日蓮『諫暁八幡抄』を読む(序)

2015/1/2 | 投稿者: ghost

正月から何やってんだ、と我ながら思わないでもないのだが、毎年恒例のシステムトラブルに備えた待機で職場近くのホテルに缶詰で年初を迎えたので、その暇潰しに日蓮『諫暁八幡抄』を改めて精読してみることにした。以下、本稿はその缶詰状態中に書き上げたものだが、これを一気に公開しても諸兄の読むに耐えないと思われるので、小分けに連載形式で出していくことになる。まぁ、そうしたから読むに耐え得る、というものでもないだろうが。

基本的に頭から順に読んでいくつもりで、適時必要に応じて原文を引くが全文を示すつもりはない。ボクに追従して全文を読みたいという酔狂な方は、日蓮遺文は結構ネット上で読めるのでググれば一発で出て来ると思うのだが、ものぐさな方のためにひとつリンクを示しておく。同じ編者の紙媒体にページ割りを合わせてあるため癖があるが、全文検索が出来るので便利なのだ。ちなみに左掲リンクURLは“八幡”で検索をかけた状態にしてあるので、文中の八幡がハイライトされていて、出てくれば一目でわかるという優れもの(?)である。

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『諫暁八幡抄』については八幡探訪シリーズの冒頭で少し触れたのだが、本文に入っていく前に、このテキストの背景についてもう少し詳しく言及しておくことにする。

本抄は、真蹟が現存しており(ただし前半三分の一は焼失しており、現在流通するテキストは写本も含めての再現版ということになるが、内容に疑義はないと考えてよい)また、執筆年次が不明(あるいは推定)であるものが多い日蓮遺文の中にあって、末尾に日蓮の花押(本人証明の署名)を伴って弘安三年太歳庚辰十二月と記されていることから、西暦1280年に書かれたものであることがわかっている。

さて、この1280年はどういった年であったか。弘安、と言えば真っ先に思い浮かぶところの弘安の役、すなわちいわゆる二度目の蒙古襲来が、本抄執筆のほぼ半年後となる1281年5月である。遡って1279年6月に鎌倉幕府は蒙古からの服属要求の使者を再び斬って捨てているので、下々の民草までがこの幕府の悪手を知っていたかはともかくとして、十中八九蒙古はまた侵攻して来るだろう=日本国に重大な危機が迫りつつある、と、時の権力者(執権は北条時宗)や他ならぬ日蓮を含む少なくない人々が確信していた情勢であったことをまず押さえておきたい。

日蓮自身の履歴としては、彼の没年は2年後の1282年であるから最晩年の書き物ということになる。日蓮の思想が、その宗教活動を通して固定的なものでは決してなく、特に佐渡への流罪を境に変化(深化?)していることは頓に指摘されるところではあるが、本抄に示されるのはそういった過渡期を越えた、ほぼ完成した彼のそれと考えて間違いない。つまり、本抄を精読すれば、日蓮がその思想完成状態において、八幡なる神をどのように捉えていたか(遠慮気味に言えば、日蓮が周囲の人々に自身がどのように考えていると思って欲しかったか)がわかるはずである。


以上は歴史教科書的な知識であるが、より本抄に特化した話題としては、日蓮が本抄を執筆した直前と言って差し支えない弘安三年十月と十一月の二度にわたり、鎌倉の鶴岡八幡宮が大火に遭っている。十月には神宮寺と千体堂(いずれも八幡宮に付随する寺院施設)が、十一月には若宮、上下末社、楼門、八足門、廻廊、脇門、鐘楼、竈神殿、五大堂、北斗堂、中鳥居、千体堂尊勝仏、七仏薬師等悉く焼失『鶴岡八幡宮年表』(鶴岡八幡宮編/八木書店,1996年)よりという有様で、ほぼ全焼と言ってよかろう。

現代人の感性からすれば、これはたかが神社の火事である、神社だって人が作ったものなのだから、火事に遭うことだってあろう、で済む話である。が、時は中世鎌倉時代。さらには、鶴岡八幡宮といえば源頼朝の開幕以来、武家政権の氏神としてその権威的・精神的拠り所とされていた宮である。ましてや、何時再び蒙古襲来があるか、という緊迫した情勢下においてその拠り所が大火焼失したのであるから、その事件の衝撃は現代の我々が想像するそれを遥かに凌駕していたと考えるべきであろう。

このとき、日蓮は既に鎌倉を離れ、現在は日蓮宗の本山になっている山梨県の身延山で弟子の育成をおこなっていたとされる。当時のことであるからリアルタイムで大火の事実を知る手段はなかったはずであるが、やはりこれは一大事であるという認識で、鎌倉在住の門弟が顛末を日蓮にとり急ぎ報じたのであろう。本抄はこの事件を受けて執筆されたもので、前述したように文末に十二月とあるのは全文を書き終え、かつ、花押が添えられている(間違いなく日蓮が書いたものであるとして公開される前提が整っている)からには校了も終えた時点であろうから、遅くとも二度目の大火の直後には執筆が開始されたものと考えることが出来る。この情報伝達速度からも、本件が、少なくとも日蓮門下、そしておそらくはその他の多くの人々に与えたであろう衝撃を窺い知ることが出来る。

さて、先に本抄を大雑把に要約した際に、半ば冗談めかして「八幡神を怒鳴りつけている随想的文書」と評したのであるが、これは本抄が誰に読まれることを前提に書かれたかが判然としない(無論、推測はできる)ためである。

日蓮遺文は概ね(1)幕府等の公的機関に対して書かれた書状、(2)弟子や門下に回し読まれることを前提とした経論、(3)信徒個人に宛てた手紙、に大別される(2と3は交じり合っていて、明確に区分し難いが)。原則論としては(1)は漢文体で書かれている。これは当時の公文書の世俗習慣に合わせたものであろう。(2)は漢文体のものと漢字仮名混じりのものがあり、(3)に至っては仮名のみのものもある。

これは日蓮が常に「誰に読まれるのか、誰に伝えたいのか、理解して欲しいのか」を強く意識する著述家であったことを示していると考えられるのだが、この観点で見た場合、本抄真蹟は漢字仮名混じりで書かれていて、かつ、通常(3)に分類されるものに特徴的に見られる差出人に対する礼状(日蓮の生活は門下から提供される衣食その他に依存しており、彼の手紙には直前に受領した物品に対する御礼が多く見られる)を欠くので、消去法的には(2)の範疇に入る。

実際、書き出しの特徴などはこのカテゴリの文章に共通に見られるパターン(後日詳述)に合致するのだが、一方で、(2)の範疇の遺文の末尾にしばしば見られる「この文書はこのように扱いなさい」といった指示(読み手の前提知識不足によって信仰上の困惑を招くことを憚ったと考えられる)が本抄にはない。ところが、詳しくはこれもその部分が出てきたときに言及しようと思うが、突如として秘すべし、秘すべし、つまり、今ここに述べたことを軽々しく(おそらくは日蓮門下以外の者に対して)他言してはならない、などと書かれている部分や、自分=日蓮に対して批判的な弟子に対する物言いと思われる部分があったりもする。

このようなことから、日蓮宗学の伝統的な解釈からはやや逸脱することを承知の上で、個人的な判断としては、本抄は、現代的に喩えて言うならば、新聞などに掲載されるところの皮肉めいたコラムとして書かれ、端から門下外も含めた不特定多数の人に読まれることを日蓮自身が前提としていたのではないか、と考えている。これは、文中に鶴岡八幡宮炎上事件に対する直接的な言及がないこと、つまり、末尾の日付等から類推してわかる人には何の話かわかるが、わからない人には何の話かわからない書き方になっていることにも現れているように思う。

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以上のような前提を踏まえた上で、全何回になるか現時点では自分でもよくわからずにいるのだが、諫暁八幡抄を読んでいこうと思う。

目的とするところは、第一には八幡探訪シリーズの冒頭でも少し書いたところの、日蓮自身の八幡観を、ここまでの八幡探訪の成果(?)も踏まえてより理解すること、ひいては、彼が体現しているであろう中世日本人の八幡観に迫ってみたい、というものである。

それについて述べている部分のみを抽出することは決して難しくないのであるが、それをしてしまうと自分好みの答えだけを見出して満足してしまいそうな気もするので、暇にまかせて頭から読むことにしたのは、前述したような本抄独特の背景もあるので、日蓮が本抄を通じて読み手に伝えたかったことについて、いろいろと妄想を膨らませる作業が、純粋に知的に面白そうだと思ったから、というのもある。そういう意味で、この序を書いている時点では想像もしないような結論に至る可能性もなきにしもあらず、ではある。

あくまでもボクの個人的な愉楽を目指しているものなので、誰も真に受けて読んだりしないとは思うが、読者諸兄におかれては、何か疑問に感じられたことや、「オマエはそう言うけど本当はこーじゃねーの?」的な突っ込みがあれば、遠慮なくコメント欄その他の手段でクレームいただくのは、当方の勉強にもなるので大歓迎である。ただし、冒頭にも書いたように、諸兄の目に留まる時点では全稿書き上げ済みであると思うので、ご指摘いただいたことを無視して論旨が進むように見えることがあるかも知れないことは諒されたい。

と、前置きが長くなったが、次回から本文を読み進めていく。

つづく>>



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