4月29日10:50、現状で3つある函館市電の終点のひとつ、谷地頭に到着。
ここからは「碧血碑」を目指す。これは、戊辰戦争(函館戦争)における東軍(旧幕府軍)の戦死者慰霊の碑だ。私の元々の興味の範疇は、日清・日露戦争から10年戦争(日中戦争・太平洋戦争)の時代に建てられた忠魂碑・忠霊塔なのだが、函館まで来てさすがに素通りはできまい。
函館八幡宮を通り抜け、裏山へと分け入るかのような道を進んで碧血碑のもとへ。これが結構な距離で、地図での印象よりもずっと遠い場所にある。
人目を避けるかのような場所ではあるが、碑それ自体はなかなか大きく立派なもの。
碧血という、少々奇妙な感じのする名称などについては、傍らの解説板に書かれていた。
碧血碑
函館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎介父子をはじめ、北関東から東北各地での旧幕府脱走軍の霊を弔っているのが、この碧血碑である。碑石は、7回忌にあたる明治8(1875)年、大鳥圭介や榎本武揚らの協賛を得て、東京から船で運ばれたもので、碑の題字は、戦争当時陸軍奉行だった大鳥圭介の書といわれている。
碑の台座裏に、碑建立の由来を示す16文字の漢字が刻まれているが、その表現からは、旧幕府脱走軍の霊を公然と弔うには支障があったことが推測される。
なお、碧血とは「義に殉じて流した武人の血は3年たつと碧色になる」という、中国の故事によるものである。
函館市
「碑建立の由来を示す16文字の漢字」は以下のとおりだった。
明治辰巳實有此事
立石山上以表厥志
明治八年五月
この碧血碑は『近代日本と戦死者祭祀』(今井昭彦・東洋書林)でも詳しく取り上げられている。そのなかから、16文字についての部分を以下に引用する。
台座の裏面には、「明治辰巳実に此事有り、石を山上に立てて以って厥の志を表す」(原漢文)と、僅か一六文字が記されているのみである。大鳥らは痛恨の思いで、この文字を刻んだことと思うが、単に「此事」というだけで、多くを語ろうとしない文字は、逆にわれわれに、実の多くのことを語りかけているといえよう。人目につかない東軍戦死者の埋葬地とともに、「敗軍の将」として、当時の政府を憚ってのことであった。
「こうなったら政府軍のほうの墓地にも行かねば」と、その後は護国神社に向かうことにする。
・
・
・
実を言うと、市電に乗るまで「碧血碑」の存在はすっかり忘れていたのだった。
「五稜郭公園前」電停では(あー、次の電車は「谷地頭」行か。「どっく前」行のほうがよかったんだけどなー。まぁいいや、いずれ完乗するつもりなんだし、乗っちゃえ)ととりあえず乗車。電車が動き出してから、一日乗車券に付いている観光マップを広げて(さて、谷地頭周辺には何があるのかな、と。「碧血碑」? 青い血? 北海道だけに倉本聰経由で「ブルークリスマス」か、はたまた「私は大人よ、いつまでも子供扱いじゃたまらないわ」のほうか??? )てな調子で、存在どころかそもそも何であるかさえ忘れていた。
まー、結果見てこれたのだから何も問題あるまい。

0