私的イーガン解釈(1)

2015/2/21 | 投稿者: ghost

注)本連載はグレッグ=イーガン作品のネタバレを含む恐れがあります。本稿を読んでもイーガン作品を楽しむ邪魔にはならないと思いますが、ご自身でボクと同じ(または異なる)解釈に至りたい方は読まない方がいいでしょう。

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ほとんどの場合、もっとも信頼できる予測手段は、変異した種子それ自体がおこなうであろうあらゆる計算をおこなってみることであり……それはじっさいに種子を育てて精神を作りだすのと同じことで、予測でもなんでもない。
(『ディアスポラ』 p.16)

クリックすると元のサイズで表示します主人公が、総計二百六十七兆九千四十一億七千六百三十八万三千五十四の宇宙を旅する、お釈迦様もビックリな超々壮大SF『ディアスポラ』なのであるが、個人的には、その壮大さはもちろんとして、最も感銘を受けたのは、開巻16ページ目にしてさも当たり前のようにサラリと書き捨てられている、本稿冒頭に示した引用だったりする。

ボクの観測範囲の偏りもあるのかも知れないが、どうにも上引用を含む“孤児発生”と題された本書第一部の1は、読書子の中で頓に評判が悪いようである。事実、出版側もそれを気にしていたようで、日本語文庫版の解説にも大森望氏が、とりわけ第1章の出だしは難物で、二、三ページ読んだだけで音を上げる読者がいてもむりはない、と、ここだけ引用するととても(一般に娯楽の部類と解される)SF小説の解説とは思えないようなことを、やはりサラリと書き捨てている。

が、強いて逆張りがしたいワケではないのだが、私見では、この超弩級に気宇壮大な“法螺話”の中にあって、引用部を含むこの章ほど、イーガンが自身の誠実さを必死に訴えている箇所もないのであって、ボクなどは初見の際、この一文に感極まって落涙することしばし……というのはいささか大袈裟ではあるのだが、とにかく、言われてみればまったくその通りなのに、言われるまで想像すらしなかった真理を突きつけられたような気分に陥って、以降は取り憑かれたかの如く本書を読み進めたのである。

では、ここで言う“イーガンの誠実さ”とは何か、と言うと、本書執筆時点(原書1997年)でも既にまったく目新しくもなかった“ソフトウェア化された知性”について、当たり前にそういうものがあるのだ、とせずに、それが一体全体どういったもので、どうような動作原理に基づいており、実際どのような挙動を示し、同時にどのような制約下にあるかを、すべての物語に先んじてネタばらししていること、である。


これを冒頭でおこなっている以上、物語の都合で「いやぁ、実はこうでした」との後出し設定は出来ないのであって(イーガンが作中でそれをやっていない、とボクは言わないwww)つまり、この部分は読者に対する原理説明ではなく、作者が自身に嵌めた足枷なのである。これを誠実さ、と呼ばずして何と言おうか。

ここで、前稿に倣って『ディアスポラ』世界、特に物語前半部の模式図を示す。

クリックすると元のサイズで表示します
<『ディアスポラ』前半の模式図>

未読の人にはワケのわからない言葉が並んでいるので、ザッと説明を加えておこう。

“肉体人”というのは、普通の意味での人間だと思っていい。“グレイズナー”は要するに機械人のことである。これを同じ箱に括ったのは、宇宙の物質的・論理的基盤に直接拘束されている、という意味において、本物語世界においては等価な存在だからである。一方で、彼らは後述する“ポリス”の住人と決定的に異質な存在、というワケではない。彼らとポリス人を隔てているのは、ハードウェアとソフトウェアの結合度の違いのみ、である。

“ポリス”というのは、とりあえずは超越的な性能のコンピュータ、およびそのオペレーティングシステム、という理解でいい。ディアスポラ世界のソフトウェア化知性(“ヤチマ”がその一人で本作の主人公である)は例外なく、ポリスに住んでいる……と言うか、ポリスのハードウェア上で実行されている。“エクソセルフ”というのは、ポリスのOSとソフトウェア化知性の間を取り持つコンポーネントで、ヤチマの知性を直接顕現させているオートマトンに相当し、かつ、このコンポーネントがいわゆるファイアウォールの役目を兼ねていて、他の知性がヤチマ(また、他のポリス住人)を直接的に改竄することを防いでいる。

“ワンの絨毯”は、それ自体本作に先行して書かれた短編の表題でもあり、本作に統合されたのだが、ヤチマたちが宇宙を旅して最初に出会った異星生命に与えた名前でもある。図中、この絨毯の上に“オルフェウス人”(オルフェウス、は絨毯が発見された惑星に与えられた名前)とあることが何を意味しているか、については、これは実際に作品を読んで堪能して欲しい部分になるのでここでは捨て置く。

とまれ、この模式図が示しているのは、下へいくほどにその可能性の幅が広がり、上に乗っているものは下部構造の可能性の範囲内に拘束されている、ということである。拘束、というと、何だかネガティブなイメージになってしまうが、これは言い方を換えると、下へいくほどエントロピーが無限になり、上へいくほどにそれが減少して、具体的に意味のある秩序だった何か、すなわち知性へと収束する、ということでもある。

主人公であるヤチマは、ポリスの1つである“コニシ”のオペレーティングシステムが、自身の新たな可能性を評価すべく、すなわち、ある種の機能テストを目的として定期的にランダム生成する《孤児》ということになっていて、本稿冒頭の引用はそれを言っている部分になる。つまり、模式図最下層の“数学”の真に無限な可能性と比較すれば、ポリス、さらにその上で実行されるエクソセルフとそれが発現する知性の可能性は、その濃度こそ低くなるものの実質的にはやはり無限なのであり、主人公はその無限の一角を既知化すべくこの世に生を受けるのである。

孤児はみな、未踏査領域のマップ化に送りだされる探険家だった。
そして孤児はみな、本人自体が未踏査領域でもあった。

(同 p.17)

イーガンは、決して修辞に優れた小説家ではないと思うのだが、この希望に溢れる簡潔な言明(これは訳者の力量と言うべきかも知れないのだが)に、本当にボクは泣きそうになったのであるが、それは、要するに通俗化してしまえば「やってみなくちゃ、わからない」と言っているに過ぎないこの言葉に感銘を受けたから、ではもちろんない。

イーガンがそこに、数学的に普遍不朽の裏付けを与えているからである。

実は、冒頭引用部は「任意のチューリングマシンが何を導くかを事前に決定するアルゴリズムは存在しない」とする、いわゆる“チャーチの非決定性定理”の文学的な言い換えになっている。つまり、極めて難渋で、むしろない方が本作の商業作品としての評価向上に寄与するのではないか、とすら思える本書第一部の1は、この現実世界において証明済み定理を、ポリス人の、ひいては、あまねくすべての知性、アイデンティティ固有の価値(は、イーガンの信仰だ、と思う)の証明として妥当であることを示すべく書かれたものなのである。

……と少なくともボクは読んだ。その知的誠実さに感動したのである。

ともすれば『ディアスポラ』は、既知宇宙の大きさすら遥かに凌駕した壮大な物語、として評価されることが多いように思うのであるが、ボクの解釈としては、イーガンが本作を通じて言いたいのは、そのような宇宙の無限に対し、濃度は異なるけれども同じく無限である可能性が他ならぬ一人ひとりの読者にも存在するのであって、しかもそれは希望的願望ではなく、厳密に数学的に証明されているのだ、という力強い断言なのであり、その断言を最大強化するために総計二百六十七兆九千四十一億七千六百三十八万三千五十四の宇宙の旅の法螺話が持ち出される、という……実はコレ、法華経と同じ構造なのである、空恐ろしいことに。

が、ボクに言わせれば(もうこの時点で、何の説得力もないただの妄想であることは百も承知なのだが)イーガンはさらにもう一歩先を行っているのであって、個の知性、アイデンティティを最大に称揚すると同時に、これらをミもフタもなく無価値なものとして切って捨てる論理も、これまた反論の余地なく描き切ってしまうところがイーガンのトンデモないところなのであるが、これについてはは次回のお話としよう。

つづく>>



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