法華経転読(3-2)

2016/1/24 | 投稿者: ghost

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そのとき、世尊は深く真実の理を思念し、正しい智慧をもって、かの深い瞑想から立ち上がられた。立ち上がられて長老の舎利弗にお告げになった。

法華経第二章“巧妙な方便”は、以上の書き出しに始まる。

連載第1話で取り上げた第十章、第2話となる第二十五章では、釈迦……繰り返すが、法華経教団を代弁するキャラクタであって、歴史上の釈迦その人ではない……の直接の対話相手は空想上の“菩薩”だった。対して、本章から次章にかけて釈迦の相方を務めるのは、歴史上の釈迦の弟子の一人で、智慧第一、すなわち、その中にあっても智慧が最も優れていた、とされる舎利弗(しゃりほつ)である。

このように言うと、他章に比較して、第二〜三章には史実性があるのではないか、と誤解されるかも知れないが、そういうことではない。たしかに舎利弗は、既に触れた『仏本行集経』を含む他仏典群にもその名の現れる、おそらく実在したとして間違いない人物ではある。が、法華経が成立した1〜2世紀頃からすれば、伝説的な釈迦の直弟子の一人であるに過ぎない。

逆に、現代の我々は、菩薩という語を超常的な神仏の一種と考えてしまいがちであるが、法華経執筆者たちにとっては、仏となることを目指して修行している人々の中でも特に利他行に優れた人々、ひいては自分たち自身をそう呼んでいるものであって、本章に現れる舎利弗に対して、その実在性において取り立てて差異が意識されているワケではないのだ。

一方で、法華経中に舎利弗を含む、実在したと考えられる釈迦の弟子の名が現れる場合に特有の意味合い、というものは確かにある。結論から言えば、彼らは概して、既にその語意を解説した声聞・独覚を象徴するキャラクタとして登場する。

この、仏の覚りを目指すに際して採ったアプローチの差から分類される中でも、特に声聞・独覚をまとめて二乗(にじょう)と呼ぶ。天台法華教学においては、妙法蓮華経方便品第二は、この二乗の成仏可能性を保証したものであるとして、前稿でも述べたように、法華経前半(迹門)の眼目を為す要文である、とするのであるが、確かに字面上の意味合いはまさにその通りなのであるが、法華経執筆者たちの真意を慮るとき、それとは質的に異なる本音まで想像を逞しくする必要がある。


如来が悟られた仏陀の智慧ははなはだ深遠にして理解しがたく、入りがたい。一切の声聞や、辟支仏にとっては知りがたいところのものである。

釈迦が開口一番、言い出すのが上引用である。一切の声聞や、辟支仏が、ここでいう二乗に当たる。つまり、二乗には仏の智慧は決して理解できないのだ、との、いきなりの断言である。この言明は、声聞・辟支仏(独覚)がそれぞれアプローチは異なれども仏の境地を目指す人々、と理解する我々にとっては、俄かにその真意がわからなくなるものである。彼らにとって仏の智慧が理解不可能なものであるならば、いったい他の誰が理解できるというのか。

舎利弗よ、如来のみが一切の法を教え、如来のみが一切の法を知っておられるのである。

これがその答え。妙法蓮華経の同じ部分の方がより端的に示しているので引いておくと、唯仏与仏乃能究尽(お経風に読めば、ゆいぶつよぶつないのうくじん)、つまり、ただ仏のみが能く究め尽くす、と言っている。仏の智慧の真なるところは、他ならぬ仏のみの知るところであって、他の誰にも理解できないのだ、と。しかし、そんなことを言って何になるというのか。誰にも理解できない智慧、そんなものは、あってもなくても同じではないのか。

このわかりにくさは、直接的には法華経執筆者が、この主張を何を目的におこなっているのか、文面からは理解しにくいことに起因している。が、少し遡って、以下に示す「なぜ仏の智慧は二乗には理解できないのか」についての釈迦の説明から、その背景を垣間見ることはできる。

舎利弗よ、もろもろの如来・応供・正等覚者が密意をもってお説きになられた言葉を知ることはむずかしい。なぜかというと、諸仏は自ら実証された法を、種々の巧みな方便と知見と、因縁や譬喩や依り所や言辞の解釈やかりそめの設定などを用いて教え示されたからであって、それは、それぞれに適した巧みな方便によって、あれこれに執着している衆生たちを解き放たせるためである。

回りくどい言い回しになっているが、分解すれば以下のようなことである。

第一に、法華経執筆者およびその同時代人から見たとき、歴史上の釈迦が説いたとされる(実際には釈迦を起点として、連なる人々によって積み上げられてきた)教説は、その字面上の意味合いの背後に、密意、すなわち、明言はされないが、表面上のそれとは別の真の目的があるのだ、とする主張である。

第二に、諸仏、つまり、歴史上の釈迦を含む仏典成立に寄与してきた人々は、その真の目的を達成すべく譬喩かりそめの設定を示したのであって、すなわち、仏典それ自体は真の目的そのものではなく、そこへ向かうための方便である、とする主張である。これが本章のキータームとなる。

第三に、その方便はあれこれに執着している衆生たちを解き放たせるために示されたのであるが、ここで言われるあれこれとは、実はここまでに積み上げられた仏典、そのもののことを言っている。ここに、法華経教団の問題意識の中核がある。

本章の釈迦の第一声に言われた、仏の智慧を理解することが出来ない一切の声聞や、辟支仏とは、つきつめれば、法華経教団から見た自分たち以外の仏教出家者全般を指している。あくまでも法華経教団の主観である、と断った上で、彼らは自分たち以外の出家者たちを、仏典を学んだりそれについて思惟することに執着するあまり、ここに言う“仏の真の目的”を見失った人々だ、と批判的に見ていた。本章冒頭の釈迦の断言は、法華経教団のそうした問題意識を釈迦に仮託し、同様に、彼らから見て真の目的を見失っているように思われる出家者の立場を、釈迦の弟子中智慧第一と称された舎利弗に仮託したものなのである。

これが、本章を読み解く上での大前提になる。

伝統的に、天台法華教学では前述した通り、本章を二乗の成仏可能性……これを二乗作仏(にじょうさぶつ)という……を論じたものであると位置づける。つまり、この後本章では、こうして釈迦から仏の智慧の理解不可能性を指摘された二乗に対し、さらなる逆転が示されるのであるが、それは追々見ていくこととして、天台法華が本章を迹門の要とする最大の理由は、本章が説かれる以前は二乗は不作仏、つまり、決して仏にはなれない、とされていたものが、本章において二乗作仏が示されたからである、というところに尽きるのであるが、私見であるが、この解釈は根本的におかしい。

以上見て来たように、そもそも二乗不作仏それ自体を言い出したのが本章だからである。法華経以前は二乗不作仏であった、と言っているのは、法華経それ自身なのだから、これは完全な循環論法である。しかもその動機が、前述したように、法華経教団が在家からの施与を得る上でライバルであった他出家者集団に対する鞘当てであったことはほぼ疑いない。

厳密に言えば、大乗教団からの小乗教団に対する論難、という意味において、二乗不作仏は法華経の専売特許ではなく同時期の大乗教団に共通する主張であり、本章はそのバリエーションの一つということになる。今日において本章が二乗作仏の根拠経典とされるのは、ひとえに天台大師の経釈が幅広く受容されたからであって、そのことと、それぞれの説が実際の歴史上のどの段階に現れたのか、には、直接の関係はない。

では、これらの主張は、所詮は法華経教団が施与……平たく言えば、額に汗して働く人々が彼らを有り難がって恵んでくれる食べ物……の独占を図ったプロパガンダに過ぎないのであろうか。ある一面において、答えはイエスである。が、そのために彼らが弄んだ論理が、今日まで連綿と続く法華経信仰のセントラルドグマの発端となったのであり、そこには確かに、紀元1〜2世紀の人々が考え出したとは俄かに信じ難い飛躍した思考過程を見出すことができ、実際、それが後世多くの人々を善悪良否様々な実践へと誘ったのである。

果たしてそれはどのようなものであるのか、それを読み解くのが今回のテーマ、ということになるが、今日のところはこのへんで。

つづく>>



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