私的イーガン解釈(2)

2015/2/25 | 投稿者: ghost

注)本連載はグレッグ=イーガン作品のネタバレを含む恐れがあります。本稿を読んでもイーガン作品を楽しむ邪魔にはならないと思いますが、ご自身でボクと同じ(または異なる)解釈に至りたい方は読まない方がいいでしょう。

<<前回のお話

ある意味で、いまのヤチマに自分自身の過去といえるものはなく、もっているのは模造された記憶と使い古しの人格だけだ……だが気分的には単にサバンナからジャングルへジャンプしてきたのと変わらないし、ジャンプの前後を通じて自分がひとりの同じ人物だと感じられる。すべての不変量に変化はなかった。
(『ディアスポラ』 p.87-88)

さて、イーガン作品を横方向に眺めたとき、一口に“ソフトウェア化された知性”と言っても、いくつかのバリエーションがある。

『ディアスポラ』は、もっともストレートにオートマトンとしてのそれが描写されているもので、この系列には同一世界の物語と想像される『プランク・ダイヴ』、『グローリー』『白熱光』と未訳の数編を含む《融合世界》シリーズが含まれる。もっぱらこれらは、いわゆるハードSF作品である。

これとは異なる論理下にあるものとしては、生後まもない人間の脳に《宝石》または開発者の名を冠して《エンドーリ装置》と呼ばれる機械を埋め込み、これが脳の挙動を学習し、ひいてはそれに取って代わる、という物騒な設定の『ぼくになることを』『ふたりの距離』……想像がつくとおもうが、これらは実質上ホラー作品である……さらにその後日談的な要素のある『ボーダー・ガード』がある。

もう一つの系列として、上の二つの中間に位置する……という比喩はちょっと微妙ではあるのだが……とにかく人間の精神構造の部々分々を《スキャン》し、それぞれを模倣するサブプログラムのパッチワークとして《コピー》したのだ、とする作品群がある。ここには『順列都市』『誘拐』『移相夢』『伝播』が含まれ、これらは共通して社会派SFの色合いが濃い。

このように、作品を下支えする設定と、作風がキチッと対応関係を示すのもイーガンの誠実さではあるなぁ、と思うのであるが、それはさておき。法螺話(ぉぃ)の理屈は種々あるのだが、これらに共通していて、かつ作中ではあまり積極的に語られず(ホラー系は、逆にまさにそこが主題になっているのだが)ほぼ自明のことされている見解、というか、ほとんどイーガンの信仰表明に近いものがあって、それは「同じ刺激に対してまったく同じ反応を返す知性は、アイデンティティ的に同じものである」というものだ。


冒頭引用は、成熟した主人公ヤチマが友人イノシロウと共に、遺棄されたグレイズナー(機械人)の体に宿って肉体人の住む地上を訪問するシーンの冒頭である。この世界ではそれぞれの知性は(一部制約はあるものの)自身の基盤とするところを引っ越すことが出来る。引用部ではこれをヤチマの主観から語っているワケだが、本世界ではソフトウェア知性の基盤となるテクノロジーは、グレイズナーとポリス間はもちろんのこと、異なるポリス間でも共通規格化されていない。従って彼らは、自分たちのアイデンティティ(文中では《不変量》とされ、作品全体を通じたテーマにもなっている)をグレイズナーのハードウェアで実行可能な形式にクロス翻訳したのだ、としている。

これは、我々が日常的に目にする形で喩えると、x86アーキテクチャ上で動作するWindows用アプリケーションを、ARMアーキテクチャ上で動作するLinux用アプリケーションに移植するような話になる。それらは、生成されたバイナリデータはもちろん、ソースコード上に表出する論理すらも細部に渡って異なるが、最終的なソフトウェアの動作は等価になる(現実のそれはプラットホーム制約によって少なからず差異を示すのであるが、これはコストの問題でそうせざるを得ないのであって、原理的にはまったく等価な翻訳は可能である)ので、同じソフトウェアと見做せる、という話になる。

ただし、本作世界で「同じソフトウェアと見做せる」とされているものは、ゲームやWebブラウザやグラフィックエディタではなく、ヤチマやイノシロウのアイデンティティ、そのものである点が、我々の常識からいささか逸脱していて困惑させられるのである。

クリックすると元のサイズで表示します
<再び『ディアスポラ』前半の模式図>

肉体人と交流したヤチマとイノシロウはコニシポリスへ帰還するのだが、このときは逆のクロス翻訳がおこなわれる。つまり、地上での不測の事態に備えて取得されていたバックアップ(彼らはソフトウェアなのである)を破棄し、その時点のスナップショットに地上での経験差分を加えた新しいバージョンで以って、コニシのエクソセルフ上で動作する自分を上書きする。つまり、常識的な意味において、コニシで生まれ育ったヤチマはこの時点で消去されたことになる。

作品中盤では、ヤチマはコニシを離れ、物理宇宙への進出に積極的なカーター=ツィマーマン(C-Z)ポリスへ移住する。この移住の決断を以って、コニシポリスはヤチマの《不変量》をポリスの利益に寄与しないもの、と判断し、オリジナルのヤチマを削除するとともに、孤児ヤチマに与えられたパラメータを欠番とする決定を下す。クロス翻訳の結果、C-Zポリスに至ったヤチマを、上模式図では“ヤチマ’”と表記した。ダッシュを付けているのは、肉体人訪問時同様に、もはやこのヤチマ’は物理基盤の面においても論理基盤の面においても、この世に生(?)を受けたヤチマとは別物(ARM Linuxに移植されたx86 Windowsアプリケーション)であり、常識的な意味においても、その主観が連続しているとは考えにくいからである。

一方で、作中のヤチマは(厳密にはグレイズナーに宿った状態の別のヤチマ’が、ということになるのだが)以下のように独白して納得する。

哲学的にいえば、ポリス内で物理的メモリの一セクションから別のセクションへ移動するのとなんら変わりなく−それは断片化されたメモリ空間を再利用するため、オペレーティング・システムがあらゆる市民について、気づかれることなくときどきやっていることだ。
(同 p.88)

ITに詳しい人であれば、ここでヤチマが言っているのが、現実のコンピューティングでも普通におこなわれる“ガーベージ・コレクション”のことであることがわかると思う。ちなみに、現実の我々の肉体もまた、原子レベルで見れば、誕生時のそれは新陳代謝を通じてほとんど入れ替わっているし、加齢と共に生化学も大きく変化していくのであり、原理的には同じことになる。要するに、物質的・論理的基盤の継続は、アイデンティティの継続とは関係がない……少なくとも本作品世界ではそのようになっている。

つまり、知性を発現させている物質自体には意味はなく、その配置や挙動に見出されるパターンや動作原理すら中間成果物なのであって、それらが結果的に表出させる何か、こそが知性の実体であり、それを外部から観察したときに同一と見做せるのであれば、それは同じアイデンティティである、という考え方だ。

極めてラディカルな価値観である。あるが、そう言われてみれば、理屈としては納得できなくもない。が、次の場合はどうか。

肉体人がポリスに移る、つまり、生体脳に宿る知性をソフトウェア化することは、特に《移入》と表現され、これは本作中では不可逆・破壊的なプロセスとされている。つまり、ソフトウェア化に際し、オリジナルの肉体は「破壊」される。平たく言えば死ぬ。が、少なくともポリスの住人はこれを「死」とは考えていない。アイデンティティがポリスのエクソセルフ上で継続するのだから、誰も死んではいないのである(なお、他のイーガン作品ではそうでない、つまり、人間をソフトウェア化してもオリジナルの人間は生存し続けるケースもあり、有り体に言えば物語進行上の都合によるもので、イーガンにとっては本質的問題ではない)。

もちろん、これに納得しない肉体人も描かれていて(と言うか、作中において、肉体人は敢えて肉体人であり続けることを選択した知性たち、なのであるが)中にはヤチマたちを“死肉喰い”と罵倒する者も登場するのであるが、その立場にも理解を示した上で、作中世界においてそのような人々は最も頑迷な保守主義者と位置づけられている。実際、現実世界においても近未来において人類が、具体的な様態はどのようなものになるか見当もつかないにせよ、同様の《移入》を経験せざるを得ない、と考える人は少なくない。最右翼としては、SF好きの間では“ティプラーの円筒”で有名な物理学者フランク=ティプラーの言説がよく知られているし、フィクションでは、先に紹介したスタニスワフ=レムの『GOLEM XIV』がほぼ同じようなことを仄めかしている。つまり、発想としては決して奇抜ではなく、普遍的なものではあるのだ。

が、イーガンの描写で以って、ここまで詳細にその実相を見せつけられてしまうと、理屈としてはともかく、感情として受容可能かについてはかなり個人差が出るのは否めまい。しかもイーガンは、本作において、我々凡俗の感覚からすれば既に極限に達しているように思えるこの哲学的な問いの、更なる極北を突き付けて来るのである。

クリックすると元のサイズで表示します
<『ディアスポラ』後半の模式図>

物語後半の冒頭で、作中における万物理論である“コズチ理論”に改良が加えられ、加えて異星文明が遺した導きもあって、ヤチマたちの前に自分たちの宇宙とは異なる、別の宇宙への《移入》の道が開かれることになる。上模式図中で“U*(ユー・スター、と読み、隣接する宇宙=universeの意)”がそれである。

この隣接宇宙が、単なる新天地としてでなく、我々の四次元宇宙にさらに「余分な」二次元が加わった六次元宇宙として描かれ(ちゃんと現実の最新宇宙論の仮説の一つから「数学的に」演繹された結果であるのが……もう、笑うしかない)それがいったいどんなものであるのかを延々と解説する第六部の15もまた、第一部の1同様に読書子の評判がすこぶる悪い難渋部なのだが、本稿論旨に沿えば、イーガンにはこれを読者にとって難解至極であることを承知の上で、詳述せねばならない事情があったのである。

「ではこれが、マクロ球の水素原子に相当するものだと?」
(同 p.391)

端的にそれを表しているのが上引用の台詞で、これをヤチマたちの「善意」によってポリスに引き込まれた元肉体人のオーランド(彼はヤチマたちによる救出に感謝しつつも、肉体に宿る知性としての自分に強い憧憬を持ち続ける人物として描かれる)に言わせているところが、まさにイーガン一流の演出であるように思うのだが、U*(この時点では“マクロ球”と呼ばれている)は、それが拠って立つ物理法則=改良版コズチ理論こそ我々の宇宙と共有していて(つまりU*はコズチ理論の「別の解」なのである)ゆえにその性質を作中人物は演繹することが可能なのであるが、二つの余分な次元が加わるため、たとえばアインシュタイン力学はそのまま通用するものの、我々の宇宙とはまったく異なる物理現象を生じせしめるのであり、我々の宇宙のあらゆるものは、水素原子1つにしてもそのままの姿で送り込むことは不可能なのである。

ではヤチマたちはどうしたか、と言うと、先人の知恵と改良版コズチ理論で以って隣接宇宙に干渉し、U*側の物質を使ってポリスを作り、そこに自分たちの《不変量》を信号として送り込んだのである。さらに、その際に、二つの余分な次元に対応するため、自分たちの認知能力にも相応の改変を加えたのだった。

これが、イーガンが六次元宇宙について詳述せざえるを得なかった理由である。

異世界に渡る物語は数あれど、バイストンウェルに魔法で召還されたり、卵果が蝕で以って虚海を越えて蓬莱へ流されるようなファンタジー(ボクも存外好きだなぁ……)をイーガンは決して認めない。いかなる意味においても、そのままの様態でヤチマたちはU*には行くことが出来ないのだ、という、ある意味「私はファンタジーが嫌いですから」の一言で済む(まぁ、これだと文学にならないのではあるが)ことに対し、これをさももっともらしく理論武装する、ただそれだけのことのためだけに、30ページに渡って六次元宇宙の物理学、化学、天文学、生化学を延々と解説する……これぞイーガン節だ。

しかも、イーガンが読者に示したいのは、この六次元宇宙の脅威それ自体ではないのである、呆れたことに。もうおわかりかと思うが、あらゆる常識的なレベルにおいて行くことが出来ない世界に対し、《不変量》を送り込むことによって知性、アイデンティティを伝播することが出来るし、ヤチマの《不変量》がU*のポリスで活動を開始したからには、ヤチマはU*に行ったのだ、というのが、イーガンが真に言いたいことなのである。そしてこれこそが、クリスチャンファンダメンタリストの幻想と似非科学を無自覚にごった煮したティプラーのオメガポイント理論とは一線を隔てる、いずれ滅びざるを得ない宇宙に暮らす我々に示された、1つの希望なのであり、イーガンの主題、そのものなのである。

そして、この究極的に壮大に思われる『ディアスポラ』が、実はその極限ではない、というのがイーガンをして史上最高のSF作家と評さざるを得ない所以なのであり、その極限こそがボクが偏愛するトンデモ小説『順列都市』ということになるのであるが、まだ読むに耐える方は、今しばらくお付き合いあれかし。

つづく>>



コメントを書く

名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL





AutoPage最新お知らせ