Let Me Talk about Greg Egan #2

2015/3/21 | 投稿者: ghost

注)本連載はグレッグ=イーガン作品のネタバレを含む恐れがあります。本稿を読んでもイーガン作品を楽しむ邪魔にはならないと思いますが、ご自身でボクと同じ(または異なる)解釈に至りたい方は読まない方がいいでしょう。

<<前回のお話

正直なところ、1本目を公開する時点では「果たしてこんなお粗末な喋りで非日本人に通じるものだろうか」という不安を少なからず抱えてはいたのだが、少なくとも、サガ君はボクが何を言っているのか理解してくれたようなので、ひとまず胸を撫で下ろしていたりするワケで。


<Let Me Talk about Greg Egan #2>

内容については本稿末に付した日本語訳を参照していただくとして、まったく予期しなかった副作用として、サガ君が『銀河英雄伝説』のファンであることが判明したのが、ボク的には面白おかしい。というか、セネガル生まれの仏語話者に“Yoshiki's Tanaka work, Ginga Eiyuu Densetsu”とかローマ字で書かれると、ちょっとしたカルチャーショックだ。っつーか、彼の勉強熱心さに恐れ入る次第である。この際、イーガンはハードSFでスペースオペラじゃねーよ、的な点には眼を瞑ろう。ま、ボクも結構好きだし、銀英伝。


<動画原稿日本語訳>

グレッグ=イーガンについてお話しします。今日のテーマは“『ディアスポラ』第1章はなぜあんなにややこしいか”です。

ここに日本語版があります。巻末に、テッド=チャンやコニー=ウィリスの邦訳でも知られる有名なSF翻訳家(注:大森望のこと)による10ページに及ぶ解説がついています。そこにこうあります。

とりわけ第1章の出だしは難物で、二、三ページ読んだだけで音を上げる読者がいてもむりはない
『ディアスポラ』 解説より

さらに彼はこうも書いています。

「わからないところはばんばん飛ばす」。これだけでOK。

何という解説でしょうか。しかしまったくその通り。『ディアスポラ』に対する同様のレビューはネット上にたくさんあります。少なからぬ人が彼と同じ印象を本作に対して抱いているようです。

では、なぜイーガンが第1章をこうもややこしく書かざるを得なかったのか、について考えてみましょう。結論から言うと、これはイーガンの度を越えた誠実さである、ということに尽きます。では、彼の誠実さ、とは何でしょうか。前回同様の図を示しながら考えていきましょう。

『ディアスポラ』には肉体人、グレイズナー、市民、の三種類の地球上のポスト=ヒューマンが描かれています。彼らの間の相違点は、物理的な世界への距離です。

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肉体人は現実世界に最も近いところにいます。彼らは自身の肉眼ですべてを見、容易に傷つき、死ぬこともあります。グレイズナーはより堅固な機械の体を持ち、ほとんど不死身です。しかし、彼らは自身の足で以って物理世界に立ち続けることを選びました。市民はグレイズナー・ボディすら捨て去った知性です。彼らはポリスと呼ばれる超微細なスーパーコンピューター基盤の中に暮らしています。

第1章では、市民が如何にして誕生するか、が説明されています。これは本作の主人公ヤチマの伝記であると同時に、ポリスのみならずグレイズナーの電子頭脳の中で、知性が発現する原理の解説にもなっています。

そして、この一見して冗長な解説は、いわゆる“オートマトン理論”になっています。もしオートマトン理論についてあまりご存知でなければ、ウィリアム=パウンドストーンの『ライフゲイムの宇宙』をお奨めしておきます。

これは、彼らの不死性が魔法によるものではなく、確かに物理と数学の上に成り立っていることを意味しています。生体細胞レベルで見れば、肉体人もまたオートマトンであることはご存知のことでしょう。さらに第11章では、オートマトン上の精神を象徴する存在として、オルフェウスのイカ、オルフェウス人が登場します。“ワンの絨毯”については、是非ご自身で読んでみてください。

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これは、それぞれの登場人物がその様態と物理世界への距離こそ異なれども、同時に、同一の論理をその基底に共有していることを意味しています。イーガンは、これを単なる類似ではなく、すべての精神に共通する本質的な相同性である、と信じているように思われます。これこそが、彼がこれらの表現を通して示したかったものであるに違いありません。

この章で生まれたヤチマは、最終的には我々の宇宙から二百六十七兆九千四十一億七千六百三十八万三千五十四レベル離れた宇宙まで旅をします。少なくない読者が、これらの宇宙の壮大さに心を打たれるようです。しかしながら、私には『ディアスポラ』の主題がそこにあるとは思えません。

孤児はみな、未踏査領域のマップ化に送りだされる探険家だった。
そして孤児はみな、本人自体が未踏査領域でもあった。

『ディアスポラ』 第1章より

この詩的な引用は同じく第1章からのものです。『ディアスポラ』の主題が、物理宇宙の無限ではなく、精神の無限であることは明白です。ビデオの冒頭に示した引用も、つまりのところ同じことを言っています。

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ほとんどの場合、もっとも信頼できる予測手段は、変異した種子それ自体がおこなうであろうあらゆる計算をおこなってみることであり……それはじっさいに種子を育てて精神を作りだすのと同じことで、予測でもなんでもない。
『ディアスポラ』 第1章

これは、チャーチ=チューリングのテーゼの文学的な表現になっています。ここで言う計算の予測不可能性とは、要するに数学に裏打ちされた精神の無限に他ならないのです。

『ディアスポラ』は、ヤチマが何百兆もの宇宙を巡ってそれを探しもとめる物語です。この驚くべき距離と時間もまた、彼の精神の無限の比喩なのであり、それは同時にすべての人々の精神の無限に通じ、そこにはあなたや私も含まれるのです。

私は、イーガンは度を越えて誠実である、といいました。要するに「やってみなけりゃわからない」という慣用句で済む話ではあるのです。が、彼は読者の無理解や拒絶を恐れずに、敢えてこの難渋な第1章を示しました。なぜか。それは、精神の無限に数学的に明白な背景を与えるためなのであり、これを私は彼の誠実さである、と言いたいのです。

次回は、もう1つの彼の誠実さを、再び『ディアスポラ』から取り上げます。題して“『ディアスポラ』第15章はなぜさらにあんなにややこしいか”にご期待ください。

つづく>>



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