2017/12/4  21:47 | 投稿者: 時鳥

今年も残すところ、1ヶ月を切った。
最近、毎日のように「日本アニメーション映画クラシックス」のサイトに行っている。
日本アニメーション誕生100周年を記念して公開されたサイトで、
戦前の日本のアニメーションがたっぷり視聴できる。もちろん無料。

しかしこのサイト、今年の年末までの試験運用というかたちで
始まっているため、来年以降は見られる保証がない。
そこで今、駆け込みで次々に作品を見ている。
今は、村田安司の作品を片っ端から見ている。
切り紙アニメーションの作家で、1927年の「猿蟹合戦」がデビュー作。
このデビュー作がぶっとんでいて、そこからのめりこんだ。
蟹の子供は最初の場面から奇天烈な動きをするし、
蟹のお父さんは蟹走りで度肝を抜く。
猿蟹合戦がこんなにちゃんと面白いとは思わなかった。

動きを描くのが上手な人で、動物キャラクターが動き回る作品では
常に予想の斜め上を行く動きが用意されていて、とても楽しい。
「動物オリムピック大会」「漫画 おい等のスキー」がお気に入り。
切り紙ということは一枚一枚切り抜いているはずなのだが、
線が生き生きとしていて、切り絵だとはとても信じられなくなる。

日本アニメーション映画クラシックス
http://animation.filmarchives.jp/index.html

2

2017/10/10  22:08 | 投稿者: 時鳥

ブラジルの長編アニメーション。原題は「少年と世界」。
主人公の男の子は農民のお父さんとお母さんとつつましく暮らしていたのだけど、
ある日、お父さんが出稼ぎに行ってしまう。
蛇のような汽車がにょろにょろと動いて、お父さんを連れて行く。
平原に風が渡る。丈の低い草が一斉にそよぐ。
男の子はトランクを引きずって、お父さんを探しに旅立つ。
男の子はとても小さい。まだ小学校にも通っていないような年頃だ。
丸にちょんちょん、みたいなシンプルな線で描かれた男の子は、家を離れて、世界と出会う。
進むごとに姿を変える世界が、みずみずしく描かれる。
これはきっと、この子の目に映る世界だ。
先入観なしに物事を見て、興味のあることを凝視し、興味のないものは目に入らない。
世の中の理不尽も不条理も、まだ彼にはわからない。
不思議そうな顔で、身体全体を使って、世界を走り抜ける。
雇用、労働、住居、環境などなど、各種の問題が顔を覗かせて、
大人としては引っかかりを覚えながら男の子の後を追う。
伸びやかでみずみずしいけれど、軽くはなく、後味はやや苦い。
わかり易い説明をいちいちしてはくれないので、見終わってから、端々を思い出して、
あれは一体何だったのだろう、と何回も考えることになる。
2

2017/9/27  7:35 | 投稿者: 時鳥

真っ白な羊毛のかたまり。丸いかたまりに黒い眼が点り、口が開く。
まだ真っ白な生き物だ。
暗色の毛糸やリボンでできたかたまりが白に眼を留め、声をかける。
かけた声は赤い毛糸になって白の中に吸い込まれ、口元を紅のように縁取る。
微笑んだ白が、白い糸を吐く。それは暗色に入って、頬のあたりに縫い止められる。
出会い頭、関わりの始まり。

英国のアニメーション作品。
7分の作品の中で、2つの生き物が出会って、幾重にもつながって、影響を与え合って変わる。
黒いものにとらわれて、相手のことが見えなくなる。
ふたつの毛玉によって語られる、至極当たり前の恋物語。
ふわふわした繊維が広がる空間はあたたかくやわらかく、閉じられている。
お互いしかいない閉じた空間で、色とりどりの糸が幾重にも交わされ、絡まる。
やわらかくてきれいなものでがんじがらめにされる。ああそうだなあ、と思う。
シンプルでとてもわかりやすい物語なのだけど、結末だけは解釈が分かれそうなものになっている。
見終えて、あれはどういうことだったのかともやもやする。
心のもやもやと映像世界のもやもやした感触が重なり、忘れがたい。

「A Love Story」Anushka Kishani NAANAYAKKARA
2

2017/9/25  23:16 | 投稿者: 時鳥

「LISTEN」という題のドキュメンタリー作品を見る。
約1時間にわたる映像には、音声がまったく付けられていない。
出演者は15人の聾者たちで、主題は音楽。
彼らに対するインタビューの場面では、手話に日本語の字幕が付く。
インタビューもあるが、メインとなるのはひとりひとりが考える
「音楽」を身体で表現する場面で、清新な表現が大変印象深い。

これを舞踊と呼んでも間違いではないのだろう。
だが、舞踊を目指して舞踊になったのではなく、
表現を探したら舞踊に近いものになったのではないかと思う。
こうしたらこう動くべき、という決まったものが無く、即興的で自由だ。
彼らの身体は雄弁で、特に手首から先の雄弁さは際立っている。
身体のほかの部位が雄弁な人はダンサーにはたくさんいるが、
手首から先がこれだけ雄弁な人はダンサーにも滅多にいない。

動きを高い精度で意識している人たちなんだろう。
たとえば、耳が聞こえてダンサーでもない普通の人にとっては、
机の上にあるものを取り上げる時に右手の薬指の第一関節を
曲げるか伸ばすかは大した違いではない。
完全に無意識に身体を動かしている。
だが、この映像に出てくる人たちはそうではない。
伸ばすか曲げるかで意味が変わる世界に住んでいる人たちで、
だから、手話で話す時でなくても、動きのちいさな違いを明確に意識している。
生きてきた世界って、こんな風に端々に顔を出す。

「LISTEN」牧原依里、雫境
2

2017/9/14  23:37 | 投稿者: 時鳥

時は17世紀、フランドル地方の小都市ボームは祭りの準備に忙しい。
そこへ、スペイン軍の部隊が近づいているとの報が入る。
残虐で名高いスペイン軍に怯える人々。
市長をはじめとする町の有力者は頭をつき合わせて知恵を出し合い、名案を思いつく。

市長が死んだことにしよう。
逆らわずにみんなでそーっと隠れておこう。

それ名案なのか、という突っ込みを観客としては入れたいところだが、
観客が突っ込む間もなく行動を起こした人がいた。
市長夫人を筆頭とする街の女性陣だ。
事なかれ主義の夫たちに任しちゃおけない、自分たちで何とかしよう、
と演説をぶち、即座に臨戦態勢に入り、武装を整える。
といっても、刃物や鉄砲や馬具を持ち出すのではない。
長持から出した一張羅でドレスアップし、食べ物や飲み物を用意して、
城郭の外まで迎えに出るのだ。

スペイン軍を率いるのは粋な公爵で、市長夫人らの迎えを喜んで
平和に入場する。
女性陣は好感を抱いた相手を自分の家でもてなそうと、取り合いをし、
もてなされてご馳走を出されたスペイン軍は終始機嫌が良い。
市長ら男性陣は部屋の奥で息を潜めて、妻たちとスペイン軍の親密さにやきもきしている。

どこをとっても実にフランス映画らしい作品。
笑い転げはしないけれど、くすくす笑いやにやにや笑いが随所でこぼれる。
フランソワーズ・ロゼーが演じる市長夫人は、美人とは言いがたいけれど
男前で凛々しくて、そのくせ艶っぽいし、
アンドレ・アレルムが演じる市長は肝っ玉が小さくって空威張りが情けなくって、
仕事はあんまり出来ない人だけど、でも憎めない。
周りにいる男も女も誰もかもが人間臭く、愛すべき人間だ。

冒頭、大勢の人が行き交う街の生活風景が素晴らしい。
ブリューゲルの絵で見た人々が生きて動いている。
牛を引く人、藁束を背負う人、鉄砲の練習をする一群、それを見物している子供たち、
屋外のテーブルについて何かを飲み食いする男たち、おしゃべりに興じる女たち、
橋の上に座り込んだ若い男、階段をほうきで掃く女、馬車、腕を組んで歩く男女、
船着場で樽を転がす男、たくさんの露天商とそこで買い物をする人々。
数百人の群集が、活気に満ちた街の風景を作る。
遠景にちょっと映っている人までが、何か目的があって動いているのが分かる。
細部までみっちりと意味の詰まった映像に見惚れる。
こういうもののことを、ゆたかと言う。

「女だけの都」1935年
監督・脚本:ジャック・フェデー
脚本:シャルル・スパーク
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2017/9/12  21:50 | 投稿者: 時鳥

娼婦がひとり、街角のショーウィンドウの前に立っている。
高いヒール、足首、脚、腰、肩から首の曲線を、カメラが舐めるように追う。
値段を告げて、女が背を向ける。通りを渡り、間口の狭い建物に入り、身をくねらせて細い階段を上がる。カメラはひたと貼り付いて、女を凝視する。
撮る者の視線の動きに、目が離せない。
被写体はこの際、どうでもいい。
視線があらわす欲望のほうがずっと興味深い。
各種フェティシズムの詰め合わせみたいなこの視線こそが、この映画の肝だ。
ほんの数分のオープニングで、そのことを理解する。

主人公のマークは、かの視線の持ち主。映画の撮影助手を本業にする彼は大変内気な青年で、家族も友人らしい友人もいない。常にカメラを手放せず、興味を覚えると場の空気を読まずにカメラを回してしまう性癖がある。
マークの亡き父は「恐怖」を研究する学者で、幼いマークは良い実験材料にされていた。
おかげでマークは大層いびつに成長し、父親からもらったカメラで「恐怖」を撮ることに執念を燃やす青年になった。
美しい女が死の恐怖に脅えるところを撮りたい。完璧に撮りたい。
撮っては自宅で現像して試写し、満足の行くまでリテイクを重ねる。

ひとことでいえば変態の殺人犯だが、完全に突き放せない部分がある。
興味を覚えたものをつい撮ってしまうという性癖自体は、映画を撮る人間にはよくある性質、カメラマンならほとんど必須の能力だと思う。
これは、自嘲と自虐の映画なのではないだろうか。
寝ている息子を恐怖に陥れ、状況を冷静に撮影する父親、諸悪の根源とも言えるこの男は、監督自身によって演じられている。
撮るためなら犠牲もやむを得ないとする考え方はマークに受け継がれる。
この映画を作った人々も、自分の中にマークとその父親がいることにおそらく気づいているのだろう。
そういえばマークと言う名前は、監督と脚本家の名前に通じるものがある。

台詞や登場人物の演技以上に、カメラの視線が物を言う映画だ。
信頼しているカメラマンがいないと撮れない映画じゃないかと思う。
マークの自室や階下の下宿人の部屋などは地味な色合いなのだけど、映画の撮影現場や街角の娼婦、マークが副業で行っているエロ写真の撮影現場などの女達のいる場面は毒々しいくらいに豊かな色彩にあふれている。
そして、マークの撮るフィルムはモノクロームで、現像と試写を行う部屋は薄暗く、半分闇の中にある。
「赤い靴」さながらの虚構っぽいけばけばしさと、実生活の地道さ、フィルムと試写室の闇が入り乱れ、日常と虚構と妄想の間を行ったり来たりする。

「血を吸うカメラ」1960年
監督・製作:マイケル・パウエル
原案・脚本:レオ・マークス
撮影:オットー・ヘラー
美術:アーサー・ローソン
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2017/8/20  23:27 | 投稿者: 時鳥

「たそがれの女心」というベル・エポックのパリ社交界を舞台にした映画を観る。
上流階級の紳士淑女は優雅に嘘をつき、火遊びをし、悪びれることなく騙す。
彼らの生活は何もかもがまるで遊戯のように見える。
軽やかで真剣さにも真実味にも欠ける。
女主人公は浪費の借金を埋め合わせるために、結婚記念のイヤリングを軽い気持ちで売る。
そのイヤリングは関係者の間を踊るように巡って、それぞれの心に波紋を投げかける。
ひとつやふたつのひびでは、物事は壊れない。響きが鈍くなって、ちょっとおかしいな、と感じるのが最初だ。
亀裂が拡がって、別の方向からもひびが入って、ほんのちょっとだけ無理な力が加わる。
その瞬間、いとも簡単にすべてが崩壊する。
引き返せないポイントに目印はなく、気付いた時はいつだって遅すぎる。
遊戯だったはずが、いつの間にか遊戯ではなくなっていた。
由緒ある美しい磁器に小さなひびが入って、あっという間に崩れていくような物語。
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2017/6/26  23:50 | 投稿者: 時鳥

「穴」という映画を見る。
1957年公開の日本映画で、監督は市川崑、主演が京マチ子。
サスペンスでコメディで、とにかく滅法面白い。
フリーの女性ルポライターがルポを書く為に1ヶ月間、失踪することにした。銀行員達は、自分達の横領犯罪のために失踪事件を利用しようとし、警察は彼女を犯人とみて追いかける。
監督と夫人の和田夏十が共同執筆した脚本はよく練られていて、隙がない。
テンポよく話が進み、個性的だけど身近にいそうな登場人物たちが入れ替わり立ち代り現れる。
映像は遊び心に満ちていて、音楽はあざといくらいに盛り上げたり盛り下げたり。
そして、京マチ子の変装と変顔が楽しくって仕方がない。
湿気た顔で煎餅をかじる、ださい部屋着のねえちゃんから、カリプソ・メークのグラマー美女、つんつるてんの着物に下駄履きのおばさんまで変幻自在。
留置場で薬物中毒者のふりまでしてる。
いちおう、美人女優のはずじゃなかったっけ。
羅生門とか雨月物語で絶世の美女を演じてたよねえ?いいのか、これ。

次々に身なりを変えて、しゃべり倒し、動き回り、八面六臂の大活躍。
周りを固める人々は誰も彼も一癖あって、腹に一物あるか余計なこと言うかするかのどれかか全部。
スピード感があって、洒落てて、笑いごとじゃないこともさらっと笑い飛ばす。
美しい京マチ子を見たい観客には不評だったろうが、はらはらして笑いたい人には、こんなにうってつけの作品もない。

個人的には、カリプソ・メークに目が釘付けになる。
唇の輪郭を茶系でくっきり描くのが特徴で、目元もくっきりと描く。
当時一般的だったピンク系の丸みを帯びた化粧とは真逆の方向に走っていて、1957年前後のほんの一時期だけ一部の人に流行した。
今見ると格好よさも感じるけれど、目鼻立ちがはっきりしていないと似合わない、人を選ぶメイクである。
京マチ子はその点、このメイクが似合う顔立ちをしている。
動いて話すカリプソ・メーク美女なんて、貴重品といっていい。目の保養。

「穴」1957年
監督:市川崑
脚本:久里子亭
撮影:小林節雄
音楽:芥川也寸志
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2017/4/29  21:42 | 投稿者: 時鳥

朝の5時に目が覚めて、そのまま「女殺油地獄」を見始める。
浄瑠璃ではなく、歌舞伎のDVDだ。
ゴールデンウィーク初日の朝っぱらから、油まみれの殺人劇。

簡単に言えば、不良少年が考えなしに喧嘩して借金して、家族やご近所に迷惑かけて、勘当されて、挙句の果てにはご近所の油屋の奥さんを衝動的に殺しちゃう話。
主役の与兵衛は欲望に忠実で我慢が利かないもんだから、遊び好きで仕事は長続きしないし、説教されれば逆ギレする。なのに、ちょっと脅かされればびくびくする。家族を悲しませたことを悔やむ心根も持っている。メンタル面は弱いが、基本的に悪人ではないのだ。
家族と近所の人は皆まっとうな人ばかりで、与兵衛に困っても、怒っても、憎むことはない。
悪人は一人もいないのだ。

あらすじは見る前から知っていたが、浄瑠璃でも歌舞伎でもこれまでに見たことがなかった。近松門左衛門の原作も読んだことはない。
初めて見て、交わされる応酬にはらはらした。
登場人物の次の言動が予測できない。
ついさっきまで与兵衛が父親を蹴っていたのに、今は父親が与兵衛を取り押さえている。
父親は好人物で、妻の連れ子の与兵衛を大切にしているが、妻や娘に暴力を振るう者を許せない。
登場人物がそれぞれ複数の行動原理を持っていて、心の中でバランスをとっている。
複雑なバランスは一瞬ごとに揺らぎ、表面に現れる行動原理がめまぐるしく変わる。
ひとりの心が変われば、その場にいる全員が影響を受けて、微妙に力関係が変わる。
登場人物の行動原理、あるいは心の領域は、低い柵で区切られていて、簡単に超えられる。
世間では、多くの人は危険な感情と安全な感情の間に高い柵を築いて、越えにくくしている。この作品でも、ほとんどの人は安全な範囲でしか感情を動かさないのだが、与兵衛はちがう。
与兵衛においてこの柵はとても低く、脆く、ほんの一押しで謝罪が暴力に、哀願が殺意に切り替わる。
相手のちょっとした言葉尻が痛いところに触れて、言うはずのなかったことまで言ってしまう。その言葉が売り言葉となって、買い言葉が返って来る。
言葉がぶつかり合って、人の心が波打つ。波が高くも低くもなる。
会話に力があるから、結末を知っていても、手に汗握ることになる。
ひとつきっかけが違えば、人を殺すまでは至らなかったはずなのに、かみ合ってはいけない歯車がかみ合ってあの結末に雪崩れ込む。

殺人の場面はこの演目の最大の見せ場で、もちろん目を輝かせて見入った。
しかし、この演目の魅力はそれだけではなく、実は老練な会話の運びこそが、この演目を支える底力として働いているのではないかと感じた。
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2017/4/27  23:15 | 投稿者: 時鳥

「獣人」という題の古いフランス映画を観る。
原作はエミール・ゾラが1890年に発表した長編小説で、映画は1938年に封切られた。
機関士や駅員、踏切番といった、鉄道関係で働く人とその家族を描いた作品で、原作が書かれた当時の現代における社会問題を正面から取り上げている。
鉄道と言うのはやはり、人間の生活感覚を根こそぎ変えたらしい。
速度の感覚、時間の感覚、距離の感覚、生活サイクル、職業観、価値観、人生観。
鉄道によって、生活が変わり、人と人との距離のとり方が変わる。
感覚が変われば、人生が変わる。
たくさんの人間の人生が変われば、社会も引きずられて変質する。
少なくとも、ゾラはそう信じていたのだろう。
鉄道が人を変え、社会を変え、そしてその社会と人が鉄道を運用し、さらに発展させる。
フィードバックを繰り返し、共鳴しあって、雪だるま式にふくれあがる様子は、傍から見ていても恐ろしさを覚える。

映画が撮られた1938年から見た1890年は過去だが、手の届かないほどの遠い過去ではない。
当時を知る人がまだ存命しているくらいの割と近い過去だ。
だからだろうか、原作は読んでいないのだが、映像から当時の感覚が伝わってくる。
「鉄道」を別の技術要素、たとえば「インターネット」とか「SNS」とかに変えれば、今だってよく似た現象が起きているように思えなくもない。
2

2017/4/25  22:40 | 投稿者: 時鳥

ヤン・シュヴァンクマイエルの「アリス」を観る。
1988年に公開された映画で、一言で言えば『不思議の国のアリス』を実写化した作品なのだけど、しかし、ルイス・キャロルの世界を忠実に実写化したわけではない。
大筋は『不思議の国のアリス』に則っているが、あくまでこれは、「ヤン・シュヴァンクマイエルの」アリスだ。

知らない国のお菓子をもらった。見知らぬお菓子だ。
原材料欄を眺めても、半分以上が意味不明で、原材料も製法も、さっぱりわからない。
得体が知れなくて、身体に悪そうなのだが、食べてみたくて堪らない。
そんな味わいの映画だ。
古い機械で作られた色鮮やかな駄菓子のように、手仕事と機械、素朴とケミカル、不気味さと愛らしさが絶妙に入り混じっている。
奇妙だが、極めて魅力的。
古い剥製のウサギがいびつに動き始め、胸の毛皮の裂け目からおがくずまみれの懐中時計を取り出す。しかめっ面のアリスはティーカップに小石を投げ入れて退屈を紛らわせている。剥製のウサギを見咎めて、しかめっ面のまま後を追う。ウサギは何度も懐中時計を取り出し、そのたびにおがくずをこぼす。お腹が空いたのか、平鉢に盛ったおがくずを、コーンフレークよろしくスプーンで食べたりもする。
ストップモーションの技法で、剥製や人形やぬいぐるみが動く。
が、その動きは生物らしくなく、機械的、というか、物として動く。
生物由来の物ですらそうなのだから、食器、建物、衣類、その他もろもろは、それはそれはぎくしゃくと、角張って動く。
異様な動きである。
いちいちどこかに突っかかっているようで、観ていてちっとも気持ち良くないのだけど、この奇妙な味わいが不思議なことに、癖になるのだ。
印象的ないくつかの場面の断片が、頭の隅にこびりついて離れない。
観終わって少し経つと、もう一回観て、また煙に巻かれてみたくなる。
くせものだ、これは。

「アリス」1988年 84分
監督・脚本・美術:ヤン・シュヴァンクマイエル
アニメーション:ベトリフ・グラセル
撮影:シュヴァトプルク・マリー
編集:マリエ・ゼマノヴァー
共同美術:エヴァ・シュヴァンクマイエロヴァー、イジー・ブラーハ
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2017/4/11  22:30 | 投稿者: 時鳥

しばらく前に、「幻想メトロ」という題の短編アニメーションを見た。
地下鉄の車窓から外を眺めているような視点で全編が固定されている。
地下鉄の走る暗闇に、壁の明かりがぽつぽつと暖かい光をにじませている。
車両が滑り込んだ明るい空間は、黒山の乗客が待ち構えるホームではなく、どこかの街の古い通りだ。
この街を、子供の頃の夏休みに訪れたことがあるような気がする。
地下鉄は止まらずに、ゆるやかに路地の脇を通り過ぎていく。
微笑む女性、走り回る子供、自転車、露天商。
懐かしい日は触れることを許さずに、目の前をただすり抜けて遠ざかり、再び車両は暗闇に戻る。
にじんだ色彩は、雨の日のネオンサインのように柔らかく、ちょっと淋しい。

「死ぬ直前に一生が走馬灯のように頭をよぎる」なんてことをよく言う。
けれど私は、実際の走馬灯なんて見たことがない。
だから私の場合はきっと、こんな風なんじゃないかと思う。
急行電車の車窓から通過駅のホームを眺めるように、一生の記憶が脳裏を駆け抜けるのではないだろうか。
眼前を飛び去ったものの中から、刹那、何かが目に止まる。
振り返っても確かめられない。
頭の中で、見たものを反芻する。
忘れたつもりでいたけれど、そういえば、そんなことがあったのだった。

「幻想メトロ」新藤真木子 2017年
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2017/4/9  23:40 | 投稿者: 時鳥

「ロバータ」という映画を見た。
1935年公開、アステアとロジャースがコンビを組んだ3作目の作品。
見ていると、面白いダンスがあちこちに散りばめられている。
どうしてこれまで知らなかったんだろう、と不思議に思った。
アステアとロジャースのコンビでは、屈指の出来栄えなのに。

まず、映画会社がMGMではなく、ラジオ・ピクチャーズだった。
古いミュージカル映画は、「ザッツ・エンタテインメント」でワンシーンを見かけて、全編を見るという流れを取ることが個人的には多い。
あれは、MGMの作品を主に収録しているから、「ロバータ」は収録されにくい。
あれにばかり頼っていると、こういうのを見逃すのだな。軽く反省。

あと、映画全体としては、それほど素晴らしい作品ではない。
主役カップルは二組いて、片方はアイリーン・ダンとランドルフ・スコット、もう片方がアステアとロジャース。
アイリーン・ダンは歌が上手いけれど踊れない、スコットは歌えも踊れもしない、アステアは歌って踊れる。
ジンジャー・ロジャースは頑張って歌っているけど、正直なところ歌はあまり上手くない。無理して歌わせなくても、踊るだけでいいんじゃないかな、という感じ。
アステアが振りつけたダンスパートはとてもいいし、アイリーン・ダンの歌も豊かな陰影があって良いけれど、延々とファッションショーをやったり、店を辞めるの辞めないので妙なもめ方をしたり、いてもいなくてもいい婚約者なんかが出てくるのは退屈。
あちこち無駄が目に付くところが、傑作と呼ばれない所以じゃないだろうか。

バンドマン達が白手袋の手を並べて、オルガンのまねをする場面、
アステアとバンドマンがバルコニーの下で演奏する場面、
アステアとロジャースがダンスで痴話喧嘩と仲直りをする場面、
アステアのピアノ演奏場面などが、印象に残った。
後の作品では見かけない感じのダンスがいくつも入っている。
若くて、映画ではまだ経験が浅かったから、いろいろ可能性を探っていたのだろう。
こっちを伸ばしてもよかったんじゃないかって要素が、ここにはまだ残っている。
選ぶことには必ず、選ばなかったものを捨てることがくっついてくるものだから。
全部を選べない以上、仕方がないけれど。
1

2017/4/4  23:08 | 投稿者: 時鳥

『リリー』という題の古い映画を観る。
純粋無垢な孤児の美少女と、元ダンサーの人形遣いが主人公だ。
レスリー・キャロン演じる美少女は遊び人の魔術師に夢中、人形遣いは美少女が好きなのだけど、足の故障で夢が破れてひねくれちゃったものだから、素直に言えない。
人形遣いは、4体の人形を操る。赤毛の快活な少年、臆病な大男、ずるがしこいオオカミ、うぬぼれやの貴婦人は、どれも彼の分身だ。
美少女は人形と、真摯に素直に対話する。
裏で操っているのが彼だと言うことに、彼女は気付いていない様子で、まるで人間に対するかのように相対する。
だから、人形の後ろから彼が現れた瞬間、彼女はショックを受ける。

「じゃあ、何だと思ってたのよ?」
その場面になるや否や、つい口に出して突っ込んでしまった。
16歳にもなって、人形が本当にしゃべっていると思っているんだとしたら、精神発達上の問題が必ずある。いくらピュアで天使のような美少女だってありえないだろ、ふざけんな。

レスリー・キャロンは悪くない。
悪いのは、無垢な女の子を求めて異常な脚本にした映画会社かスポンサーだ。
予想通り、美少女と人形遣いは相思相愛になってハッピーエンドとなるわけだが、かわいいレスリー・キャロンにほのぼのとするわけだが、しかし、冷静になってみると、相当に気色の悪い話ではある。
この映画に出てくる一番の人形は、レスリー・キャロンのように思える。
人形遣いが、生身のかわいい人形を新しく手に入れる話。
でも、人間は成長する。16歳の無垢な少女は、いつまでも可愛いだけではない。
世間を知った後で、それでも人形と他愛のない会話をし続けるのは、相当の演技力が要る。
今、彼女と人形のやり取りが観客の人気を博しているのは、それが無作為だからであって、これが演技になっても人をひきつけられるのかは疑問だ。
数年後を考えるとどうしても、不穏な行く末ばかり見えてくる。
いい大人としては、こんな終わり方は無責任じゃないかとか思ってしまう。

二十歳過ぎてこんな頭の悪い小娘を演じさせられるなんて、レスリー・キャロンとしても、矜持が傷ついたんじゃないだろうか。
こんなのは、誰かの都合のいい妄想だと、わからなかったはずはないから。
2

2017/3/31  23:19 | 投稿者: 時鳥

映画館でバレエを見る。
演目は、ボリショイ・バレエの「明るい小川」。
「明るい小川」は元々、ショスタコーヴィチが1930年代に作曲したバレエ音楽で、初演もその時期だったが、すぐに当局に目を付けられて上演できなくなった。
今世紀に入ってから、その音楽に、アレクセイ・ラトマンスキーというボリショイ・バレエ学校出身の振付家が振付けて、ボリショイ・バレエの演目にした。

農場「明るい小川」を舞台に繰り広げられる、2幕の喜劇バレエ。
田舎の農場にある日、モスクワからバレエ団がやってくる。
農場で暮らすジーナと一座のバレリーナは、かつてバレエ学校での旧友だった。
偶然の再会を二人は喜び合う。
ジーナの夫ピョートルは、バレリーナに一目惚れし、別荘の住人である初老の夫婦は、バレリーナとバレエダンサーにそれぞれ熱を上げる。
農場の人々、バレエ団の人々が入り乱れて、昼のエネルギーを振りまく。
続く第2幕はその日の夜の出来事。
バレリーナの発案で、ジーナはバレリーナのふり、バレリーナは男装、バレエダンサーは女装して、それぞれにややこしい逢引を執り行う。

ロマンティック・チュチュの襟ぐりから胸毛をのぞかせたバレエダンサーと、ひょろっと背の高い、とぼけた雰囲気の老人が「ジゼル」のようなバレエを踊る。
バレエダンサーはしょっちゅう地金が出るし、老人はタイミングを外すわ、古女房に見つかりそうになって逃げるわ、バレエダンサーにおちょくられるわで、てんで決まらず、面白いことこの上ない。
古女房は古女房で、フラメンコダンサーの如き真っ赤なフリルのドレスを着て登場し、猛烈に迫って男装のバレリーナをたじろがせる。
気障なアコーディオン奏者、こまっしゃくれた少女、農場のお偉方など、周りを固める人物も個性豊かな踊りをたっぷり見せてくれる。

いかにもボリショイらしい演目だと思う。
スピーディーで切れのいい踊りが次々に繰り出され、凝った振り付けも軽々と踊られる。
活発で飾り気がなく、登場人物の性格や台詞が身体の端々から素直に伝わってくる。
ショスタコーヴィチの音楽は若々しくて、生きがよい。
ロシアの田舎らしい、土臭くて健康的な力を持つ一方で、所々にジャズの臭いを感じさせたりもする。
そしてボリショイ・バレエ団が、この音楽と振り付けにぴたりとはまっている。
他のバレエ団では、この泥臭さ、よい意味でのダサさが出ない。
スマートに演じてはいけない演目なのだ。
舞台美術も、そこはかとなく田舎っぽくって、抜けたところがあって、ロシアの田舎のよいところを凝縮したみたいな味わいがある。
ソリストが素晴らしいのは当たり前としても、群舞の一人一人にいたるまでが生き生きとしていて、自信満々で踊っているように見える。
これは自分達の演目だと、全身で言ってるようだ。
最初から最後まで、退屈する暇がないくらい楽しくて、いいもの見たなあ、と上機嫌で映画館を出る。
こんな無条件に楽しいバレエも珍しい。

「明るい小川」2012年4月29日 ボリショイ・バレエ
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