法華経転読(序兼目次)

2015/12/23 | 投稿者: ghost

<目次>

第1話 八幡賜衣伝説
 ……第十章“法を説く師”
第2話 観音菩薩信仰
 ……第二十四章“あまねく導き入れる門戸”
第3話 嘘も方便
 ……第二章“巧妙な方便”
第4話 殉教or被害妄想
 ……第十二章“よく耐え忍ぶ”
第5話 二十四字の法華経
 ……第十九章“常に軽侮しない”
第6話 自覚されぬ含意
 ……第八章“五百人の比丘に対する予言”
第7話 燃えるお父さん
 ……第三章“譬喩”
第8話 法華密教
 ……第二十一章“ダーラニー”
第9話 形骸化する信仰
 ……第二十六章“あまねく賢明な菩薩が人に勧めて仏道を修める心を起こさせる”
第10話 トンデモ本もビックリ
 ……第十一章“塔の出現”
第11話 法華の巨人
 ……第ニ十三章“妙音菩薩”
第12話 成仏マンネリズム
 ……第六章“予言”
第13話 続・成仏マンネリズム
 ……第九章“阿難と羅睺羅および他の二千人の比丘に対する予言”
第14話 成仏マネタイズ
 ……第二十五章“吉祥な荘厳王の往古の事”
第15話 仏陀、広長舌をふるう
 ……第二十章“如来の神通変化”
第16話 菩薩前座漫才
 ……序章“発起”
第17話 ホッケオパシー
 ……第十七章“随喜の福徳を説示する”
第18話 成り損ねた最終章
 ……第七章“過去世の因縁”
第19話 空振る説得
 ……第四章“信解”
第20話 富士講どっこいしょ
 ……第十八章“説法師の功徳”
第21話 省かれた後半の謎
 ……第五章“薬草”
第22話 張り巡らされる伏線
 ……第十四章“菩薩の大地からの出現”
第23話 絶対反論不可能
 ……第十五章“如来の寿命の長さ”
第24話 自家中毒
 ……第十六章“福徳の分別”
第25話 求められる献身
 ……第二十二章“薬王菩薩の過去の修行”
第26話 捨て切れぬ理想
 ……第十三章“安楽な行”
第27話 虚空会終わって日が暮れて
 ……第二十七章“教法を委託する”


索引


転読(てんどく)とは、辞書的な意味を引くと、法会において,経の題名と初・中・終の数行を読み,経巻を繰って全体を読んだことにする読み方(大辞林)のことであり、要するに過分に儀礼的な読経儀式である。古代には、この転読を神前でおこなって以ってその加護を願うことが、国家公認の官僧の主要業務だった。現代も東大寺等で年中行事として挙行される法会にその名残を認めることができる。拙稿中しばしば言及する、伝教大師最澄が八幡神から賜衣されたという伝説も、彼が宇佐神宮でおこなった法華経転読に八幡神が応じたもの、ということになる。

それはそれとして、拙連載の表題は“てんどく”ではなく“うたたよみ”と読むことにしたい。そんな日本語はないのであるが、転寝(うたたね)あたりのニュアンスから、意図するところをお察しいただきたい。

“法華経一部八巻二十八品”という言葉が示しているように、法華経は全二十八章から成る(厳密にはこれは正しくない、後述)経典である。これを序品から順に読んでいってもきっとダレるだけなので、本来の順序に依らず、何らかのテーマ設定から任意に選んだ章を精読していくスタイルを採ろうと思う。各記事には“法華経転読(s-n)”の表題が与えられ、これは法華経のある章に対応した第s話の第n回、といった意味になる。sの値と法華経の章番号は一致しないが、s-1の冒頭では、第s話が法華経のどの章に言及するかについて明示するつもりでいる。

必ずしも全章網羅を目指すものではないが、あわよくば満願成就に至りたいものではあるし、その暁に果たして八幡神が本当に衣を持って現れるか検証するための実験、という意味合いもある。いや、これはウソ。

*     *     *

本稿はその序として、法華経について概説する。もっとも、以下は(本連載全体もそうだが)ボク個人の理解の備忘録なのであって、今から述べることも、あくまでも「ボクはこのような理解を前提としてこの連載を書いていきますよ」という宣言に過ぎないこと、を了されたい。

さて、法華経は紀元1〜2世紀頃にインドで書かれたものらしい。作者はわからないが、体裁上は釈迦(紀元前7〜3世紀頃の人、念のため)が説いたものを弟子の阿難(あなん)が聞き伝えたもの、とされる。成立年との隔絶を考えれば、万が一にも釈迦の直説である可能性はないし、百万歩譲って釈迦直説の正確な伝承であったとしても、その内容はかなり荒唐無稽なものであり、たとえば次下に示す章句を読めば「釈迦が説いたから皆是真実である」などという主張が、如何に馬鹿げたものであるか知れよう。

そのとき、世尊のみ前において、大衆のつどう中央あたりの大地から高さ五百由旬、周囲もそれにふさわしい七宝づくりの塔が現れ出てきた。そして虚空に昇り、中空に安座した。
(法華経第十一章冒頭より)

由旬(ゆじゅん)というのは古代インド語“ヨージャナ”の音写で、旅行レベルで用いられる長さの単位であり、一説には約15Kmとされる。つまり高さ7,500Km、宇宙空間にまで届く高さの宝塔が地面から突如湧き出してきて、しかも空中に静止した、というのであるから、信仰としてどのように解釈するかはともかく、これを字義通りの歴史的事実であると考えるのは、ちょっと頭がどうかしていると言わざるを得ない。

一方で、少なくとも我が国の歴史においてはこの法華経が、仏典中最高のものとして尊崇を集めてきたこともまた事実である。これは単に天台宗、日蓮宗がそうであるのみならず、読者諸兄もそうとは知らないだけで、実は法華経由来の観念を多く無意識のうちに受容していたりもするのであるが、その詳細は追々触れていくことにしよう。

言わんとするところは、法華経そのものは、概ね1〜2世紀頃に書かれたものであろう、という他は、どこの誰が書いたものかわからないし、その内容についても到底この世の客観的真実について述べたものとはまったく見做せない代物である。が、一方で、現代の我々の思考様式にも深く関わるほどに我が国の文化の根底に深く染み込んでいる経典でもある、ということである。この法華経を、与太話であるとわかった上で、なぜその与太話が大きな影響力を持ち得たのか、そこにはどのような意味があるのか、について、ボクも与太話をする、というのが本連載の趣向である。

さて、上掲の法華経引用は現代文で示した。その出所、すなわち本連載で使用するテキストを紹介しておくことにする。『現代語訳法華経<下巻>』(中村瑞隆著/春秋社,1995-1998年)である。

クリックすると元のサイズで表示します法華経……インドにおけるサンスクリット語原典の名前をそのまま呼べば“サッダルマ=プンダリーカ=スートラ”になるのだが……の訳本としては、古来、4世紀の訳聖、鳩摩羅什(くまらじゅう)の手になる『妙法蓮華経』が随一のものとして珍重されてきた。日蓮も、基本的には自説の種本にしている。蛇足であるが、彼は他二つ『正法華経』『添品妙法蓮華経』も読んでいて、比較検討の上で、原則羅什訳を採用しているようである。

本連載でも必要に応じて……主に漢文の方が格好いいから、という理由で……妙法蓮華経を引くつもりではあるが、原則としてはわかりやすさを優先し中村師の訳文を用いることにする。なお、師の訳文は妙法蓮華経からの重訳ではなく、二種のサンスクリット語写本を底本としつつ、妙法蓮華経を含む複数の訳本・原語写本とも比較検討して訳出されたものになっている。

これでどんなことが起きるか、というと、たとえば、法華経一部八巻二十八品、と先に書いたが、これは妙法蓮華経が一般に八巻の巻物として製本され、二十八章から成っていたことに由来する言葉である。一方で、サンスクリット語原典に遡ると法華経は二十七章構成であり、漢訳妙法蓮華経では上に引用した章句で始まる第十一章を、二つの品に分割していることがわかったりするのである(厳密に言うと事情はもう少し複雑なのだが、これについては後日改めて)。

クリックすると元のサイズで表示しますまぁ、妙法蓮華経の内容については、一部羅什の意訳の限度を明らかに超えていると思われる挿句(方便品第二の十如是などが有名)を除けば、その内容が原典から大きく逸脱しているという指摘はないので、決して妙法蓮華経を疑って中村師訳を採るとするワケではない。

むしろ、中村師は日蓮宗の僧侶であり、かつ立正大学々長を務めた御仁であらせられるから、むしろこちらの訳の方が日蓮教学に由来する逆汚染を受けているかも知れない点は考慮すべきではあるが、入手以来幾度となく本書を通読したボク個人の心象としては、まったく正確無比であると阿るつもりは毛頭ないが、中村師は非常に誠実な訳を提供してくださっていると判じている次第である。

なお、原典直訳の法華経には他数種があり、中には完全に学問畑の方の手になるものもあるから、そちらの方がボクのような読み方をするものには相応しいのではないか、という指摘もあるかも知れないが、ボク個人が本書に思い入れが深い、という理由でこれを却下する。というのも、手元の上下二巻は、妻が一緒に暮らし始めて最初の誕生日にプレゼントしてくれたものなのだ、と唐突に惚気。

*     *     *

そんな感じで、次稿から第1話として、法華経のある章の精読に入っていく。各章はそれほど長くないし、かつ、これは法華経に限った話ではないが、仏典というのは散文の論述部分に続いて、ほぼ同趣旨の韻文が繰り返される構成を採ることから、実質的な長さは更に短くなるものである。とは言え、釈迦の時代まで遡ることはないにせよ、ざっくり二千年前に書かれた文章であるから、我々の日常的な常識からは俄かに理解し難い語句や修辞が多いことも事実であり、精読には章毎にそれなりの回数を要することとなろう。

また、法華経の章の中には、日蓮マニア・法華経マニアを自認するボクですら眠気を禁じえない冗長な章が含まれていたりもする……特に六章から九章(授記品第六〜授学無学人記品第九)の退屈さ加減は呆れるばかりである……ので、本連載が満願成就したとしても、話数と法華経の章数(全二十七章)は一致しないとは思う。っつーか、本気で全部やるつもりなのか?

とにかく暇で他にやることもないので、途中他事に気を取られて執筆が滞ることもあろうかと思うが、気長にお付き合いいただければ幸いである。いや、付き合ってもらう必要もないのではあるが。

つづく>>




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