法華経転読(1-3)

2015/12/29 | 投稿者: ghost

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法華経に限らず、仏典においては似たような内容を繰り返し述べる(つまり、リフレインである)ことで、その内容の真実性を強調する修辞が多用される。言い換えれば、仏教典というのはおしなべて冗長だ、ということであり、これを一字一句読む(これを真読という)ことは、無意味とまでは言わないが、さして有益ではない。ましてや、漢訳経典の漢字々義にまで立ち入って連想を広げるのは、どちらかというと害の方が多い、と個人的には思う。全体として何を言っているか、何が言いたかったのか、を把握するのが肝要だ。

本連載は“転読”(うたたよみ、と読んでね、としつこく言う)であるから、飛ばし飛ばし読んで然りなのである。なんだか言い訳がましいが、そうなのである、そういうものなのである、そういうことにしておこう(とボクも仏典に倣って三唱しておく)。どうしても真読したい人は、中村師の本か、その他の適当なそれを自分で調達してくれ。

閑話休題。目下精読中の第十章においても、しばし「法華経の一句なりとも聞く者は成仏するのだ」という言明がぐだぐだ(ぉぃ)繰り返されるのであるが、少し毛色が異なる論述が登場するあたりから読みを再開することにしよう。

だれかある男子あるいは女子がこのように言うとしよう。「さて、いかなる衆生が、未来世において、正しい覚りを得た、尊敬されるべき如来となるのでしょうか」と。薬王よ、その男子あるいは女子に対しては、一詩句でも受持し書写するかの善男子あるいは善女人を挙げるべきである。

これも、ここまで言っていることと一見してほぼ同内容ではあるが、やはり一捻りが加わって新しい意味が付け加えられている。法華経を書いた人々が何を言いたいのか、については、ここで言われている未来世とはいつのことなのか、一詩句でも受持し書写するかの善男子あるいは善女人とは具体的に誰のことであるのか、を考えれば一目瞭然である。

法華経中の釈迦から見た未来世とは法華経教団にとっての現在であり、その現在の時点で法華経を奉じる善男子あるいは善女人とは彼ら自身のことに他ならない。要するに「オレたちこそが正しい覚りを得た、尊敬されるべき如来である」というのが彼らの主張、ということになる。より厳密に言えば、彼ら自身を含む、法華経に賛同する人々がそのまま仏なのだ、ということであり、これは前回述べた彼らの二つの信念の一方、阿耨多羅三藐三菩提を得たのだ、という強い確信、の裏返しの言明ということになろうか。


今一瞬「言葉の意味はよく分からんがとにかくすごい自信だ」という古いアニメの台詞が脳裏を過ぎったのだが、事実、古来より法華経に対する揶揄的な批判として「法華経は自画自賛するばかりで中身がない」というものがある。ここでいう“自画自賛”はまさにその通りで、上引用のような、釈迦やその他の仏菩薩の権威で以って遠回しに自分たち=法華経教団を賞賛する表現が、法華経中には頻出する、というか、突き詰めればそれしか言っていない観すらあるのであるが、では“中身がない”のか、ということになると、それは本連載全体のテーマということになるかと思うので、ここでは拙速な結論は下さずにおくことにする。

以下、とにかく法華経を受持する者は尊敬されるべきだ……要するに、オレたちは尊敬されるに値するのだ……ということがぐだぐだと繰り返され、遂には以下のような言明に至る。

かの善男子あるいは善女人は阿耨多羅三藐三菩提を成就したものと知るべきであり、如来と等しいものであり、世間の人々を利益し慈しみあわれむものとして、誓願の力によって、この法門を広く説き明かすために、この閻浮提の人々の間に生まれたものと知るべきである。すぐれた法による業報も、高貴な仏国土に誕生する果報をも自ら捨てて、この法門を説き明かすために、私が入滅したのちに、衆生たちを利益し、慈しみあわれむために、ここに生まれてきたものと知るべきである。

ピュアな信仰心で以って読めば、これは感動的な一節なのかも知れない。今目の前で法華経の一句一偈なりともを説いている人がいるとすれば、その人は本来は極楽浄土(厳密には違うのだが、仮にこうしておこう)で遊んでいてよい福徳の持ち主であるところを、そうでない人々を救うために、自ら望んで、敢えてどうしようもなくくだらないこの世に生まれて教えを垂れているのであり、それは仏様の慈悲ゆえなのである、と言っているのであるから。

が、ここまで述べてきたように、そのありがたい善男子あるいは善女人は、これを書いた本人たちのことを言っているのであるから、これを聞かされる側の立場としては、こんな恩着せがましい物言いもないのである。現代風に言えば「何、その上から目線!?」とでも言うべきか。

そして、この文脈に日蓮が『諫暁八幡抄』に引いた一節が登場する。

如来である私が入滅したのちに、この法門を説き明かす場合に、ひそかに内密に説くにしても、まただれか一人に対してであっても、この法門を説き明かし、知らしむるものは、如来の仕事をなすものであり、如来によって遣わされたものと思うべきである。

参考までに、妙法蓮華経の漢訳当該部を引くと以下のようになっている。

我滅度後。能窃為一人説法華経乃至一句。当知是人。則如来使如来所遣行如来事。

日蓮がこの一節を引いた意図が、伝教大師最澄こそが法華経を正しく解釈した人であること(ひいては日蓮自身がその正統継承者であること)を主張するところにあったのは明らかだが、こうして法師品原本の文脈の中でこの一節に至ってみると、幾分ニュアンスが異なることにお気づきいただけるのではないか、と思う。それをより鮮明にすべく、上引用に続く一節にも目を向けてみよう。

これに反して、薬王よ、ある悪人が悪心をもち、不善の心を起こし、害心をいだき、如来の面前で一劫の間、法を誹りののしるとしよう。しかしながら、在家であれ、出家であれ、このような法を説くものたちや、この経典を受持するものたちに対して、たとえ真実であろうとなかろうと一語でも悪言を聞かせるとするならば、私はこのほうがもっと重い悪行であると言うのである。

非常に回りくどい表現になっているが、釈迦本人を面前で一劫(いっこう/仏典で頻出する数万年に及ぶ長い時間の単位)に渡って罵倒するよりも、法華経を受持する人に一言悪口を言う方が罪深い、との主張である。一見して、前引用部に対して不自然なつながりになっているが、結局のところここで言うこのような法を説くものたちや、この経典を受持するものたちが、他ならぬこの文章を書いている本人たちだ、という前提で読めば、その背景がわかってくる。

つまり、何が原因かはここでは捨て置くとして、法華経教団の悪口を言う人が少なからず存在したのであり、彼らはそれを快く思っていなかったのである。そして彼らは、自分たちに対する悪口に対して真っ向から議論することを避け、釈迦の権威で以って(少なくとも彼らの教団内部的には)封殺してしまおうとした、ということだ。

このように考えると、日蓮の引用部に含まれる、ひそかに内密に説くにしても、まただれか一人に対してであってもとの句の意図も明らかになる。要するに、法華経教団は、彼らの信念を大きな声で公言したりたくさんの人に対して演説すると、少なからぬ悪口が返って来ることを自覚していたのだ。この挿句は、その悪口に耐えられない教団メンバーに対するフォローなのである。

あくまでもボク個人の感想であるが、何と言うか、非常にちぐはぐな話である。

以上の読みが正しければ、法華経教団は、自分たちこそが阿耨多羅三藐三菩提を得た、人々から尊敬されるべき存在である、との、高慢なまでの自意識を有し、しかも、本来自分たちは仏国土に生まれるべき尊貴な存在であるにも関わらず衆生への慈悲ゆえにに自ら望んでこの世に生まれてやったのだ、とまで嘯く一方で、それを公言すると悪口で応じられると怯え、しかも相手に反論するでもなく内輪向けに「悪口言うヤツは罪深いんや」と言って自身を慰めていたことになる。

何じゃそりゃwww

いや、失敬。しかし、こうして書き出してみると、ここで言う法華経教団の人々がいかにも幼稚で愚かな人々に見えてしまうかも知れないが、これもあくまでもボク個人の見解である、と断った上で言うが、自身失笑しつつも、これを以って彼らを蔑む気にはなれないのである。というのも、上記のような自意識が自分自身を含む現代人全般にまったく無縁である、とは到底思えないからである。たとえば、他ならぬあなた自身が、上に示したようなことをまったく考えたことがない、と断言できるだろうか。

同時に、虚心坦懐に考えれば、そのような自意識を持つことでままならぬ現実の苦しさから、完全に逃れることはできないにしても、一瞬でも安らぎを得られるのであれば、それはそれで結構なことではないか、という気すらするのだ。実際、ちょっと本屋に行って平積みされている漫画やライトノベルをザッと眺めれば、似たような観念が法華経の授記よろしく大安売りされている、と言っても過言でないのではないか。

このことの是非はともかくとして、現代社会ではなく、二千年前のインドに生きた法華経を書いた人々が、自覚的にせよ無自覚にせよ、こういうことを書き遺していた、ということは注目に値する、とボクなどは思う次第である。

と、いきなり剣呑な展開になってきたが、先はまだまだ長いので今年のところはこのへんで。

つづく>>



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