17  23:21 | 投稿者: 時鳥

初台の東京オペラシティアートギャラリーに足を運ぶ。
ここでは現在、「第20回文化庁メディア芸術祭受賞作品展」を開催中である。
今日のお目当ては、映像作品「LISTEN」の上映を見ること。
見終わった後に展示室にも足を向けたのだ。

「あなたは、翌日私に会いにそこに戻ってくるでしょう。」という題名の作品が展示されたスペースで、しばらく足を止める。
津田道子さんの作品で、新人賞を受賞している。
去年のICCオープン・スペース2016で長期展示されていた作品で、今回は同じ建物内の別のギャラリーでの展示となった。

12の枠が天井から吊られている。
枠は素通しだったり鏡だったり、ちょっと離れた場所にあるカメラからの映像を投影したスクリーンだったりする。
いると思った自分がいなかったり、いきなり後姿で現れたり、別の枠に邪魔されて下半身だけが見えたりする。
あれっ、と、思う瞬間の連続。枠の間をぐるぐると回遊する。
この中にはひとつだけ、24時間前の展示室を映すスクリーンがある。
それが題名の由来である。

そういえば、昨日も大体、これくらいの時間に来ていたっけ。
件のスクリーンの前で自分が現れるのを待つ。
しばらく待つと、やってきた。
翌日の自分に待ち伏せされているだなんて思いもしないから、何の気なしに歩いてくる。
今いるこの場所を歩く、昨日の自分を見て、奇妙な気分になった。
同じ大きさの紙を2枚重ねて、下の文字を透かして見ているような、二重写しの感覚。
確かに私で、こんな行動をした記憶もあるけれど、この視点ではなかった。
今日の私が待ち伏せしようなんて気まぐれを起こしたから、昨日の私は待ち伏せの餌食になっている。
待つ人と待たれる人が同一人物。これもおかしな感じ。

「あなたは、翌日私に会いにそこに戻ってくるでしょう。」津田道子 2016年
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2017/8/14  23:41 | 投稿者: 時鳥

渋谷のBunkamura Galleryで富田菜摘さんの個展を見る。
立体作品を作る作家さんで、材料は廃材、作るものはいつも動物。
今回は、楽器の廃材を使った新作を中心にした個展だった。
バイオリンやビオラが胴体になったウサギ、マンドリンがお尻のふくらみにもなっているタヌキ、口の中が鍵盤になったワニ、亀の子だわしが尻尾になった熊、傘の骨や布をつかったコウモリなぞがそこかしこにたむろしている。
誰も彼も、とても機嫌の良い顔をしている。
最終日だったので、プレートの多くには売約済みの赤ピンが立っていた。
こういうご機嫌な子達を身近に置きたい人はやっぱりそれなりにいるらしい。
ゴミだったものがご機嫌な動物になって、望まれて迎えられる。
そーか、そーか、幸せにおなりよ。
子供時代から知っている近所の子が結婚するみたいな気分で心の声を送る。
触ってよければ、頭をなでてるところだ。
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2017/7/23  23:07 | 投稿者: 時鳥

LIXILギャラリーに行くと、いつもは白い壁の普通の部屋だった場所が、まるごと和紙の洞窟になっていた。
高知県梼原町の和紙職人ロギール・アウテンボーガルトさんと建築家隅研吾さんによる共同プロジェクトで、床を除いて壁も天井も、すべて手漉きの和紙で覆われている。
羊歯が漉き込まれた紙、藍や木の葉や土が混じった紙、柿渋がところどころに塗られた紙。
それぞれに独特の表情を持つ紙が集められ、揉まれ曲げられ重なり合って、豊かな洞窟を作る。
紙の向こうに光源がいくつかある。
ほの暗い光は、紙のしわとでこぼこを通して柔らかく広がる。
原点みたいな場所で、生き物みたいな紙がざわざわしている。
安らぐ空間であると同時に、刺激的でもある。
楽しくて、ちょっと微笑む。
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2017/7/20  23:31 | 投稿者: 時鳥

無響室、というものがある。
壁も床も天井も完全に音を吸収するようにできていて、入ると耳に綿が詰められているような心地がする。
叫んでも、反響が返ってこない。
窓がないから、照明を消せば自分の身体の範囲すら分からない暗闇に包まれる。

そういう部屋に一人で入って、音響作品を聴く。
荷物を置いて部屋に入ると、中央にある椅子に座るよう促される。
部屋の何箇所かにスピーカーがあるのが見て取れる。
着席すると、いくつか注意事項を述べて係員が出て行き、部屋が暗くなる。

暗闇と静寂。
やがて、背後に音が生まれる。
頭の後ろで何かが荒い息を吐いている。
音だけで感触はないはずなのだが、むずがゆい。
梱包財のようなものが身体の回りでがさがさと音を立てている。
まるで、引越し荷物になってトラックに積み込まれているようだ。

「See by your ears」。
あなたの耳で見なさい、という題の、サウンド・プロジェクトの作品だ。
ひとつひとつは日常にありそうな音だが、現実にはありえない組み合わせで、予想外の場所から音が湧いて出る。
気持ち悪くて不安で、とても面白い。

バーチャルリアリティって、こういう方向で使うべきなんじゃないかと思う。
現実に似せること、実体験の代替品としてのシミュレーションを目指すのだけが正解だとは思えない。
そんなことをいくら追究しても、「コピーにしてはよく出来ている」という賛辞が関の山だ。
現実にはありえないことを、現実のように感じさせることが技術には出来て、その魅力は最大限に生かしたほうがいいと思う。
実体験の紛い物ではなく、現実では体験できない別の種類の実体験。

参考:
http://www.ntticc.or.jp/ja/archive/works/our-muse/
Otocyon Megalotis #2 “Chafe”
摩擦の物理現象に フォーカスしたマクロ録音により構成
All Sound Composition, Recording, 3D Sound Programming by evala, 2014
5分55秒
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2017/7/16  22:37 | 投稿者: 時鳥

埴輪を背面から見る。
犬や馬、鹿などの動物の埴輪は、どれも肛門に当たる部分に丸い穴が開いていることに気づく。
その場には5体くらいしかなかったので、偶然なのか、埴輪を作る上でそういうルールがあったのか、あるいは別の理由があるのかまではわからない。
脳内にある今後の調査課題リストにまずは追加しておく。
今度、別の場所で埴輪に会ったら注目しよう。
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2017/7/3  23:30 | 投稿者: 時鳥

日本科学未来館の常設展示が一部リニューアルしたそうだ。
その話を聞いて、お台場に足を運ぶ。
目当ては、「インターネット物理モデル2017」。
開館当時からある展示なので、16年ぶりのリニューアルである。
到着するなり3階に上がり、フロアの中央付近にある展示スペースにたどり着く。

白と黒の玉がターミナルから放出されると、銀のタワーをくるくると回り、レールを伝って隣のタワーに移ってまたくるくる回って、タワーの間近にあるターミナルに吸い込まれる。
黒と白のボールがあわせて8つ、到着先のターミナルで整列すると、ディスプレイに文字が表示される。
がっちゃんがっちゃんと賑やかな音を響かせて玉の集団が移動した結果、こっちからあっちへ、たった一文字の英数字が伝えられる。
かつては文字しか伝えられなかったのだが、今回のリニューアルで音と動きも伝えられるようになった。ターミナルには変換機が付いていて、到着した玉を文字としても、音や動きとしても解釈できる。

メールの送信をイメージするとわかりやすい。
ターミナルは受信者あるいは送信者のマシンで、8つの白黒玉が表す本文の前には、送信先を示す4つの玉と発信元を表す4つの玉が付いている。
インターネットに出て行った16個の玉はルーターという銀のタワーでたらい回されて送信先を探す。
初めてこの展示に触れた時には既にインターネットの仕組みを本で理解していたが、それでも、というか、だからこそ、衝撃的だった。
インターネットの仕組みを手で触れられる現実の模型にできるなんて、考えもしなかったのだ。
以来、何度も見に来ているけれど、見るたびに呆れ半分感動する。

来館者のおそらく7割は、これが何を意味しているのか、正確には理解していない。
子供なら玉がぐるぐる回る玩具くらいにしか思わないだろう。
インターネットの仕組みなんて、万人が絶対に理解しなければいけないものではない。
仕組みを知らなくても電子レンジやテレビが使えるように、インターネットだって仕組みを知らなくたって日常生活では困らないのだ。
白黒の玉が8つあれば英数字が表現できる、というのは、人によっては常識だが、人によっては意味が分からないことだろう。
白黒の玉が廻って文字を伝えるということも、一般には理解されにくいのではないかと思う。
そういう分かりにくさを持っていて、かつ精密で大掛かりで場所も取る。しかしこの展示は開館当初から今まで、ずっとフロアの目立つ場所に設置され続けている。
その点に、私は心動かされる。
これは大事な展示なのだ、現代社会を理解するうえで欠かすことが出来ない技術なのだ、という館側の主張が聞こえてくる気がする。
場所をとって、人の手で細かいメンテナンスもしなければならない面倒な展示をちゃんと維持して、リニューアルもする。
ここは最初から今まで、そういう館なのだ。
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2017/6/21  22:44 | 投稿者: 時鳥

初台のNTTインターコミュニケーションセンター(ICC)を訪れる。
5月から「オープン・スペース2017」というメディアアートの長期展示が始まっている。
たくさんある小部屋のうちひとつは、「リサーチ・コンプレックスNTT R&D @ICC」という企画展示に充てられていた。
部屋に入ると、入り口の右手にディスプレイとカメラ、プリンター、それからボタンのついたパネルがある。
所定の場所に立ってボタンを押すと、自分の顔が撮影され、ディスプレイに写真が8枚、並べられた。
本当の写真は1枚きり、残りの7枚は目の位置や鼻の大きさなどを微妙に変えた写真だ。
どれが自分の顔か、数字のボタンで選ぶように促される。
自分の顔を一生懸命捜すけれど、これだという確信が持てない。
明らかに違うのもあるけれど、「これが本物だ」と言われたら信じるものが4枚くらいある。
恐る恐る1枚選んだら、外れた。私の眉はこんなに太くないそうだ。
2回目の選択でやっと当たる。

自分の顔は普段、鏡でしか見ていない。
写真では左右が逆になるので、見慣れていないのだ。
と言い訳してみるが、もちろんこんなのは言い訳だ。
真正面という一番見慣れているはずのアングルで間違えるって事は、横顔や斜め方向になったら、さらに正解率は下がるだろう。

ふと、恐ろしくなる。
もしもの話だが、肉親が変わり果てた姿になったとして、本人確認のために死体安置所に出向いたとして。
もしかしたら私は、赤の他人を肉親と認定してしまうかもしれない。
何せ、自分の顔ですら自信が持てないのだ。
面変わりした遺体を見て間違いのない判定を下せる自信なんて、持てるわけがない。

私は極端な例かもしれないが、多くの人にとって死んだ人間の顔は見慣れないものだ。
しかも相手が肉親なら、動揺で判断力が狂う場面だってあるだろう。
人間の顔をコンピューターが判別できるようになってきているのだから、そろそろ、死体の顔を代わりに判定してくれるシステムが出来てもいいと思う。
生前の写真を何枚か登録しておくと、死体の写真と照合して、同一人物かどうかをかなりの高精度で判別してくれるのだ。
生前と死後の容貌の差も、システムなら計算して誤差を修正できるだろう。
写真ならデータを送るだけで済むから、人間が確認のために出向かなくてもいい。
行方不明になった人が遠い土地で亡くなった時にも、身元の判明する可能性が高くなる。
行方不明のその人の可能性がある場合だけ、届けをした人に連絡が行くのだ。
見ず知らずの人の死に顔と対面する機会が減る事にもなって、精神衛生の面からも良いと思うのだけど。
だって、別人でもきっと、目の前のこの人といなくなったあの人を重ねて見てしまうだろうから。
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2017/6/14  22:33 | 投稿者: 時鳥

銀座七丁目のガーディアン・ガーデンで影山紗和子さんの個展を見る。
「バクルームは地下」というのが個展のタイトルで、入ると、ドアのすぐ横から向こうの角まで、1枚の長い絵が続いている。
角をはさんで次の絵が、また次の角まで。そうして四方の壁の端から端まで絵巻物のように絵が続いて、ドアのすぐ横で終わる。終わったその絵は始まりとつながっていて、無限ループ構造になっている。
全体で「バクルーム」、1枚ごとの絵には「マジパンサスペンス編」「もぐら王国夕食会編」「改造人間もう見たくない編」などといったタイトルが付けられている。
絵だけれど、どんな絵か、何の絵か、と問われると返答に窮す。
絵の真ん中あたりに主人公らしき生き物がいて、残像を描きながら絵巻物の中をずーっと移動している。女の子だったのが帽子の化け物みたいになったり、猫だったのが河童になったり。怪しいサンドイッチの機械はネズミっぽいものをはさんでいるし、ぬいぐるみはかっさばかれて綿だか腸だかがはみ出す。
目のさめるような楽しい色彩感覚、ふやっと柔らかな、つついたらゆがみそうな線、かわいさとグロテスクが入り乱れたタッチ。夢かアリスの世界っぽいけど、夢にしては目まぐるしい。試験前とかに焦りながら昼寝をしている時、こんなだった気がする。
延々とループする不条理な世界の謎をちょっとでも解こうとして見入ると、癖になって、ミイラ取りがミイラになる。
画面の真ん中を横断する生き物はめまぐるしく変化して、2歩前と今ここでは、まったく違う姿に変わっている。
残像みたいに、分身みたいに、軌跡みたいに、絵は連続しているから、当人の意識は途切れていない。自分は自分だと思っているだろう。
けれど傍から見たら、同じ生き物とは思えないくらいに違ってしまっている。
実はわたしも傍から見たらこんなだったりして。
そんなことを、ひょいと思う。
数年前に描いた文章を読み返すと、確かに文章を書いた記憶はあるのだけど、今の自分とは違う人が書いたみたいに思えることがある。
1ヶ月前にした仕事がまったく記憶になくって、過去の自分に感心したり罵倒したりする。
あれって、ここに描かれている河童と2歩前の猫みたいなもので、わたしじゃない誰かのやったことに、もうなっちゃってるのかもしれない。現実逃避、責任回避。

参考:
http://rcc.recruit.co.jp/gg/
※会期は6月16日まで
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2017/6/11  22:16 | 投稿者: 時鳥

府中市美術館で「浅野竹二の木版世界」展を見る。
1900年に京都で生まれ、1999年に京都で亡くなった木版画家だ。
当初は日本画家を目指していたが、木版画家に転向し、全国名所絵版画で名を知られるようになった。
それから自分で描いて彫って摺る創作木版画に重心を移し、90歳代になっても彫り続け、彫れなくなっても絵は死ぬまで描き続けた。
京都の街角を描いた30歳ごろの作品が、最初のコーナーの1枚目の作品だった。
舞台は京都だが、古さや重さは感じない。モダンで軽やかな風が吹いていて、とても自由だった。
年をとるにつれて、もっと自由になっていった。
不要なものはどんどん抜け落ちて、線は大胆に、残ったものは深みを増した。
柔らかな色彩の風景はほこほことし、創作木版画は迷いなくシンプルになった。
この人はもう何も怖くないみたいだ、と、80歳代の作品を見て思った。
「怖いもの知らず」とは違う。
この世の恐ろしい部分はたくさん見てきて知っているが、それでももう、怖くないのだ。
勝ち負けとか、これまでとかこれからとか、できるできないとかに頓着せず、今の自分に描けるもの、描きたいものを率直に描いている。
何も知らないのではなく、知った上で飾りなく無邪気で、曇りがないこと。
天衣無縫って、そういうもののことを言うんだと思う。
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2017/6/4  22:35 | 投稿者: 時鳥

角を曲がると、髭面の男が刃物を構えて立っていた。
ぎょろりとした目と大きな刃先がこちらを向いている。
悲鳴はかろうじて飲み込んだが、一歩飛び退る。
いると知っていても、ぎょっとして心臓が跳ねる。
どうして博物館の考古展示室でこんな目に遭わなきゃならんのだろう。

國學院大學博物館の考古展示室には、縄文時代の男性と女性の等身大の人形が設置されている。
女性のほうはかがみこんで貝を拾っているからいいのだが、男性のほうは先端に黒曜石の矢尻が付いたヤリを手にしていて、あろうことか、それを角を曲がってくる人に向けている。表情もやる気にあふれている。私が鹿だったら倒されているところだ。
いることを知っていて健康な私でもこんなに心臓に悪いのだから、本当に心臓の悪い人が知らずに出くわしたら、洒落にならない事故でも起きやしないかとちと心配になる。
刃物をこっちに向けないでくれるだけでもいいんだけど。

このタイミングで國學院大學博物館に行ったのは、もちろん、高円宮家所蔵根付コレクション展を見るためで、そっちはもう大変に満足して、あと2回くらい見に行く気満々。
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2017/5/29  22:40 | 投稿者: 時鳥

「いつかチェコに行かなきゃ駄目だな」と。
ミュシャ展の会場で決意した。もう10年以上前のことだ。
その場には、連作「スラヴ叙事詩」の下絵と写真が何枚か展示されていて、連作の全作品がチェコのとある城にあることを伝えていた。
ひと目で、これはミュシャの本気の作品だとわかった。
絶対に実物を見たいが、スラヴ叙事詩は20枚の連作絵画作品で、1枚が非常に大きく、輸送は難しい。
そしてさらに重要なことに、これはチェコにとっては民族の宝だ。国外に出ることはまず考えられない。
となると、現地まで見に行かなければならない。絵を見るためだけにチェコまで行くなんて、酔狂が過ぎると思われるかもしれない。だが、ミュシャの「スラヴ叙事詩」にはそう思わせるだけの力があった。写真からでも伝わってくる力だ。

「いつか」はなかなか訪れなかった。健康で、平均寿命までまだたっぷりあったものだからのんびり構えていたら、予想外の事態が出来した。
なんと、「スラヴ叙事詩」の方が日本に来てくれるという。20点全点、展示替えなしで一挙公開。嘘みたいな機会到来だ。
かくして、チェコに行く代わりに六本木の国立新美術館に足を運ぶ。

会場に入り、絵の前で足を止めた。
何分間か一歩も動かず、巨大な絵を文字通り仰ぎ見る。
スラヴ叙事詩は、小さな作品でも高さ4メートル、大きな作品では高さ6メートル、幅は8メートルに及ぶ。
人生を賭けた仕事というのは、本当にあるのだと実感する。
この連作に描くために自分は生まれてきた。少なくとも、画家はそう信じていたに違いない。才能、財産、人脈、時間、自分の持つものを全部注ぎ込んで、この20枚を描いた。

アルフォンス・ミュシャは、チェコのモラヴィア地方に生まれた。
20代でパリに出て、たまたま名女優サラ・ベルナールのポスターを担当したことから一躍人気画家となり、フランスでもアメリカでも名声を博したが、後半生は故国に戻った。
「スラヴ叙事詩」は、故国に戻ったミュシャが17年をかけて描いた、スラヴ民族の歴史群像だ。
どれも力強い絵だが、1912年に制作された最初の3枚はことに気迫がみなぎっていて、圧倒される。
黙って見上げて畏敬の念に打たれた後、泣き笑いに近い微笑が浮かんでくる。
そうか、これが描きたかったのか。よかったねえ、描けて。

傑作と単純には言い切れない部分がある。
ミュシャを特徴付ける流麗な筆致はパリ時代より深みを増し、人々の喜びや嘆きを余すことなく表現する。建築、服飾、儀礼などの文物もよくよく調べて真面目に丁寧に描いている。色彩感覚も飛びぬけていて、叙事詩の名にふさわしい、詩的で典雅で荘厳な空気にあふれている。
しかし、色々なものを画面に詰め込みすぎて、全体的に取りとめがなくなっている部分もあるし、写実的な部分と夢想的な部分が入り混じっていて、どっちつかずな感じもする。
こんな大きな絵にしなくても伝えることは出来たんじゃないかと思わなくもないし、大上段に振りかぶり過ぎてて、押し付けがましい。
基本的にはこの人、画家ではなくイラストやデザインの分野の人なんだと思う。
1910年代から20年代にかけての作品だが、当時の現代美術と並べれば古臭いし、教会美術にしては画風がイラストっぽい。
離れて欠点を探せばいくらでも見つかる。
実際、連作が完成した直後にお披露目をした際には、ほとんど評価が得られなかった。
30年代にはナチスがチェコに侵略し、この連作を描いたミュシャは愛国者とみなされて連行され、何日も尋問を受け、釈放はされたものの、その後すぐに亡くなっている。
遺族が避難させなければ「スラヴ叙事詩」は破壊されて、現在まで残ってはいなかっただろう。

何年も全身全霊をかけて打ち込んだのに世間には受け入れられず、制作期間中に第一次世界大戦が始まり、世界は彼が絵にこめた願いとは裏腹に、戦争へと向かっていく。絵は逮捕の理由となり、死の遠因となる。
結果として「スラヴ叙事詩」は画家に落胆と不幸をもたらしたわけだが、それでも画家は「この絵を描かなければよかった」とは一瞬たりとも考えなかっただろう。
評価されないよりはされたほうがいい、逮捕も尋問もされない方がいい。
でも、この連作で問題とされているのは、そういう外側のことではないのだ。
自分で自分を恥じないで済むか、この世でやるべきことをしたか、とどのつまりは、死んで神様の前に出た時に申し開きができるか、ということなのだ。
こころざしは、覚悟を決めた人間の内部から生まれる光だ。
その光が作品の隅々まで満ち溢れていて、それがこの連作を人類の生み出した宝にしている。
欠点があっても、これより優れた作品がどれだけあっても、関係がない。
堅くて純粋なこころざしがここにはある。

故国を出て、パリで名声を得て、華麗な画風で美女を描いて社交界の寵児となった。
その時代の自分を後年のミュシャは恥じる。
故国のために民族のために、自分はこれまで何もしなかったと悔やむ。
後ろめたさを少しでもぬぐうために、スラヴ民族の歴史を描く。
壮大なスケールで、思いのたけをこめる。
最初の3作品を描いた時、彼は、自分の絵が役に立つと信じていたと思う。
民族の歴史に誇りを持て、と彼は言う。スラブ民族の苦難と栄光を掲げて、その末裔であることに自信を持て、と真正面から演説する。
しかし、その後に彼は一度、信じられなくなったらしい。無条件の礼賛が少し曇る。悲惨な歴史を描いて、救いがない。
このまま先細りになってもおかしくないのだが、20年代に入って、絵が別の光を帯びる。
希望、と言ったらいいだろうか。
過去を描きながら未来を二重写しにして、こうなって欲しいと言っているみたいな作品だ。
ミュシャ個人の思い入れが混じっていて、歴史画としては適切ではないのかもしれない。
しかし、もう一度、こうなれるかも知れないという希望を観る人に与える。

神様の前に出た時に申し開きが出来るか、とついさっき書いた。
神様の前でこの人は、後悔の言葉を述べたかもしれない。
自分の絵は人を動かすことが出来なかった、世界は何も変わらなかった、と。
でも絵には、もう固まって動き始めた現実の流れを別の方向に変えさせる力なんて、元々ほとんど備わっていない。
その代わり、現実ではまだ誰も見ていないものを形にして見せて、迷っている人々を少しだけ引き寄せることはできる。よくない道を選ぶ人が少し減るのだ。
「スラヴ叙事詩」は現在をすぐ変える薬ではなく、未来の行動に対して影響を及ぼす、遅効性の薬だ。効力はまだ切れていない。
病気をあっという間に治す特効薬は、凄いものに見える。
だが、そもそも病気にかからなくする予防薬のほうが、実は特効薬よりも凄いのだ。
治る以前に病気にならないのだから、損失が一番少なくて済む。
ミュシャが魂をこめた「スラヴ叙事詩」は、きっと人類が良心を保つために生み出された予防薬のひとつなのだと思う。
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