2020/3/16

イヤニュース銀座  
またボヤキだーーー近寄っちゃいけないよーーー

 黒子のバスケの作者への恐喝犯の意見陳述に対して、負け犬と感じる彼の人生が哀れで、それを裁くなんて正義も悪もないのではという意見がどうにも納得がいかない。

それは正義と悪の話ではなくて、知があるかないかの話だと思う。

自分が欲しいだけの結果を出せなかった、だからやり遂げた人を攻撃するというのは、前後の理屈があっておらんじゃろ?
前半までは自分の問題を話していて、途中からいきなり遠くにいる関係ない人の攻撃の話になる、それは自分の行動を見ることがイヤになって視線を移した先にいた憧れの人に殴りかかったってだけジャマイカ。
罪を犯してそれが発覚して裁かれる段階になってもまだ、自分のイヤイヤ行動(一番最初の失敗)すら見直していないのであるなら、それは反省とか改善からは遠く離れているから、時間をかけて考えてとしか。
その幼さに、正義だの悪だのの表現をおっかぶせる外野はどうかすっこんでいらしてほしい。

やまゆり園での犯人も「生産性のない人は殺してもいいはず」という思い込み、それがほんとうは正義だと信じていたのも、やっぱり社会に対する知があまりにも足りなくて更にそれを実行するほどの自己陶酔をしてしまったからなんだろうけれど

厳密に生産性を求めるなら、赤子も子供も知識や体力の少ない人も老人もみな該当しないわけだけど、自分の過去と未来に関しては当然のように該当しないことになっているのは、語る正義が破綻しているんジャマイカ。
人を殺している時よりも、殺さなかった園のスタッフたちを拘束している時、自分は正義を執行しているんだからお前達は殺さないでおいてやる、って時に感じる万能感、英雄陶酔は、妄想の中で浸る人たちはたくさん知っているけれど、それを他人にぶつけるのは黒子バスケ恐喝犯と同じく悪い「飛躍」があると思う 先の行動がイヤイヤ行動だとしたらこちらは気持ちよくなりたいナリキリ行動で方向は逆だけど、でも自分の問題のはけ口に他人を使うのは同じなんじゃないか。

それを孤独とか可哀想というのは、甘えの共有みたいでなんかイヤだ。
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