法華経転読(2-1)

2016/1/12 | 投稿者: ghost

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以前「正しくは統計を採らねば断言はできないが」と断った上で、日本で最も人口に膾炙している仏教フレーズは“南無阿弥陀仏”であろう、ということ書いた。同様に、日本で最もよく知られている仏教上のキャラクタは誰、との問いを立てると、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)……いわゆる観音様ではないか、と思う次第である。

連載第2話では、法華経第二十四章“あまねく導き入れる門戸”を取り上げる。鳩摩羅什訳の妙法蓮華経では本章を観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)第二十五と題していて、特に我が国では本章のみを取り出して“観音経”と呼ぶ場合がある。同菩薩は法華経を原典とするキャラクタではなく、法華経成立以前の大乗経典に登場していたものを法華経もまた取り入れたものであるが、今日我が国において“観音信仰”と総称されるところの「観世音菩薩の立像・座像に対する信仰」は、基本的にはこの観音経=妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五に由来する、と考えてよい。

となると察しがつくとは思うが、観音経の原典(の中村師訳)を読んでみて、果たしてそこで言われていることは、いわゆる観音信仰に通じているのか、異なるとしたら実際には何を言っていたのか、を探ろうという、まぁ、どうでもいいことが今回のテーマである。何故そんなことを?とは問わないで。とにかく、ボクはこれが楽しいのだから仕方がないのだ。

*     *     *

例によって例の如く、法華経本文に耽溺する前に、観音様についてサクッとおさらいしておこう。

法華経に限らず、漢訳経典に登場する固有・普通名詞には、サンスクリット語を音写したものと意訳したものが混在している。観世音菩薩の“観世音”は羅什による意訳であり、ゆえに他訳者による異訳がある。般若心経の冒頭に「かんじーざいぼーさー」と聴こえる部分があるが、これを漢字で書くと“観自在菩薩”となり、こちらは玄奘三蔵が訳したものとされる。歴史的には後者の方が新しく、かつ、玄奘は羅什らのそれを誤訳であると非難すらしているのだが、現在の我々の間で“観音様”という略称が通用していることから明らかなように、庶民レベルに根付いたのは妙法蓮華経のそれであった。


一般的に観音様は、何か困ったことがあったときに救いを求めると、それに応えてくれる仏様(厳密にはその名が示すように菩薩、なのであるが)とされているようである。これは、観世音が「世音を観ず=世の中で求められている声を聴き取ることができる」と解せるところからの連想もあろうかと思うが、仏典が原則その性別を論じていないのに対し、通俗的に母性イメージを投影されることが多い点も含め、西欧キリスト教圏における聖母マリア信仰に通じるところがあるのも面白い。

一方で、その聖母信仰については、新約聖書中にマリアに対する言及が実際にはほとんどなく文献・教義的な裏づけをほとんど持たない信仰であるのに対し、観音信仰は、建前上は典拠経典を有している。以下に示す狭義の観音経、妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五の末尾に配される“観音偈”がそれなのであるが。

爾時無尽意菩薩。以偈問曰。

世尊妙相具 我今重問彼 仏子何因縁 名為観世音
具足妙相尊 偈答無尽意 汝聴観音行 善応諸方所
弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億仏 発大清浄願
我為汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦
仮使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池
或漂流巨海 竜魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没
或在須弥峯 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住
或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛
或値怨賊繞 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心
或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊
或囚禁枷鎖 手足被柱械 念彼観音力 釈然得解脱
呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人
或遇悪羅刹 毒竜諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害
若悪獣囲遶 利牙爪可怖 念彼観音力 疾走無辺方
玩蛇及蝮蠍 気毒煙火燃 念彼観音力 尋声自廻去
雲雷鼓掣電 降雹濡大雨 念彼観音力 応時得消散
衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦
具足神通力 広修智方便 十方諸国土 無刹不現身
種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅
真観清浄観 広大智慧観 悲観及慈観 常願常瞻仰
無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間
悲体戒雷震 慈意妙大雲 濡甘露法雨 滅除煩悩焔
諍訟経官処 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散
妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念
念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙
具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼


繰り返される印象的な「ねんぴーかんのんりき(念彼観音力)」のフレーズのキャッチーさ加減が、観世音菩薩をしてAKB48ならぬMRK28からソロデビューさせる原動力だったのではないか、とボクなどは思うワケであるが、実はこの偈文はオリジナルの妙法蓮華経、すなわち、羅什が訳出した時点(5世紀初頭)での漢訳に、含まれていなかったことがわかっている。現在伝わる複数のサンスクリット写本は概ねほぼ同内容の偈文を含んでおり、これが7世紀以降に他の誰かによって漢訳され、妙法蓮華経に編入されたらしい。

一方で、現在流通する妙法蓮華経テキストは、文献学的に扱われる場合を除き、ほぼ例外なくこの観音偈を、さも元からそこに書かれていたかのように扱っていて、いささか不誠実なことになっている。要するに、この部分だけが観音経として、独立してあまりに人口に膾炙してしまったため、今更「実は漏れてました」と言えなくなっているのである。

この差異がなぜ生じたのか、この羅什訳の脱落部分(?)を、誰が、いつ、どのような意図で補ったのか、もよくわからないのであるが、そういう経緯であるがゆえか、漢訳に怪しげな部分もあったりする。顕著なのは、冒頭に爾時無尽意菩薩。以偈問曰。とあるように、この偈は釈迦ではなく、本章の対話相手である無尽意(むじんに)菩薩が詠んだものとなっているのだが、サンスクリット写本では、この偈が前後半に分割されており、前半部は釈迦自身が述べた偈とされていたりする。

さらには、現存サンスクリット写本の一部には、漢訳された上掲の偈に続いて、さらに未訳の一節を含むものが複数あって、これも後世の挿句が疑われている。また、中村師の翻訳を素直に信じると、どうもこの部分は、法華経を原理主義的に堅守して専修念仏を忌み嫌った日蓮にとっては皮肉なことながら、浄土三部経に基づく浄土思想からの汚染を受けた可能性がある。観世音菩薩は、法華経の登場キャラクターであると同時に、浄土経における阿弥陀仏の脇士でもあることを思い出そう。

とは言え、ボクが言いたいのは「来歴怪しげな観音偈に基づく観音信仰はおかしい」などという、狭量なことではないのである。宗派を問わない、言わば俗信レベルの日本の仏教文化に、この観音信仰が大きな影響を与えたことは疑う余地のない事実なのであり、その善悪良否はともかくとして、そこには何か、人の心に深く突き刺さるものがあったがゆえに違いないのであるから。

以上のことを念頭に置いて、次稿から、法華経第二十四章“あまねく導き入れる門戸”の精読に取り掛かることにしよう。

つづく>>



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